71.Snow anthus(9)
秋が深まり、窓の外から聞こえてくるのは冬の吐息。
場所はザックの屋敷。アンナは応接間から寒空の下を眺め、瞳に関心の薄さを塗りながらも、飛んだ木の葉すら目で追っていた。
「アンナ。お茶の準備ができたから、こっちへいらっしゃい」
庭先で動くものを呆然と捉える、深い紫の瞳。
その視線は女性の声につられて室内に向き、興味という光を取り戻していく。
アンナがまず目にしたのは、ティーポットを手にした使用人ブリジット。
彼女の手元から香る紅茶の匂いに惹かれ、少女の足は自然と窓から離れていった。
そのままふらふらと、ティーカップが用意されたテーブル席にアンナが収まると、正面に待っていたのは気さくな笑みを浮かべた男性だった。
「今のアンナ嬢を見ていると、昔を思い出すよ。ティータイムの時だけは、トリアも素直に返事をしてくれていたなって」
「今回の件で相当老けたご様子ですね、ランスト様」
「本調子じゃないだけだ。辛辣なのは変わらないが、昔はもう少し控え目だったろう」
「あら、素を見せてもいいお相手だと思っているのですが。お嫌いでしたか」
「嬉しいことだが後日にしてくれ。こちらは半分仕事なんだ」
アンナとブリジット。二人を暗い青の瞳に収めるのは、休日をゆったりと過ごす格好をしたランストだった。
発言通りに覇気が薄く、声音のトーンも穏やかなものだが、席に座る様子は真剣そのもの。
それを含みのある笑顔で応対するブリジットは、手だけが使用人としての仕事をしていた。
「その服装で菓子店の箱を持ってきたのは、仕事には見えませんけどね」
「休日返上。訪ねに行くのなら仕事をこなして来いと、こき使われているだけさ。王女殿下のご命令とあらば、仕方がないだろう」
「王女殿下、ね。別れたと聞いたときは、てっきり退職するものかと」
「考えたさ。殿下の傍にいること自体が、私には相応しくないとすらね。けれど、そうしたら本当に失望されるとも思ったんだ。それが怖くて、今がある」
王女と職員、上司と部下、恋人同士。
レイラ王女との関係性はどの立場が、一番収まりが良かったのか。それを考えたランストの結論は、まだ出せていない。
しかし完全につながりの糸が切れることこそが、もっとも恐れることだと一つの答えが心に咲き、ランストは破局した後でもレイラ王女の部下として今を生きている。
「貴方の場合、積極性に欠けているだけでしょう。だいたい……あら、アンナ。どうかした?」
「ヴィクトリアの従兄の仕事って、配達?」
ランストにとって、恋仲が破綻したレイラ王女の下に居続けることは、人生の分岐点。
とても重要なことだが、それを脇で聞いているアンナにとっては、興味の対象としては魅力が薄かった。
黒の少女の今一番の注目は、取り分として目の前に置かれたイチゴのタルト。
ザックの屋敷に向かう都合、手ぶらではまずいと考えたランストが買ってきた物で、アンナの目は先ほどから皿の上に捕らわれていた。
「レイラ殿下から、これが気になってると聞いてね。君へのお土産の方が、アイザック殿下が喜ぶと思って買ってきたんだ。あと、そろそろ名前覚えてくれないかな」
「うん。ミアが言ってたやつだ、たぶん。えっと、ラストだっけ」
「ランスト。いや、認識はされているみたいだから、構わないけれど」
ありがと、ランスト。
そんな短いお礼を告げるも、アンナの視線がタルトの他に移ることはなく、手に握られた銀のフォークが刻一刻と皿へ近づく。
タルト生地を飾るのは、控え目な甘さとは対称的な量のクロテッドクリーム。
そこへ二等分にされた新鮮なイチゴが、花弁のように咲き誇っている。
小分けにされたタルトは、アンナのフォークに抵抗せず、さらに小さなイチゴの花束となると、断面には見事な色相を生みだしていた。
「ここまで喜んでくれるとは思わなかったな。──そういえば、アイザック殿下は所用で手が離せないと言っていたが、休憩を挟めないほどなのか」
