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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第三幕 ???
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81.Lady Red(10)

 青年と探偵のいる、熱すら落ちていくような静かな空間から離れ、アンナは独り、冷えた廊下を歩く。

 向かう先は、カメリアがいるはずの一階の部屋。

 細かな場所は教えられていないが、手当たり次第に見て回れば会えるだろうと進んでいた。


 しかし、その歩みは静かで遅い。

 アンナの心にあったのは、見知らぬ女性を探すことではなく、離れていく青年のこと。

 一歩ずつ。進めば進むほど、開いた距離は胸に影を落としていく。


 平気だよと言われてはいるが、少女にとって安心を買えるほどの値段は、彼の言葉にはなかった。


「平気じゃないよ、ザック」


 廊下の窓から見ても変わらない、うっすらと灰が混じった霧の世界。

 そんな先の分からない外側をザックと重ねつつ、いつか目にした濃淡の赤い瞳へ告げるように、アンナはポツリと声をガラスにぶつけていく。


 通り抜けないし、返っても来ない。

 どう思っているのかすら分からない、伏せられた瞳の奥。


「なんで、あんなことに興味持つの」


 仮にも王子。その立場から国民の脅威となっている犯人と事件に、関心を向けるのは理解できる。

 もしくは信用を勝ち取るため、探偵の今の仕事に助力しようとするのも分かる。

 事件の容疑者として警察に捕まったから、関係者として詳細を聞こうとしている。これも当然の権利だ。


 でも、アンナにはどうしても分からなかった。

 なぜザックが、進んで事件に関わろうとしているのかが。


「警察がいる。探偵もいる。それに部下だっている。他にやる事があるのに、なんであんなことを知りたいの」


 ザックが最優先にしているのは、怪物を探すことだと思っていた。

 なのに今の彼は、探偵と同じ景色を見ようとしている。


 見ただけで頭が真っ白になって、目を閉じても痛みが追ってくる気持ち悪い光景。

 あの顛末(てんまつ)をアンナは知りたいとは思えず、少し楽しそうな風のザックの様子も、足が後ろへ向く感覚をうっすらと覚えていた。


 分からないことを教えて欲しいと思っていたのに、今はちょっとだけ、掴んでた手が外されてしまった気がする。


「──好奇心の強い方は、往々にしてそういうものです。自分で知りたいんですよ、ああいう方たちは」

「自分で……知る?」

「ええ。何事も、自分の目で確かめたものしか信じない。そういったことに覚えはありませんか? お客様」


 分からないけれど、知りたいと思えない。

 燃え尽きた教会跡で掲げた自分の指針とは反する意思に、もやもやとしたものを被せるアンナは、気がついたら一階にたどり着いていた。


 疑問なく入った部屋は、広々とはいえないが二人は立つことのできるキッチン。

 そこには会うように指示されていたカメリアがいて、彼女はアンナがこぼしていた独り言に淡々と答えていく。


「たしか、アンナさんでしたね。大方、パーシヴァルに私の下へ行くよう言われたのでしょう? これ、味見をお願いできますか?」

「別に、いいけど。シチューだよね」

「そうです、ビーフシチュー。身勝手なあの人のせいで、今日のお肉はちょっといい物になっています」


 言葉は滑るように。でも語る表情は、コーヒー色の瞳とそれに映ったブラウンのシチューと同じように、温かみがあった。

 そんな女性から渡された小皿を、流れで受け取ったアンナは、ここまでふらふらと来てしまった理由を何となく把握する。


 コトコトとリズムを刻む大鍋、旨味が煮詰められていると分かるシチューの香り、廊下とは違う身を包む部屋の温もり。

 ほんのちょっとだけ、小腹がすいたのを自覚したアンナは、小皿に広がったシチューの雫をンッと喉に通した。


「美味しい」


 おそらく入っているだろうニンジン、ジャガイモ、タマネギといった野菜の下地。

 いい物と言われた牛肉は土台としてアンナの舌に乗っかるも、ほんのりと駆けたワインの風味が余計な重みを消している。


 自然と湧いた心からの言葉を我慢せず、真っ直ぐ打ったアンナに、カメリアは平たかった口元に丸みを帯びさせた。


「貴女に免じて、牛肉の量が減ったことは許すことにしましょう。アンナさん、この後のご予定は? 夕飯までいらっしゃるのなら、これを召し上がれますよ」

「分かんない。ザックがもう用ないって言ったら、帰るかも」


 あくまでも自分はザックに付いてきているだけ。

 行動の指針は彼が決めているから、いつまでここにいるのか分からない。


 そう告げながら小皿を返すアンナに、コンロの火を見ながらカメリアは後押しをしていく。


「では、少し我がままを言ってみては? そんなことよりも、この料理の方がそそりますよって」

「別に。そこまでするほどじゃない」


 平静を保つ言葉とは違って、背中を押されたアンナの体はカメリアへ寄っていた。

 煮込まれているビーフシチューが気になるのか、視線は大鍋に釘づけのまま。


