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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第三幕 ???
76/84

76.Lady Red(5)

 警察の手から解放されたアンナとザックが外で目にしたのは、沈みかけている太陽だった。

 黒みが増していく藍色の空の下、二人の足は今晩泊まる宿にだけ向けられてる。


 感情の奔流、蓄積された肉体的疲労。

 そして何より、悪意と暴力に触れたことによる精神の摩耗が、食欲にすら影響を与えていた。


 とにかく安心できる場所で横になりたい。

 その一心で予約を取っていた宿に入った二人は、睡眠欲に誘われるがまま。


 ふと目が覚めた二人を迎えたのは、明かりのみが存在を許された濃霧の町。


「これは……参ったね」

「もうお昼だって。ザック、ほら」

「えっ、九時ぐらいだと思ったら正午は回ってるのか。流石に寝すぎか。いや、そうは言っても昨日は色々とあったから……ああ、駄目だ。頭が回らない」


 宿はいつかと同じ手法──アンナと兄妹として、ザックは予約を取っていた。


 部屋の中ではツインベッドの窓側を少女に譲り、昨夜の自分は早々に床へついた、そこまでは覚えている。

 怪我の痛みはまだ引いてはいないが、疲労が抜けたことで爽快感すらあり。

 だが、時間にして一日は食事を摂っていない彼は、外の光景と同じものを脳内に抱えていた。


 そんなザックを気にも留めず、アンナの視線は外の白い空間につなぎ止められたまま。


「朝からこうなのかな。ザック、首都ってこんなに霧がすごいの? ミアと一緒にいたときは、こんな霧はなかった」

「これは霧もだけれど、蒸気の灰も混ざってる。──それより、アンナ。キミ、お腹は空いていないのかい」

「あんまり。むしろ食べたくないくらい」


 ベッドの上へちょこんと座りながら、まじまじとアンナは霧を見つめていく。


 表情が描く感情の希薄さは変わらなくとも、声音は明らかに気分の高揚を示していて。

 外見通りの少女らしさを目の当たりにしたザックは、少しだけ心の重りが外れる感覚を覚えた。


 錬金術師がいた町でもそうだったが、アンナは強い関心を抱けば、今のように少女然としたものが際立つ。

 だが、そうでないときの彼女は記憶の曖昧(あいまい)さもあってか、喪失をテーマとした人形だ。


「そうか。でも、軽くでも食べようか。人に言える立場じゃないけれどね」

「ブリジットが知ったら怒るかな」

「怒るだろうね、僕を。さて、チェックアウトを済ませて、どこか適当な店で軽食を……そうしたら、予定通り人に会いに行こうか」

「外、行くの?」


 短い言葉と重なる視線。

 その二つだけで血の流れが速まったザックは、少女と部屋のいくつかへ意識を向けていく。


 室内は先ほど明かりをつけたばかり。アンナの髪は(つや)のある黒を保っていて、おそらく周囲に怪物と思われるものも恐怖を駆り立てるものもいない。


 凄惨な事件を目撃した後だから、神経質になりすぎたか。

 ただこの霧の中で行くのかと聞いただけだと、自身に言い聞かせるザックは、触れる手先で描いた作り笑いを浮かべながら頷いていく。


「ああ。むしろこういう天気の方が、彼に会いやすいかもしれないからね」


 訪ねようとしている人物を思えば、悪天候でなければ会いにくい。

 そう語るザックに、深くは事情を聴いていないアンナは首を縦にも横にも振らず、ただ関心が薄いとばかりに視線を外へ戻していった。


 ランタンが恋しくなる濃霧の町。

 蒸気の灰が混じり、雨でもないのに傘を好む女性たちを多く見かける、特別な天気。


 出かける用事がある淑女たちに(なら)い、傘を差しているアンナだったが、その様子は微笑ましい光景を生みだしていた。


 元よりアンナが荷物を持つことに抵抗を覚えていたザックは、紳士の役目と言って傘を代わりに差し。

 手ぶらとなってしまったアンナは、視界の悪さに不安を感じ、青年のエスコートに誘われるがまま。


 結果、一つの傘の下にピタリと収まる状態となった二人は、それほど広くない歩幅で街道を歩いていく。


「──しかし、姉さんには借りができちゃったな」

「レイラに? なんで」

「昨日、僕が警察から釈放されたのは、姉さんの手引きなんだ。とはいっても、あの警察署にいた部下が僕に気がついて、気を利かせてくれただけなんだけど。でも、報告はされるからさ」


