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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第三幕 ???
82/84

82.Lady Red(11)

 手を引っ張る。

 赤みを差した頬がアンナに伝えてくれたのは、そんな単純な方法。


 実際、我がままだと思ったミアの言動で、思い当たるのはいくつかあった。

 ずっと近くにいる、手を引っ張ろうとする、相手が折れるまで自分の主張を曲げない。


 そうしたいんだって、家へ帰って日をまたいでも、ミアはずっと繰り返していた。

 アンナを外へ連れだすために。


「ああすれば、いいのかな」


 ダイニングルールで椅子に座りながら、アンナはポツリと言葉を落としていく。


 目で追うのは、キッチンの仕事を次々とこなしていくカメリアの姿。

 しかし頭の中では、うまく表現できない自分の感情をどうにかしようと、いなくなってしまった友だちの姿を探していた。


「ザックの手をつかんで、ここに居たいって」


 アンナの舌はもう、カメリアの作るビーフシチューの味を覚えてしまった。

 感覚として近いのは、錬金術師がいた町で玩具店を見つけたときと同じ。


 あの時は、ザックの屋敷にいる幽霊の黒猫──プリムラに似ていると思ったぬいぐるみを、欲しいとねだった。

 商品には手を伸ばしたりはしていない。代わりに、ザックの服の裾は掴んでいる。


 あれと同じことをすればいいと、すぐに思い至ってはいたが、アンナの足は言うことを聞かなかった。


「なんで言えないんだろう」


 カメリアの作った夕飯が気になるのも、黒猫のぬいぐるみが欲しいのも、どちらも同じ。

 だというのに、言葉が胸に詰まる感覚は今だけ。


 何が違うのか、どう違うのか。

 少女がそう考えている内に、部屋の外から聞き慣れた声が届いてきた。


「では、後日またお伺いします。調査の援助金はその時に」

「承知した、とはまだ言えないな。来なければ、先刻の通り警察へ通報させてもらう。王子の名を騙る無礼者がいたとな」

「それで構いません。今月中というのも遅いでしょうから、二週間ですね。その間には必ず」


 ザックとパーシヴァル。その両者の声に間違いなく、アンナが部屋を抜ける前までにあった、黒い空気は抜けていた。

 だが信頼と信用の糸は緩んだままで、会話だけでも距離を感じられる。


「お話は終わりましたか、お二人とも」

「見ての通りだ、夫人。殺人鬼を追うための資金提供を、彼がしてくれることになった。事情は混雑としているが、早期解決のためだ。これをもって彼を信用に足ると判断する」

「言ってしまえば依頼の前金です」


 探偵と依頼人。その距離感を保ったままリビングルームへ顔を出した二人に、手を動かしながらカメリアは声をかけていく。


 聞き取った二人の反応はそれぞれ。

 パーシヴァルはカメリアが仕事中だと認めると、邪魔をしてはいけないと判断したのか、青年との会話が途切れたところで(きびす)を返していく。


 ザックも会話には混ざるものの、視線は席に座るアンナへ向いたまま。

 自室へ戻る様子のパーシヴァルへ軽い会釈(えしゃく)をする青年は、姿が見えなくなった辺りで、視線が重なり続けていた少女に話しかけた。


「お待たせ、アンナ。夫人の手伝いは終わったのかな?」

「ううん。途中からやらなくていいって、カメリアが」

「申し訳ありません、お客様。あの人が気を利かせて、その子をこちらに寄越したと思うのですが、少々想定外のことが」


 下宿にいる住民、全員分の料理か。

 そう想像できる数の手間をかけているカメリアは、手を止めることなくザックへ困った様子を見せていく。


 想定外とはなんだろうと、青年がアンナを見ていると、重なっていた少女の視線は段々と外されていった。


「家事をやったことがなかったんですね。包丁も食器運びも危うかったので、味見だけをして貰っています」

「それは何というか……こちらこそ、申し訳ない」

「いえ。身分の高いお嬢さんなら、そういうものかと。それよりも──」


 アンナの不器用さには、さして問題を感じていない。

 元よりを全てを一人でこなそうとしていたのだから、カメリアにとって不利益は何もなかった。


 だが、ここで初めてカメリアの手が止められる。

 前髪で瞳の色すら分からないザックをジッと見つめ、弧を描く口元にわずかな怪しさを感じつつも、彼女は次にアンナへ話題を振っていく。


「お客様。アンナさんが、言いたいことがあるそうですよ」

「アンナが?」


 パーシヴァルとの話は、一旦決着がついた。

 資金の準備をふくめ、やることができたため、屋敷へ戻る準備をしようとザックは考えていた。


 退屈をさせていたアンナを、これ以上待たせる訳にはいかない。

 適当なところで区切りをつけ、下宿から去ろうと見計らっていた青年だったが、カメリアの言葉を受けて機を逃してしまう。


「えっと、ザック。あのさ」


 アンナ自ら進んで物をいうことは、非常に珍しい。

 多くは指示されたことをそのまましているだけで、やりたいと思うことすらも、他人から見れば数えるほど。


 少女自身の色。これが見えた気がしたザックは、声と足の行く先を失ってしまう。


 そんな青年へ、迷う素振りを最初は見せていたものの、意を決して椅子から離れたアンナは近づいていく。

 手で触れられる距離まで来た彼女は、そっとザックの顔を見上げて言葉を打ち上げた。


 下からなら見える、前髪に隠された濃淡で分かれる赤い瞳に向けて。


「夕飯、食べてっちゃダメ?」


 ザックの服を控え目につまみ、上擦る声には照れを感じさせ、怒られないか心配をする不安も見て取れる。


 普段から自分がしたいことを積極的に告げないアンナが、カメリアの後押しがあったとはいえ、今こうして自分に言ってくれている。

 その事実は衝撃が強く、口を開いて呆然としてしまうザックだったが、同時にあるできごとも思い出していた。


 夏の終わりに訪れた、古い工場を抱える小さな町。

 そこで出会い、似たように自分を引き止めて来た明るい少女を。


 親友と呼べるほど彼女と長い時間を過ごしてきたのだから、アンナが近い一面を持つのも不思議ではない。

 しかしあのときのミアには抱かなかった衝撃に、ザックは動揺を心の内だけにしまいこんで、のどを震わせていく。


「アンナがそうしたいのなら、僕は構わないよ。でもいいんでしょうか、夫人」

「私の味を気に入って下さったのですから、拒む理由はありません。それに一人や二人、夕食の席に着く方が増えても手間は同じです」


 ザックとカメリア。二人の快諾(かいだく)にアンナは視線を下ろしながら、小さな喜びを見せていた。


 これであの味を存分に楽しめる。

 そう胸を期待で(ふく)らませるアンナの耳は、小さな火花が散る音を捉えていた。


 大鍋が載せられているコンロのものではない。

 周りを見渡してもそれらしいものは瞳に映らず、聞こえてきた音の先をたどろうとしたアンナが目を向けたのは、天井の先だった。

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