73.Lady Red(2)
運動が得意ではないので、すぐに相手を見失うも、見られていると気がついたときに感じた胸のざわつきを頼りに、右へ左へ。
伝統と機械が入り混じった町並みから、一転して寂れた古い風景に。
路地を抜けた先でそんな景色を目にしたアンナだったが、それでも足を止めない。
「いた、よね」
アンナが目にした赤い背中。
いったい誰なのか、なぜわたしたちを見ていたのか、どうして逃げるように姿を消したのか。
尽きない疑問は進むごとに増えていき、幻のような背中に豊かな色を感じていく。
「うん、いた……はず」
整った町並みは背中側へ遠ざかり、今となっては乱雑で荒れ果てた場所が少女の行く道。
旧市街、というには暗すぎる。
建造物は痛み、咳きこみたくなる空気が満ち、道端には人もゴミも等しく転がっている。
──貧民街。
地位に名誉、職に金銭。人並みの生活といわれる夢から弾かれた、国の裏側。
そんな今までに触れたことのない場所を、意識もせずにアンナは駆け抜けていた。
「えっと。たぶん、こっち」
少女が頼りにしているのは、目に焼きついた赤い背中から感じた違和感。
胸にかかった霧の濃さだけで判断し、深みが増していくと思う方向へ。
そうして薄暗い視線に囲まれていたことに気づかず、違和感に導かれるままアンナがたどり着いたのは、壊れそうという印象の強い小さな家の集まり。
その内の一つとしてあった、古い小屋の前で立ち止まる。
「いた」
息を切らすアンナが捉えたのは、自身より低い背丈の人物。
縁なしの帽子にオーバーコート。これらの装いは全て、空の青さとは逆の赤。
一瞬しか見えなかったとはいえ、相手が逃げた人物だと考えるアンナは、慎重に近づいていく。
「……どうしよう。なにも考えてない」
歩きながら息を整え、いざ声をかけるその時に迫ったところで、アンナはふと我に返る。
逃げたから追いかけた。しかし、どうしてという疑問だけが先行していたため、走っているときは他の可能性は思いついていなかった。
その上、初対面の相手に進んで話しかけるという、アンナからすればほとんど経験したことのない事態に、彼女は喉まで来ていた声を、一度飲みこみ直す。
「でも、うん。考えても仕方ない」
どう切りだせばいい、なにから聞けばいい。
そう逡巡したところでアンナの出した結論は、思いついたところから全て聞くだった。
「ねえ、どうして逃げたの?」
まずは路地へ走っていった理由から。
そう考えて相手に話しかけるも、名前すら分からない人物は、視線を小さな小屋に向けたまま。
近寄ったアンナがまず認識したのは、相手が自分より年下であろう子どもということ。
そして子どもから見て取れるのは、何かに視線を釘づけにされて呆然としている表情。
気にされていない。そうと分かったアンナは、続きを言えずに黙ってしまう。
「──あれ」
「この中? あれって何のこと」
一人で来てしまった後悔と、早くザックに来て欲しい気持ち。
両方がアンナの心に広がっていき、落ち着かない少女は辺りを見回しながら言葉を探す。
そんな少女の心境を知ってか知らずか、ようやく人らしい反応を見せた子どもは、視線の先にある小屋を指差した。
アンナがつられて小屋に目を向けると、まず少女の瞳に映ったのは、開かれたままの扉と薄暗い室内。
あの中には自分は入ってはいけない。
入ってしまえば、また黒い怪物たちを生みだしてしまうかもしれない。
そう危機感を募らせ、注視はせずに子どもへ向き直ろうとするも、別の感覚がアンナの顔を離さなかった。
「なに、この臭い。鉄……?」
ツンと鼻を通る鉄の臭い。
その不快さに珍しく表情を崩し、原因を確かめようと、アンナはそらしかけた視線を小屋に戻す。
人が寝ている。大人で、たぶん女性。
ベッドではなく床へ直接腰を下ろし、背中は壁に預けている。
教会にいたときの自分と似たようなもの。そうアンナは考えるも、嗅覚は別の事実に紐づいていく。
「──アンナ! やっと追いついた。その子がさっき言った人かい? キミよりもまだ小さい子じゃないか。色々言いたい事はあるけれど、二人とも、早くこの場から去ろう。ここは子どもが来る場所じゃない。特にキミたちみたいな女の……子が……」
アンナも、そして赤い子どもも。
放心したまま小屋の前から離れず、遅れて現れたザックの声にも反応しない。
貧民街で子ども二人。
そんな獅子の群れに子羊を放った状態は不味いと焦るザックは、声を荒げさせながら、来た時以上の速さで二人に近寄った。
少しでも目を離してしまったことを後悔しながら、二人の手を取り、ザックは来た道を戻ろうとする。
しかし両者とも同じ方向を見ていることが気になり、彼もまた視線の糸に導かれるまま、薄暗い小屋の中へ目を向けた。
「見ちゃ駄目だ」
二人が何を見ていたのか、一目で理解したザックは、迷いなく身をていして視界を遮っていく。
そのまま腕の中に抱きよせ、小屋を全身で隠した青年は、少女たちに聞こえないよう空を見上げて声をもらす。
「最悪だよ。なんでこんなところに、死体があるんだ」
天から見届けているだろう神さまへ、恨みつらみをこめた小さなため息。
一刻でも早く、背中側にある光景から二人を遠ざけたい。
そう強く願うザックは、アンナたちを強く抱きしめながら、この後どうするかを考えていた。




