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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第三幕 ???
75/84

75.Lady Red(4)

 喧騒は貧民街から警察署へ。

 怪我人、何らかの容疑者、保護の名目で待たされている人。


 様々な色が入り乱れ、毒となって建物内に響く絶叫を、アンナは椅子に座りながら耳にしていた。


「……ここ、嫌いだ」


 人気の少ない待合室に通されたアンナだったが、騒ぎの様子だけは遮れず、つぶやいた声にすら届いている。

 多くの怒声が飛び交う空間で触れられているのは、貧民街で起こっていた事件のこと。


 女性が無惨な姿で見つかり、その場で容疑者を確保。

 犯行の協力をしたと思しき人物も、多数ここへ連行された。

 容疑者が連れていた二人の子どもも、無事に保護。


 そんな上辺だけの言葉は、アンナの耳にすら響かず、ただ雑音として少女は聞き流していく。


「早く帰りたい」

「ボクも、こんな場所いたくないな」


 ただいるだけで、待っているだけで。

 じんわりと心ににじんでいく、彼らの悪意の色。


 それが嫌で、希薄だった表情を崩すアンナに、隣から声をかける人物がいた。


「ぜんぜん、落ち着かない」


 不安だけが顔に描かれた、アンナよりも幼さが目立つ赤い少女。

 縁なし帽子にオーバーコート。赤がよく似合う彼女のは、アンナが見かけて追いかけた子ども本人。


 悲惨な光景を目の当たりにし、放心していたはずの少女だったが、今は顔色悪くとも会話が成り立つくらいには正気に戻っていた。


「ここにいろって、いつまでいればいいんだろう」

「保護者が来るまでって、言ってた」

「ほごしゃ? ……そっか」


 悲惨な光景を目の当たりにし、一緒にいたザックが多くの人から悪意を向けられた。

 それを引き金として、赤い発光を見せていたアンナの黒髪は、今では鳴りを潜めている。


 だからこそ、一見すると冷静沈着な少女に思えるアンナだったが、口が利けるようになったのは、この待合室に来てからだ。


「ほごしゃが来ないと、帰れないんだ」

「──そうだよ、二人とも。だから今しばらくは我慢していて欲しいな。勿論、お願いは何でも聞くよ。できる限りだけれどね」


 平然としているように見えて、心のざわつきが収まらない黒い少女。

 顔色悪くとも、瞳に光を宿して前を向けている赤い少女。


 内外が真逆の二人が、並んで言葉を投げ合っていると、一人の男性が遠い喧騒の中から姿を現した。


「それとこれは、二人にお詫びの印。大したものじゃないけれど、コーンスープを持ってきた。味はまあ、期待しないで」


 貧民街に押し寄せた警察たちと同じ制服を着こみ、しかし表情にあるのは彼らとは違う柔和な笑み。

 湯気立つマグカップを手にしていた彼は、声にも温かみを混ぜながら、不満を露にしている二人へマグカップを渡していく。


「……ありがとう」

「どういたしまして。落ち着いてくれてよかったよ。現場で見かけたときは、どうしようかと思った。特にアンナさんが」

「うん、もう平気」


 薄っすらと鼻をかすめる甘い香り、どろりとお湯に溶けた淡い黄色。

 両手でマグカップを抱え、息を吹きかけ、表面が冷めたと思えたところでアンナが中身を口にすると、喉を抜けるのは風味が飛んだ熱い液体。


 男性の言うとおり、お世辞にも質がいいとはいえず。

 しかし険悪な空間から少し遠ざけてくれる熱さは、持って来た彼の気遣いそのもの。


「こんなところにもいるんだ」

「当然さ。むしろ、民間より公的機関の方が多いよ。──ああ、お嬢さん。ここでの話は内緒にしてね」

「このお姉さんといっしょにいた人が、王子ってこと?」

「それと、私が警察に内緒の仕事をしているってこともだよ」


 アンナの隣にいる少女も、スープの温かさが身に染みるのか、よく冷まさずにマグカップへ口をつけていく。

 そんなコーンスープへ夢中になっている二人を見守る男性は、声を潜めながら、赤い少女とある約束を取りつけていた。


「ザックの手伝いをする諜報員って、大変だね」

「まあね。でも、今回はそのお陰で殿下とアンナさんを救えた。そこまで悪いこととは思ってないよ」


 喧騒の中を駆け回る警察官たちを背に、穏やかな笑みを浮かべる男性の本職は、王子アイザックの抱える諜報員。


 錬金術師がいた町のサディアス。スノードロップが引き起こした事件で、ブリジットの指示を受けていた人たち。

 警察の制服を着る男性は彼らの同僚であり、いわばザックとアンナの味方だ。


 ザックが暴力的な警察官の相手をしている間に、この男性がフォローに入ったからこそ、今こうして何ごともなくアンナは誰かの言葉に耳を傾けられている。


「ザックのあれ、平気じゃない」

「そうだね。でも、仕方がなかったんだ。殿下から、君を守ることを優先するよう指示を受けていたから、まずはそうしないと命令違反になってしまう」

