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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第三幕 ???
74/84

74.Lady Red(3)

 アンナと子ども。

 二人をすぐにでも貧民街から遠ざけるには、どうすればいいか。


 抱きかかえていくにはザックでは力不足。伏せている王子の立場も、今このときは無力な肩書き。

 なので、このまま小屋を見せない状態で場を離れ、警察へ通報する。


 それが最善だと考え、混乱が見られる心境をいつもの作り笑いで覆いながら、青年はアンナたちに声をかけた。


「二人とも、そのままだ。そのまま、あの中を見ずにここから離れよう」


 まるで時が止まっている。

 そう思える二人に、ザックは極力優しさだけが含まれた声で接していく。


 幸い、アンナたちの様子は惨状を理解し切れずに起きているもの。

 意識はあり、自分の足で動くことはできるようで、ザックの後押しを抵抗なく受け入れていく。


 時間はかかっても、貧民街からは抜けだしたい。

 そんな焦りを心の中で暴れさせているザックだったが、貧民街の色は空模様より早く変わっていた。


「兄ちゃん、見ねえ顔だな。そっちの小さいのも。ここはアンタらみたいな、いい子ちゃんが来るとこじゃねえぞ」

「青白い女どもに()きたからってんなら、まあ気をつけな。色々と」

「遅かろうて。よそ者さんよ、悪いことは言わない。今のうちに金目のものを捨てていけば、冬の素寒貧だけは避けられるぞい」


 四方八方。どこからともなく姿を見せるのは、ザックとは真逆の人々。


 替えの効かない一張羅(いっちょうら)、手元の財産は今日限り、稼ぎの頼りは悪知恵と暴力。

 日なたの栄華から遠く離れた、廃れた月夜の住人。


 不幸にも王国の恩恵を受けられなかった貧民街の人々が、それぞれの思惑を胸にザックたちを囲んでいた。


「……財布なら、道端に落ちることはよくある。届け出がないこともね」

「おや、聞き分けのいい坊ちゃんだ。さては、見かけによらず遊んでいるな?」

「急いでいるんだ。お金だけで解決できるのなら、その方がいい」

「ほっほっ。肝も据わっとる。じゃがあ……その態度は、気に食わん奴もおろうなあ」


 力自慢をこれでもかと示す男性、騒ぎにつられて顔をのぞかせる汚れた子どもたち、建物の影から恨みのこもった視線を向ける女性。

 そして彼らに見えない鎖をつないでいる、(つか)みどころのない老人。


 ゆうに十人は超える数に囲まれたザックだったが、リーダーと思われる老人と会話する中で、場を離れる糸口を見つけていた。


 老人の言うとおり、ザックは懐にある財布へ手を伸ばすも、血の気の多い男性たちの顔色に喜色は見当たらず。

 提示された要求はのんだとしても、男性たちの欲求は満たされない。

 そう察したザックは、せめてアンナと子どもだけは逃がす方法を考えていくも、見通しのつかない思考を悲鳴混じりの声が邪魔をした。


「──お、おい! 誰か死んでるぞ。みんな、こっち来てくれ!」

「なんだって。おい、確かに言われてみれば臭いが……クソっ。誰だ、誰がやられた!」


 一瞬の間、そして興味の視線。続いて訪れる静寂は、甲高い女性の悲鳴で切り裂かれた。


 大勢が集まれば当然、小屋の中の惨状は知れ渡る。

 貧民街がいかにひどい場所であろうとも、住んでいるのは同じ人間。


 悲鳴と恐怖が伝播(でんぱ)して、怒りと悲しみに二分する。

 どうして、なぜ。小屋にいた誰かと知り合いだったのか、絶望も集団の色に加わっていく。


 居場所へまぎれこんだ異物に構っている場合ではない。

 そんな思いが住民たちへ広がり、それをチャンスだと考えたザックは、今の内にとアンナと子どもの背中を押して走ろうとする。


 しかし──


「待ちな、お前さん。こんな場所に慣れてる坊ちゃんが、何を急ぐって?」

「何って、この子たちをここから遠ざけるんですよ。警察への通報もいる。急ぐ理由なんてそれだけですよ」