「日に何度もは難しい程度よ。公務にヘブンスコール親子、ミッドデイボーン男爵の処遇をどうするかもあるし、あのハンドベルの件もある」
「……私や操られていた人たちの今後も、だったな。両殿下にはご迷惑をお掛けしている」
「幸い、どれも時間がかかるものだから、今日中という訳でもないし。待っていれば、お会いできますよ」
ブリジットとランストが話しを進めていく中で、アンナはイチゴのタルトに夢中のまま。
小さな口でタルトを迎え、一口大でも収まらないそれを頬張る少女は、黙々と咀嚼していく。
落ち着いた甘さを主張をするクリームと、新鮮なイチゴの酸味が肩を組み。
アンナの口の中で広がるのは、適度に後を引く旨味のマリアージュ。
一口が少なくとも充分な威力を見せるタルトに、アンナはさらに言葉を喉の奥底へ追いやっていく。
「男爵……伯父はどうなるだろうか」
「購入したハンドベルで、気がおかしくなっていた。それは認められていますから、酷いことにはならないでしょう。ただそれを踏まえても、減刑以上は望めないそうです。殿下捜索の指示で、操られていない人にまでこの件が知られているのが、痛手だとか」
「そうか。レイラ殿下も同じことを仰っていたが、変わりなさそうなんだな」
「アンナの話からすれば無罪なのよね、男爵は。──このこと、貴方の従妹には伝わっているの?」
「トリアにかい? 学校の無断欠席の穴埋めが大変みたいだし、下手な希望を見せるのも辛いから、決定まで時間がかかるとしか」
イチゴのタルトを味わうアンナの手が、ヴィクトリアの名前が出たことで、ピタリと止まる。
フォークをくわえたまま、少女はランストへ上目遣いをしていく。
まったりと、淹れたての紅茶の香りを楽しんでいたランストだったが、アンナの視線に気がつくと、一度舌を湿らせてから言葉を続けた。
「あの子は元気しているよ。まあ、今は取り繕っているだけだろうけどね。通っていた学校には、一週間も連絡すらなかったんだ。トリアは真面目だから、きっと進んで補習とか……っと、そうだ。ブリジット、アンナ嬢は通学とかしていないのかい?」
「させた方がいいと私も思ってるけど、体質的に無理よ」
「そうか、そうだよな」
ザックどころか、ブリジットもいない。
国家機密に該当するため、学校関係者でもアンナの事情を知れる人物はかなり限られる。
そんな場所へ単身で向かわせるには不安しかなく、ザックたちの意図をくんだランストは、申し訳なさそうに肩を落とした。
「……学校」
アンナにとって、言葉だけは知っている未知の場所。
いつかの日にミアの口からも出たことがある、教育をするための公共施設。
ぼんやりと興味が湧くも、屋敷でブリジットたちから教えられているものと変わらないのなら必要ない。
そう考えるアンナは、浮かんでいた軽い気持ちを払い除け、また興味をタルトへ向けていく。
「処遇ならあの親子は? 怪物が関わっているから、私の所にはなかなか情報が回ってこなくて」
「ヘブンスコール親子なら、盗品の扱いと誘拐で罪に問われているけれど、投獄まではいかないそうよ」
「やはり例の怪人を考慮してか」
「みたいね。特に若い方が怪物と密接な関係を持っているから、執行猶予と政府からの定期的な観察を受けること。これで手が打たれるらしいわ」
「両殿下の思惑を知れば、納得できる采配だね。しかし他の貴族たちの不満は──」
「ランスト様。これ以上の込み入った話は、使用人の口からは申せません」
答えられるのはクリスティーとヴァレンタインの親子、両者の大まかな処遇だけ。
暗にそれ以降のことは協議の最中と告げるブリジットは、鋭さのある緑の眼差しに力をこめた。
ミッドデイボーン男爵による、アイザック王子暗殺未遂。
魔笛の怪人による、二人の少女の誘拐。
この二つの事件が終息してから、まだ半月も経っていない今。
