82.Lady Red(11)
手を引っ張る。
赤みを差した頬がアンナに伝えてくれたのは、そんな単純な方法。
実際、我がままだと思ったミアの言動で、思い当たるのはいくつかあった。
ずっと近くにいる、手を引っ張ろうとする、相手が折れるまで自分の主張を曲げない。
そうしたいんだって、家へ帰って日をまたいでも、ミアはずっと繰り返していた。
アンナを外へ連れだすために。
「ああすれば、いいのかな」
ダイニングルールで椅子に座りながら、アンナはポツリと言葉を落としていく。
目で追うのは、キッチンの仕事を次々とこなしていくカメリアの姿。
しかし頭の中では、うまく表現できない自分の感情をどうにかしようと、いなくなってしまった友だちの姿を探していた。
「ザックの手をつかんで、ここに居たいって」
アンナの舌はもう、カメリアの作るビーフシチューの味を覚えてしまった。
感覚として近いのは、錬金術師がいた町で玩具店を見つけたときと同じ。
あの時は、ザックの屋敷にいる幽霊の黒猫──プリムラに似ていると思ったぬいぐるみを、欲しいとねだった。
商品には手を伸ばしたりはしていない。代わりに、ザックの服の裾は掴んでいる。
あれと同じことをすればいいと、すぐに思い至ってはいたが、アンナの足は言うことを聞かなかった。
「なんで言えないんだろう」
カメリアの作った夕飯が気になるのも、黒猫のぬいぐるみが欲しいのも、どちらも同じ。
だというのに、言葉が胸に詰まる感覚は今だけ。
何が違うのか、どう違うのか。
少女がそう考えている内に、部屋の外から聞き慣れた声が届いてきた。
「では、後日またお伺いします。調査の援助金はその時に」
「承知した、とはまだ言えないな。来なければ、先刻の通り警察へ通報させてもらう。王子の名を騙る無礼者がいたとな」
「それで構いません。今月中というのも遅いでしょうから、二週間ですね。その間には必ず」
ザックとパーシヴァル。その両者の声に間違いなく、アンナが部屋を抜ける前までにあった、黒い空気は抜けていた。
だが信頼と信用の糸は緩んだままで、会話だけでも距離を感じられる。
「お話は終わりましたか、お二人とも」
「見ての通りだ、夫人。殺人鬼を追うための資金提供を、彼がしてくれることになった。事情は混雑としているが、早期解決のためだ。これをもって彼を信用に足ると判断する」
「言ってしまえば依頼の前金です」
探偵と依頼人。その距離感を保ったままリビングルームへ顔を出した二人に、手を動かしながらカメリアは声をかけていく。
聞き取った二人の反応はそれぞれ。
パーシヴァルはカメリアが仕事中だと認めると、邪魔をしてはいけないと判断したのか、青年との会話が途切れたところで踵を返していく。
ザックも会話には混ざるものの、視線は席に座るアンナへ向いたまま。
自室へ戻る様子のパーシヴァルへ軽い会釈をする青年は、姿が見えなくなった辺りで、視線が重なり続けていた少女に話しかけた。
「お待たせ、アンナ。夫人の手伝いは終わったのかな?」
「ううん。途中からやらなくていいって、カメリアが」
「申し訳ありません、お客様。あの人が気を利かせて、その子をこちらに寄越したと思うのですが、少々想定外のことが」
下宿にいる住民、全員分の料理か。
そう想像できる数の手間をかけているカメリアは、手を止めることなくザックへ困った様子を見せていく。
想定外とはなんだろうと、青年がアンナを見ていると、重なっていた少女の視線は段々と外されていった。
「家事をやったことがなかったんですね。包丁も食器運びも危うかったので、味見だけをして貰っています」
「それは何というか……こちらこそ、申し訳ない」
「いえ。身分の高いお嬢さんなら、そういうものかと。それよりも──」
アンナの不器用さには、さして問題を感じていない。
元よりを全てを一人でこなそうとしていたのだから、カメリアにとって不利益は何もなかった。
だが、ここで初めてカメリアの手が止められる。
前髪で瞳の色すら分からないザックをジッと見つめ、弧を描く口元にわずかな怪しさを感じつつも、彼女は次にアンナへ話題を振っていく。
「お客様。アンナさんが、言いたいことがあるそうですよ」
「アンナが?」
パーシヴァルとの話は、一旦決着がついた。
資金の準備をふくめ、やることができたため、屋敷へ戻る準備をしようとザックは考えていた。
退屈をさせていたアンナを、これ以上待たせる訳にはいかない。
適当なところで区切りをつけ、下宿から去ろうと見計らっていた青年だったが、カメリアの言葉を受けて機を逃してしまう。
「えっと、ザック。あのさ」
アンナ自ら進んで物をいうことは、非常に珍しい。
多くは指示されたことをそのまましているだけで、やりたいと思うことすらも、他人から見れば数えるほど。
少女自身の色。これが見えた気がしたザックは、声と足の行く先を失ってしまう。
そんな青年へ、迷う素振りを最初は見せていたものの、意を決して椅子から離れたアンナは近づいていく。
手で触れられる距離まで来た彼女は、そっとザックの顔を見上げて言葉を打ち上げた。
下からなら見える、前髪に隠された濃淡で分かれる赤い瞳に向けて。
「夕飯、食べてっちゃダメ?」
ザックの服を控え目につまみ、上擦る声には照れを感じさせ、怒られないか心配をする不安も見て取れる。
普段から自分がしたいことを積極的に告げないアンナが、カメリアの後押しがあったとはいえ、今こうして自分に言ってくれている。
その事実は衝撃が強く、口を開いて呆然としてしまうザックだったが、同時にあるできごとも思い出していた。
夏の終わりに訪れた、古い工場を抱える小さな町。
そこで出会い、似たように自分を引き止めて来た明るい少女を。
親友と呼べるほど彼女と長い時間を過ごしてきたのだから、アンナが近い一面を持つのも不思議ではない。
しかしあのときのミアには抱かなかった衝撃に、ザックは動揺を心の内だけにしまいこんで、のどを震わせていく。
「アンナがそうしたいのなら、僕は構わないよ。でもいいんでしょうか、夫人」
「私の味を気に入って下さったのですから、拒む理由はありません。それに一人や二人、夕食の席に着く方が増えても手間は同じです」
ザックとカメリア。二人の快諾にアンナは視線を下ろしながら、小さな喜びを見せていた。
これであの味を存分に楽しめる。
そう胸を期待で膨らませるアンナの耳は、小さな火花が散る音を捉えていた。
大鍋が載せられているコンロのものではない。
周りを見渡してもそれらしいものは瞳に映らず、聞こえてきた音の先をたどろうとしたアンナが目を向けたのは、天井の先だった。