「と、言って現場から逃げる。なんてこともありえるじゃろ」

「笑えない冗談だ。僕が犯人だというのは短絡的すぎる。いや、怪しいのは重々理解しているつもりだけれど、早計というか……」

「金も口封じのため、とも取れるのお」

「待ってくれ、ご老人。この空気でそういかにもなことを言われると、周りも真に受けるというか」


 よそ者、妙に焦りを見せる怪しい風体の青年、近場に悲惨な状況。

 犯罪が跋扈(ばっこ)する貧民街に訪れ、潤沢(じゅんたく)な金銭を隠そうともしない。


 今の自分から受け取れる要素を切りだすと、ザック自身ですら犯人と考えるのは無理もないと頷いてしまう。

 しかも混乱に満ちた中、冷静な老人の言葉は住人たちの心に染みていき、次第に空気の色は統一されていった。


「お前か、お前のせいなのか」


 赤を濃く深く塗り重ねた、どす黒い視線。

 それがザックの全身を射抜き、痺れにも似た感覚を青年に植えつけていく。


 誤解と伝えるにはあまりにも状況が悪く、聞く耳なんて持ってくれる雰囲気もない。

 それでも言葉以外は彼らに向けられないと苦悩するザックへ、さらに追い詰めていく事態が彼の側で起こっていた。


「アンナ。キミ、また髪の色が……いや、想定はできた。僕のミスだ」


 住人たちの顔色に呼応するかのように、アンナの髪色もまた変化が訪れる。


 黒の長髪へ流れる、火入れされた炭のような赤い光線。

 アンナの生みだす黒い怪物が現れる前兆。

 薄暗い空間、近くに怪物、好感を持っている人間の喪失。いわゆるトラウマを起点としているのなら、強い不安やショックからつながってもおかしくはない。


 小屋の中の惨状は、恐怖の記憶と簡単に紐づけられるほど、悲惨だったのだから。


「やることが多すぎる。──分かった。ひとまず僕はここからは動かない。だから誰か、代わりに警察へ行ってくれ」

「必要ねえよ。なにせ、もう来てるからな」


 無理に逃げようと画策すれば、より怪しさが増す。

 そう判断して両手を挙げるザックだったが、警察の名前を出した途端、彼の体が宙へ浮いた。


 受け身をとる間もなくザックは地面へ転がり、頬は()れて(くちびる)からは赤いしずくがたれていく。

 続くように倒れた青年へ、住民たちが群がる──かのように思えたが、黒く染まった彼らの瞳は、たちまち青ざめていった。


「呼ばれて来てやったぜ、クズが。殺人現場にいる怪しい人物。まさにお前のことだ」


 振り返る途中のザックへ叩きこまれた、右の(こぶし)

 そんな腕っぷし自慢の貧民街の住民と、大差のない暴力を振るったのは、ザックが求めていた警察の制服を着た大男だった。


 しかも彼は一人じゃない。遅れて同じ制服を着た人物が何人も現れ、無造作に警棒を振るっていく。

 その矛先は警告をこめた空中ではなく、老若男女問わずの貧民街の住人へだった。


「首都警察、現着した。殺人が起きたらしいが面倒だ。まとめてしょっ引け。話なんざ、刑務所でいくらでも聞いてやる」

「……っ。ずいぶんと荒っぽいな、キミたちは」

「テメェは黙ってろ、殺人鬼。金持ちの道楽なんじゃないかって噂があったが、マジだったみたいだな」

「誤解だ。少しは僕の話を──」

「だから、うるせんだよ。ここでテメェを逃がしたら、警察の威信は地のどん底だ」


 ザックが口を開けば、飛んでくるのは拳か警棒。

 調査すらせず、ただ自身の直感だけでザックが犯人だと決めた警察は、青年の口数が減ると満足そうに視線を別へ向けた。


 彼が瞳に収めたのは、アンナともう一人の赤い子ども。

 二人を見て、にんまりと下卑(げび)た笑いを浮かべた警察は、そのままザックへ顔を近づけて言い放つ。


拉致(らち)誘拐(ゆうかい)も罪状に乗りそうだな、クソ野郎」


 怪しい人物が子ども二人を連れている。

 言い訳無用と勝ち誇る警察に対して、前髪で隠れたザックの瞳には、(あきら)めと次の展望の二色が宿っていた。

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