74.Lady Red(3)
アンナと子ども。
二人をすぐにでも貧民街から遠ざけるには、どうすればいいか。
抱きかかえていくにはザックでは力不足。伏せている王子の立場も、今このときは無力な肩書き。
なので、このまま小屋を見せない状態で場を離れ、警察へ通報する。
それが最善だと考え、混乱が見られる心境をいつもの作り笑いで覆いながら、青年はアンナたちに声をかけた。
「二人とも、そのままだ。そのまま、あの中を見ずにここから離れよう」
まるで時が止まっている。
そう思える二人に、ザックは極力優しさだけが含まれた声で接していく。
幸い、アンナたちの様子は惨状を理解し切れずに起きているもの。
意識はあり、自分の足で動くことはできるようで、ザックの後押しを抵抗なく受け入れていく。
時間はかかっても、貧民街からは抜けだしたい。
そんな焦りを心の中で暴れさせているザックだったが、貧民街の色は空模様より早く変わっていた。
「兄ちゃん、見ねえ顔だな。そっちの小さいのも。ここはアンタらみたいな、いい子ちゃんが来るとこじゃねえぞ」
「青白い女どもに飽きたからってんなら、まあ気をつけな。色々と」
「遅かろうて。よそ者さんよ、悪いことは言わない。今のうちに金目のものを捨てていけば、冬の素寒貧だけは避けられるぞい」
四方八方。どこからともなく姿を見せるのは、ザックとは真逆の人々。
替えの効かない一張羅、手元の財産は今日限り、稼ぎの頼りは悪知恵と暴力。
日なたの栄華から遠く離れた、廃れた月夜の住人。
不幸にも王国の恩恵を受けられなかった貧民街の人々が、それぞれの思惑を胸にザックたちを囲んでいた。
「……財布なら、道端に落ちることはよくある。届け出がないこともね」
「おや、聞き分けのいい坊ちゃんだ。さては、見かけによらず遊んでいるな?」
「急いでいるんだ。お金だけで解決できるのなら、その方がいい」
「ほっほっ。肝も据わっとる。じゃがあ……その態度は、気に食わん奴もおろうなあ」
力自慢をこれでもかと示す男性、騒ぎにつられて顔をのぞかせる汚れた子どもたち、建物の影から恨みのこもった視線を向ける女性。
そして彼らに見えない鎖をつないでいる、掴みどころのない老人。
ゆうに十人は超える数に囲まれたザックだったが、リーダーと思われる老人と会話する中で、場を離れる糸口を見つけていた。
老人の言うとおり、ザックは懐にある財布へ手を伸ばすも、血の気の多い男性たちの顔色に喜色は見当たらず。
提示された要求はのんだとしても、男性たちの欲求は満たされない。
そう察したザックは、せめてアンナと子どもだけは逃がす方法を考えていくも、見通しのつかない思考を悲鳴混じりの声が邪魔をした。
「──お、おい! 誰か死んでるぞ。みんな、こっち来てくれ!」
「なんだって。おい、確かに言われてみれば臭いが……クソっ。誰だ、誰がやられた!」
一瞬の間、そして興味の視線。続いて訪れる静寂は、甲高い女性の悲鳴で切り裂かれた。
大勢が集まれば当然、小屋の中の惨状は知れ渡る。
貧民街がいかにひどい場所であろうとも、住んでいるのは同じ人間。
悲鳴と恐怖が伝播して、怒りと悲しみに二分する。
どうして、なぜ。小屋にいた誰かと知り合いだったのか、絶望も集団の色に加わっていく。
居場所へまぎれこんだ異物に構っている場合ではない。
そんな思いが住民たちへ広がり、それをチャンスだと考えたザックは、今の内にとアンナと子どもの背中を押して走ろうとする。
しかし──
「待ちな、お前さん。こんな場所に慣れてる坊ちゃんが、何を急ぐって?」
「何って、この子たちをここから遠ざけるんですよ。警察への通報もいる。急ぐ理由なんてそれだけですよ」
「と、言って現場から逃げる。なんてこともありえるじゃろ」