 実姉のレイラを頭の片隅に置きながら、ザックは昨日のことを振り返る。


 王子であることを隠しつつ、王家に関わる重要な人物だとして助け舟を出した、あの諜報員。

 調査もなく、犯人だと断定されたザックを助けた彼の手腕は、勲章ものだと青年は手放しで()めていく。


 彼の有能さをかみ締めつつも、その対価を考えたザックの肩には、面倒という思いがいくつも積み上がっていた。


「あのスープくれた人」

「そう。彼には感謝し切れないほどだけれど、問題は姉さんだ。こういうときの姉さんは、妙な頼みをしてくるから厄介でね。一日、私に時間を渡して欲しいだとか。ひたすら趣味に付き合わされたりとか。世間でも多いらしいよ。姉に逆らえない弟というのは」


 姉に借りを作ってしまうと、弟であるザックの自由は一日奪われてしまう。

 そんな強い認識を埋めこまれていた青年は、今後のことを考えるほど気の滅入りを表に出していく。


 大変そうという感想は抱くも、アンナからすればザックたちの優しい姉というイメージしかない。

 少し強引な部分はあっても基本は物腰穏やかで、束縛とか強制とか言われても、少女は首をひねるばかり。


 想像だけで疲れを見せる様子のザックに、アンナは上目遣いで疑問をぶつけていく。


「レイラって、いつもはそうなの?」

「いつもというか、素だね。完璧な才女って思っている人が多いけれど、そんなことない。特に男は振り回されっぱなしだよ、僕も今までの婚約者もね。対等なのは彼だけじゃないかな」

「……アイザックかな。うん、そうかも」


 レイラの放つ空気感に惑わされないのは、怪物であるアイザックだけ。

 ザックのいう素のレイラがアンナには想像できず、これも誤魔化されている結果だとすれば、対等ではないと少女は静かに頷く。


「でも、三人は姉弟だね。似てる」

「僕が姉さんと? 彼ならまだしも、僕はそんなに似てないよ」

「一緒にいると落ち着ける感じ、似てる」


 ザックとレイラ、そしてアイザック。

 三者三様ではあるが、側にいた時の安心感はアンナにとって似たものがあった。


 つかず離れずのザックに、抱擁(ほうよう)に似た密着感があったレイラ。

 そして冷たいけれど絶対を信じさせてくれるような、怪物アイザック。


 どれも知ってしまえば手放すのに惜しさがあり、欠けることが想像できなくなる夢の感覚。

 そんなところが似ているとアンナが伝えるも、肝心のザックは苦笑を返すだけ。


「気のせいさ。──さて、目当ての場所に着いたよ。ここが今日訪ねる予定の人物がいる下宿だ」


 話している間に目的地へたどり着いた二人は、三階建ての質素な住宅の前で立ち止まった。

 外観は首都ではよくあるレンガ造りで、目立つものは強いていえば手入れの行き届いた観葉植物だけ。


 この首都での聞きこみを始めてから、アンナは似たような建物をいくつも見ており、すでに少女には区別がついていない。

 ザックがわざわざ注目する人物の住む場所。そんな風にはとても思えず、下宿とされる建物を見上げるアンナの瞳には、関心の色が失われていた。


「ここ、前にも来たよね」

「来てないよ。キミ、僕が怪物探しで尋ねるのは、奇抜な場所だと思ってないかい?」

「別に」

「顔に出てるよ、アンナ。……まあ、ただ聞いて回るというのは退屈だよね」


 せっかく調査に付き合ってもらっているのだから、暇をさせすぎるのも悪いと考えたザックは、なるべく早く用を終わらせようと、さっそく下宿の玄関にあるベルを鳴らす。

 ほどなくして、ゆっくりと開かれる玄関の扉とともに女性が二人の前に現れた。


「こんにちは、どなたでしょうか。お名前とご用件をお伺いしても?」


 ──霧の中で静かに咲く、(りん)とした赤い花。

 そんな印象を植えつける女性は、アンナとザックを目にしても驚きや不信感を瞳に描くどころか、淡い笑みだけを浮かべて言葉をつづっていった。

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