全てのことに決定を下すには時間が足りていないと、ブリジットの言葉からランストは改めて現状を認識した。
「そうだな、すまなかった。なら、あのハンドベルはどうなったのか。それは聞けるだろうか」
「あら、初めからそれが本命では?」
「仕事としてはね。私としては、あれに触れたアンナ嬢のことが、心配だったんだが……杞憂みたいだ」
触れれば人が変わり、鐘を鳴らして他者を操る白銀のハンドベル。
それを握り無事だったどころか、黒い手袋を生みだしては鐘の音を操り、意識を奪われた人々を救った。
これを少女が成し遂げられたのは、奇跡といっていい。
今まで受け身だったアンナが、自らの意思で行動を起こし。
あまつさえ生みだした黒い手袋は、彼女のトラウマにもつながる黒い怪物と同種。
これまでは無意識に怪物の力を使っていたのだから、大きな一歩とブリジットたちは思っていた。
「ご心配ご無用。アンナはこの通り、体調万全。むしろ例のハンドベルと仲良くなって、少し困っているくらい」
「では、あれはアンナ嬢の手元に?」
「うん。どうせわたし以外は持てないから、部屋に置いとけって。ザックが」
イチゴのタルトはまだ食べ終わっていないが、ハンドベルの話になって、ようやくアンナが耳を傾け始める。
触れれば人が変わるハンドベル。
アンナの生みだす黒い手袋でなければ、その力には抗えず、盗難があろうと大抵は鐘の支配下に置かれてしまう。
だから私物としてアンナに管理を任せると、ザックが指示を出したものの、そこにはいくつかの誤算があった。
「置いておくのはいいの。でもこの子ったら、夜に幽霊のネコと一緒になって、ハンドベルと話してるのよ」
「はた目から見たら、アンナ嬢が一人で話しているって訳か。昔から言われていた、幽霊屋敷みたいだね」
「そうよ。それにあのハンドベルの要求だって無茶苦茶。殿下、それでずっと頭を悩ませているんだから」
人の理から外れた存在同士、共感する部分があるのか。
着々と幽霊の黒猫プリムラと、白銀のハンドベルとの交流をアンナは図っていた。
少女以外には分からないが、人外の彼らにも意思がある。
それを認めた上で、白銀のハンドベル──スノードロップからの大人しくしている条件は、非常に難解なものだった。
「ずっと一緒だった白い手袋を捜せだなんて、どうすればいいのかしら」
唯一の手がかりは、アンナが生みだした黒い手袋のみ。
それだけを頼りにして捜索しろというのは、国家を使えど困難を極める話だ。
しかし、気持ちは分かると告げるランストは、苦笑したまま胸の内を開けていく。
「好きな相手のためなら、それぐらいはして当然ということだろう。私もそれほどの想いがあれば……」
快晴の空へ羽ばたくように。
翼を広げかけたランストの心だったが、止まり木から足が離れることはなく、言葉も同じくして途切れてしまう。
この先の想いはとうに砕けたもの。
もう一度と考えたところで、直してもひび割れた一品だけができるのみ。
今の自分に続きは言えない。
そうこみ上げていた感情に蓋をするランストの傍で、アンナもまた、胸に浮かんできた疑問に注視していた。
「好きな相手?」
そう言われてアンナに心で描かれるのは、まず明るい笑顔が刻まれたミアの姿。
しかし他にはと考えたところで、ミアの明るさによって周囲が白で染まり、見えるのはいくつかの輪郭だけ。
ブリジット、レイラ、悩んでヴィクトリアにクリスティー、魔笛の怪人。
何人かの知人を当てはめていくも、ランストの言葉の重さとは誰も重ならない。
「わたしも、探そうかな」
なら、彼のいう好きな相手とは自分にとって誰なのか。
興味関心が湧き、後でザックに教えてもらおうと彼の姿を思い浮かべる。
だがアンナに待っていたのは、知りたいと思う前向きの力と、背中から抱き止められる力。
前にもこんなことがあったなと思い返す少女は、うっすらと霧がかかった胸中に小首を傾げた。




