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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第三幕 ???
73/84

73.Lady Red(2)

 運動が得意ではないので、すぐに相手を見失うも、見られていると気がついたときに感じた胸のざわつきを頼りに、右へ左へ。


 伝統と機械が入り混じった町並みから、一転して寂れた古い風景に。

 路地を抜けた先でそんな景色を目にしたアンナだったが、それでも足を止めない。


「いた、よね」


 アンナが目にした赤い背中。

 いったい誰なのか、なぜわたしたちを見ていたのか、どうして逃げるように姿を消したのか。


 尽きない疑問は進むごとに増えていき、幻のような背中に豊かな色を感じていく。


「うん、いた……はず」


 整った町並みは背中側へ遠ざかり、今となっては乱雑で荒れ果てた場所が少女の行く道。


 旧市街、というには暗すぎる。

 建造物は痛み、咳きこみたくなる空気が満ち、道端には人もゴミも等しく転がっている。


 ──貧民街。

 地位に名誉、職に金銭。人並みの生活といわれる夢から弾かれた、国の裏側。


 そんな今までに触れたことのない場所を、意識もせずにアンナは駆け抜けていた。


「えっと。たぶん、こっち」


 少女が頼りにしているのは、目に焼きついた赤い背中から感じた違和感。

 胸にかかった霧の濃さだけで判断し、深みが増していくと思う方向へ。


 そうして薄暗い視線に囲まれていたことに気づかず、違和感に導かれるままアンナがたどり着いたのは、壊れそうという印象の強い小さな家の集まり。

 その内の一つとしてあった、古い小屋の前で立ち止まる。


「いた」


 息を切らすアンナが捉えたのは、自身より低い背丈の人物。

 縁なしの帽子にオーバーコート。これらの装いは全て、空の青さとは逆の赤。


 一瞬しか見えなかったとはいえ、相手が逃げた人物だと考えるアンナは、慎重に近づいていく。


「……どうしよう。なにも考えてない」


 歩きながら息を整え、いざ声をかけるその時に迫ったところで、アンナはふと我に返る。

 逃げたから追いかけた。しかし、どうしてという疑問だけが先行していたため、走っているときは他の可能性は思いついていなかった。


 その上、初対面の相手に進んで話しかけるという、アンナからすればほとんど経験したことのない事態に、彼女は喉まで来ていた声を、一度飲みこみ直す。


「でも、うん。考えても仕方ない」


 どう切りだせばいい、なにから聞けばいい。

 そう逡巡したところでアンナの出した結論は、思いついたところから全て聞くだった。


「ねえ、どうして逃げたの?」


 まずは路地へ走っていった理由から。

 そう考えて相手に話しかけるも、名前すら分からない人物は、視線を小さな小屋に向けたまま。


 近寄ったアンナがまず認識したのは、相手が自分より年下であろう子どもということ。

 そして子どもから見て取れるのは、何かに視線を釘づけにされて呆然としている表情。


 気にされていない。そうと分かったアンナは、続きを言えずに黙ってしまう。


「──あれ」

「この中? あれって何のこと」


 一人で来てしまった後悔と、早くザックに来て欲しい気持ち。

 両方がアンナの心に広がっていき、落ち着かない少女は辺りを見回しながら言葉を探す。


 そんな少女の心境を知ってか知らずか、ようやく人らしい反応を見せた子どもは、視線の先にある小屋を指差した。

 アンナがつられて小屋に目を向けると、まず少女の瞳に映ったのは、開かれたままの扉と薄暗い室内。


 あの中には自分は入ってはいけない。

 入ってしまえば、また黒い怪物たちを生みだしてしまうかもしれない。


 そう危機感を募らせ、注視はせずに子どもへ向き直ろうとするも、別の感覚がアンナの顔を離さなかった。


「なに、この臭い。鉄……?」


 ツンと鼻を通る鉄の臭い。

 その不快さに珍しく表情を崩し、原因を確かめようと、アンナはそらしかけた視線を小屋に戻す。


 人が寝ている。大人で、たぶん女性。

 ベッドではなく床へ直接腰を下ろし、背中は壁に預けている。


 教会にいたときの自分と似たようなもの。そうアンナは考えるも、嗅覚は別の事実に紐づいていく。


「──アンナ! やっと追いついた。その子がさっき言った人かい? キミよりもまだ小さい子じゃないか。色々言いたい事はあるけれど、二人とも、早くこの場から去ろう。ここは子どもが来る場所じゃない。特にキミたちみたいな女の……子が……」


 アンナも、そして赤い子どもも。

 放心したまま小屋の前から離れず、遅れて現れたザックの声にも反応しない。


 貧民街で子ども二人。

 そんな獅子の群れに子羊を放った状態は不味いと焦るザックは、声を荒げさせながら、来た時以上の速さで二人に近寄った。


 少しでも目を離してしまったことを後悔しながら、二人の手を取り、ザックは来た道を戻ろうとする。

 しかし両者とも同じ方向を見ていることが気になり、彼もまた視線の糸に導かれるまま、薄暗い小屋の中へ目を向けた。


「見ちゃ駄目だ」


 二人が何を見ていたのか、一目で理解したザックは、迷いなく身をていして視界を(さえぎ)っていく。

 そのまま腕の中に抱きよせ、小屋を全身で隠した青年は、少女たちに聞こえないよう空を見上げて声をもらす。


「最悪だよ。なんでこんなところに、死体があるんだ」


 天から見届けているだろう神さまへ、恨みつらみをこめた小さなため息。


 一刻でも早く、背中側にある光景から二人を遠ざけたい。

 そう強く願うザックは、アンナたちを強く抱きしめながら、この後どうするかを考えていた。

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