 そんな少女の様子がおかしかったのか、小さな吐息をもらすカメリアの瞳は、氷の溶けたアイスコーヒーの色に変わっている。


「子どもがいたら、こんな感じなんでしょうね」

「子ども? 結婚してたんだ」

「もう一人の身です。子にも恵まれず、夫も二年前に亡くなりました。警察官だったのですが……殉職、したそうです」


 殉職。その言葉を肌では理解できなかったけれど、女性の左手を見て、アンナは浮かんだ疑問を沈めていく。


 深く考えなくとも、声の落ち方で想像はついた。

 納得がいっていない。諦めて、ただ過ぎていく時間を歩いているだけ。


 教会で独りだった私と同じだ。

 そう思ったアンナは、カメリアの話に耳を傾けていく。


「最期を見たのはあの人、パーシヴァルだけ。でも、何があったのかは教えてくれないんです。以来ずっと殺人鬼を追っているんですよ、あの人は」

「もしかして一人だけで?」

「そう、あの人だけでです。いったい彼の何がそうさせるのでしょうね。──夫の友人として、探偵として、それとも彼なりの正義のためでしょうか。どれを当てはめても、私にしっくりこないんです」

「復讐とか」

「どうでしょうね。私の知っている彼は、そんな熱い心は持っていません。愛に友情、誰かを助ける優しさを持っていたのは、夫の方でしたから」


 困っている人を助けよう。友情と信頼に報い、語る愛は誰に対しても向けられる。

 善良な市民を守る警察官として、カメリアの夫は理想的だ。


 だが、女性の語るパーシヴァルの印象は、隣人愛を素でいく警察官とは真逆のもの。

 知識欲だけで動く利己的な人物。とても復讐という愛に連なる感情には縁遠く、カメリアの夫を害したとされる殺人鬼に対して、探偵としての好奇心が働いているとしか思えない。


「でも、自分の目で確かめたいという思いは、確かなはずです。理由も答えも、他人の伝言だけでは納得できないのが彼です」

「カメリアは違うの?」

「私ですか。そうですね、この目で確かめたいと思ったことは勿論あります。でも、考えている内にこうも思ったんです。──どんなことをしても、あの人がいない事実は変わらないって」


 原因と過程を隅々まで知ったとしても、夫が生き返る訳ではない。

 仮に殺人鬼が捕まっても、それは同じこと。


 お伽噺(とぎばなし)ではないのだから、死者と生者が再び会えることなんてない。

 そう新月の夜を思わせる心情を吐露していくカメリアを見ていたアンナだったが、火花の音がパチンと耳をかすめ、聞き覚えがあると辺りを見回していく。


 しかしキッチンに異変はなく、コンロの火だって煮込むために弱められている。

 なら今の音はそら耳か。そう流そうとしたところで、アンナは不思議そうな顔をしたカメリアと目が合った。


「気のせいでしょうか。今、貴女の髪に赤い光が流れたような……」

「何もないよ」

「そのようですね。こんな話をしているから、悪戯する妖精でもいたのでしょう」


 きっと気のせいではない。黒い怪物を生みだすアンナの力が灯されかかっていた。

 そう判断した少女はカメリアにも見せつつ、自分の長い黒髪を確かめていく。


 綺麗なんだから毎日手入れしろと、使用人のブリジットから再三の注意を受けた長髪には、不可解な赤さは認められない。

 音が聞こえたのも一度きり。きっかけとなるものはあっても、火を起こせるほどのではないらしい。


 何も起きないという安心と、何かがあるという不確定の不安。

 その二つを載せた天秤がアンナに見せるのは、過去に現れた黒い怪物たち。


 ザックの屋敷で見た子爵なら、後で聞いた話から考えると無害だ。

 しかし教会のあった町や錬金術師のいた町で出た、異形の黒い塊たちを考えると、少女は意識の片隅に霧を見つけてしまう。


「それでアンナさん。どうしますか?」

「……えっ、どうするって。なにが」

「夕食です。あの不穏な話をしている人たちのように、自分の目で確かめたいと思いますか?」


 群れを成して迫ってくる顔の分からない誰かたち、鼻に焼けつく鉄の臭い、肌に刺さる嫌な感情のパレード。

 それが昨日目にした光景と重なり、意識を飲みこもうとする霧が濃くなるのをアンナは感じて。


 ふいにかけられた声へ、アンナはキョトンとした表情でしか反応できなかった。


「特別です。貴女のような子がいるのなら、デザートも用意しましょう」


 カメリアの程よく冷えた優しい声が、跳ねる動悸を静めていく。


 女性の言葉を一言ずつ舌で転がして、飲みこんで。

 ようやく咀嚼(そしゃく)できたアンナは、うつむきながら女性に告げていく。


「我がままって、どうやればいい」


 どうやって話を切りだすのか、どうすれば我がままになるのか、どうすれば心にある色を表現できるのか。

 いざ全てを意識してやるとなると、何も分からないと悟ったアンナは、カメリアに小さな声でしか喋りかけられなかった。


 こんなとき、ミアならどうしただろう。

 想像はできるし、かなりの我がままを自分が受けている。


 でも、そんなミアの真似ができるかと自身で問うと、アンナの頬にはコンロの弱火が移っていた。

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