「でも……」


 慕っている、敬っている。そんな相手が一方的に暴力を振るわれているところを、黙って見ている。

 それを平然と受け入れていた男性が信じられないと、視線に思いをこめてアンナは向けるも、重なった彼の瞳に浮かないものを感じた少女は、続く言葉を沈めてしまう。


 抗ってはいけない主命と本心。

 この両方を天秤にかけている彼の心は、いつも二つに裂けているようなもの。


 アンナ以上に痛みを背負う彼を、ここで責めるのは違う。

 分かっているけれど、ほのかに燃える少女の思いは、ぶつかる場所を求めていた。


「心配ならもうしなくて平気だよ、アンナ。所長と話がついた。釈放だそうだ」


 怒りをぶつけるべき本来の相手は、この場にはいない。

 しかし沸々と湧いてくる赤色に戸惑うアンナだったが、聞き慣れた声が聞こえてきて、パッと顔を上げる。


 諜報員の男性とともに向けた視線の先にいたのは、警察署の奥の部屋へ連れて行かれたはずのザックだった。


 治療は施されているも、顔には傷と()れが見え隠れしていて、体が訴える痛みのほどは引きずる足に出ている。

 それでも、いつもと変わらない作り笑いを口に描くザックは、声の調子も同じまま。


「殿下、肩をお貸しします」

「いや、いい。本当に平気だって。こんなの見た目だけで──っぅ。……その。できるなら、触らないでくれないか」

「こ、これは失礼いたしました。それでは、すぐに休める場所の手配を」

「それもいい。ここにはあまり長いしたくはないからね。ああ、宿とか車の手配もいらない。今の僕は王子じゃないこと、忘れないでくれ」

「ではこれより、従来の任に戻れと?」

「……言いたいことは分かるけれど、そうしてくれると助かるな。そのまま、ここの情報を姉さんに届けてくれ。目に余る行為が横行しているってね」

「かしこまりました」


 納得はし切れていないものの、ザックの言葉に男性は頷き、未だにやまない喧騒の中へ消えていく。

 それを見送ったザックは、全身の怪我なんてないかのように振る舞いつつ、アンナともう一人の少女へ顔を向けた。


「さて、ここから出ようか、アンナ。キミは保護者待ちかい?」

「うん。えっと……お父さん」

「そうか。その人が来るまで少し話がしたいな。キミがなぜ、あの場にいたのかを……っと。もしかして、彼がそうかな」

「うん、そうだよ」


 荒さの見える警察署は居心地が悪く、早く外の空気を吸いたい気持ちがザックにはあったが。

 その瞳が吸い寄せられるのは出入り口ではなく、大人しく椅子へ座っている赤い少女にだった。


 アンナが路地裏へ入るところを見かけたのは間違いなく、だとすれば気になるのは、貧民街へ迷わず向かったこと。

 事件の現場にたどりついたのは偶然だとしても、身なりの良さから縁があるとは思える場所ではない。


 遊びの一環か、それとも行かなくてはいけない理由があったのか。

 それを聞くために、質問の仕方を思案しようとするも、コーンスープを飲むアンナが誰かを見つけた仕草をしていて、ザックはそちらに意識を持っていかれた。


「なるほど、よく似ている親子だ。アンナ、飲み終わったかな?」

「ちょうど」

「なら早く行こう。長居をすると、妙な気を起こしそうな所長だったからね。今の内に逃げないと」


 スープを飲み終えたアンナは、マグカップを座っていた椅子の上へ。

 そのまま出入り口へ向かうザックを追いかける少女は、背中側へ小さく手を振った。


 それに応える赤い少女は、恐怖を味わった後とは思えない笑みを浮かべていく。


「バイバイ」

「なんだ……シエナ。友だち、か?」

「そうかも。遅かったね、ラルフ」

「こら、やめないか。外ではお父さんと呼べって言ってるだろう」


 出入り口へ向かう途中、ザックとアンナがすれ違った人物は、ひどくやつれていた。

 娘を目にしたときの彼の表情は見えなかったが、髪色やちらりと目にした瞳の色は、赤い少女とよく似ている。


 黒みの強い茶髪に赤褐色の瞳。

 そんな娘と瓜二つな色合いの彼は、シエナと呼んだ少女を前にして、同じように安堵(あんど)を笑みを浮かべているのだろうか。


 背中からでは想像でしか分からなく、出入り口に近づくにつれて、二人の姿は人と距離に埋もれてしまう。


「平気だよ、アンナ。僕はここにいる」

「別に。そんなつもりじゃない」


 赤い少女に後ろ髪を引かれているアンナに、ザックは苦笑しながら声をかけていく。

 いきなり何を言っているんだと少女は思うも、理由は自分の手の中にあった。


 次々と視界に入る人が変わり、今いるのは雑音ひしめく嫌いな場所。

 だからなのか。無意識にザックの下へ伸ばされたアンナの手は、彼のコートの裾を控え目につかんでいた。


「ただ、迷子が嫌なだけ」


 我ながら苦しい言い訳だと思いつつ、本心を意識したアンナは視線を下げながら、裾をつかむ手をしっかりとしたものに変えていく。

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