「笑えない冗談だ。僕が犯人だというのは短絡的すぎる。いや、怪しいのは重々理解しているつもりだけれど、早計というか……」
「金も口封じのため、とも取れるのお」
「待ってくれ、ご老人。この空気でそういかにもなことを言われると、周りも真に受けるというか」
よそ者、妙に焦りを見せる怪しい風体の青年、近場に悲惨な状況。
犯罪が跋扈する貧民街に訪れ、潤沢な金銭を隠そうともしない。
今の自分から受け取れる要素を切りだすと、ザック自身ですら犯人と考えるのは無理もないと頷いてしまう。
しかも混乱に満ちた中、冷静な老人の言葉は住人たちの心に染みていき、次第に空気の色は統一されていった。
「お前か、お前のせいなのか」
赤を濃く深く塗り重ねた、どす黒い視線。
それがザックの全身を射抜き、痺れにも似た感覚を青年に植えつけていく。
誤解と伝えるにはあまりにも状況が悪く、聞く耳なんて持ってくれる雰囲気もない。
それでも言葉以外は彼らに向けられないと苦悩するザックへ、さらに追い詰めていく事態が彼の側で起こっていた。
「アンナ。キミ、また髪の色が……いや、想定はできた。僕のミスだ」
住人たちの顔色に呼応するかのように、アンナの髪色もまた変化が訪れる。
黒の長髪へ流れる、火入れされた炭のような赤い光線。
アンナの生みだす黒い怪物が現れる前兆。
薄暗い空間、近くに怪物、好感を持っている人間の喪失。いわゆるトラウマを起点としているのなら、強い不安やショックからつながってもおかしくはない。
小屋の中の惨状は、恐怖の記憶と簡単に紐づけられるほど、悲惨だったのだから。
「やることが多すぎる。──分かった。ひとまず僕はここからは動かない。だから誰か、代わりに警察へ行ってくれ」
「必要ねえよ。なにせ、もう来てるからな」
無理に逃げようと画策すれば、より怪しさが増す。
そう判断して両手を挙げるザックだったが、警察の名前を出した途端、彼の体が宙へ浮いた。
受け身をとる間もなくザックは地面へ転がり、頬は腫れて唇からは赤いしずくがたれていく。
続くように倒れた青年へ、住民たちが群がる──かのように思えたが、黒く染まった彼らの瞳は、たちまち青ざめていった。
「呼ばれて来てやったぜ、クズが。殺人現場にいる怪しい人物。まさにお前のことだ」
振り返る途中のザックへ叩きこまれた、右の拳。
そんな腕っぷし自慢の貧民街の住民と、大差のない暴力を振るったのは、ザックが求めていた警察の制服を着た大男だった。
しかも彼は一人じゃない。遅れて同じ制服を着た人物が何人も現れ、無造作に警棒を振るっていく。
その矛先は警告をこめた空中ではなく、老若男女問わずの貧民街の住人へだった。
「首都警察、現着した。殺人が起きたらしいが面倒だ。まとめてしょっ引け。話なんざ、刑務所でいくらでも聞いてやる」
「……っ。ずいぶんと荒っぽいな、キミたちは」
「テメェは黙ってろ、殺人鬼。金持ちの道楽なんじゃないかって噂があったが、マジだったみたいだな」
「誤解だ。少しは僕の話を──」
「だから、うるせんだよ。ここでテメェを逃がしたら、警察の威信は地のどん底だ」
ザックが口を開けば、飛んでくるのは拳か警棒。
調査すらせず、ただ自身の直感だけでザックが犯人だと決めた警察は、青年の口数が減ると満足そうに視線を別へ向けた。
彼が瞳に収めたのは、アンナともう一人の赤い子ども。
二人を見て、にんまりと下卑た笑いを浮かべた警察は、そのままザックへ顔を近づけて言い放つ。
「拉致誘拐も罪状に乗りそうだな、クソ野郎」
怪しい人物が子ども二人を連れている。
言い訳無用と勝ち誇る警察に対して、前髪で隠れたザックの瞳には、諦めと次の展望の二色が宿っていた。




