68.Snow anthus(6)
ヴィクトリアの背後に満ちる黒い霧。
そこから生まれたのは、奇抜な七色に染まった長い手足。
ハンドベルを握る少女の右手首をつかみ取り、空いた左手は彼女の腰回りへ。
抵抗するヴィクトリアの腕を軽々と捕らえた両腕の先は、霧が晴れるとともに現れた。
「初めましてだね、魔笛の怪人。キミのご主人に鐘の音は届いたかな?」
不気味な笑顔が描かれた仮面、ステンドガラス然とした神秘的な服装、笛の音を連れて姿を見せる二メートルを超える長身。
虚空から出現する時点で人間ではなく、また少女を捕らえている様子も人のそれではない。
ハンドベルを握る手は万力で挟まれたように固定され、しかしヴィクトリアの全身は、傷一つ許さないとばかりに丁重に扱われている。
さながら可憐な淑女を、後ろから抱きしめる紳士。
しかし実態はヴィクトリアの拘束のため、背中側へ視線を送る彼女の瞳には、尖った赤色が塗られていた。
「怪人……随分な呼ばれ方ですね。ただの怪物じゃないですか」
純白の雪原ににじむ、一滴の赤。
それは操られていた男爵にも見られた、無機質の中にあるわずかな敵意。
気に入らない、相容れない。
今、背を向けているように、真っ直ぐな思いは向けられない。
あるのは、アイザックへ抱いたものと同じ不快感だけ。
「耳障りな笛の音。不愉快です」
「それは僕も同感だ。キミの音は聞いていると頭が痛い」
怪人が奏でる笛の音も、ザックが並べる言の葉も。
操られたヴィクトリアにとっては神経を逆撫でするもので、それは彼らにとっても変わらない。
「何を焦っているのかは知らないが、鐘は乱暴に扱う物じゃないよ」
「知った風なことを言いますね。この怪物が現れなかったら、貴方は今頃──」
魔笛の怪人が現れなかったら?
そんな疑問を浮かべるヴィクトリアは、記憶をたどってザックの発言を思い出していく。
彼はこの怪物の主を気にしていた。
黒い霧を操り、どんな場所だろうと駆けつける奇怪な存在。
彼に首輪をつけられる人物がいるというのか。
疑問と疑惑。二つのもやが少女の胸にかかったとき、ザックとランストが入って来た扉とは、また別の扉が開け放たれる。
「ちくしょう、何だこれ。頭いてえ。……って、ヴィクトリアに王子さま。それにお前もいるのかっつうか、散々呼び出したのに、行くのはこっちかよ!」
「レイラの元恋人もいる」
「あいつか? んで、そっちは男爵さんだな。見覚えある」
「みんな、いるね」
「おい、これ用は済んでんのか? どうなんだ?」
新たに開かれた扉から顔をのぞかせたのは、頭痛で不機嫌な面持ちのクリスティーと、彼に背負われたアンナだった。
動かない男爵とランスト、怪人に腕をつかまれているヴィクトリア、倒れ伏しているザック。
各々の状況から事態が把握できず、クリスティーは苦い顔のまま言葉を続けていく。
「おい、王子さま。今の音が言ってた鐘のやつか。聞こえてきた途端に、俺たちを追っかけて来てた奴ら、全員ぶっ倒れたぞ。お前の仲間たちもだ」
「なんでだろうね」
「つうか、状況的にお前が一番おかしいだろ。何ともないのか、アンナ」
「平気。綺麗な音が聞こえただけ」
「いやいやいや。あんなうるせえ音、綺麗とか本気かよ」
ハンドベルの旋律を耳にした者は、等しく眠りについた。
例外はザックだけ。
そう思っていたヴィクトリアだったが、大した影響を受けていない二人を見て、彼女は薄かったはずの赤い感情を、どんどん濃くしていく。
「私の歌を聴かない人間が三人も。気に入らない。どうして今回に限って、こんなに……っ!」
ハンドベルの効力は落ちていない。
その証拠はクリスティーが口にしているし、人間味を感じられるザックとクリスティーにも効果はあった。
影響が見られないのは、たったの三人。
そんな三人の存在がわずらわしく、いち早く排除しようとしたヴィクトリアだったが、強引に振るおうとした腕はいうことを聞かなかった。
動きを見せた少女に対して怪人が行ったのは、つかんだ右手首に力を入れるだけ。
痛みで自然と手は緩み、こぼれ落ちるのは白銀の鐘。
落涙のように床へ向かうハンドベルは、ヴィクトリアの手首をつかんでいたはずの怪人の手によって、刹那の内に拾われた。
「もしかして、キミは平気なのか」
ハンドベルが手から離れ、怪人の手に渡ると同時に、ヴィクトリアは糸が切れたように全身を脱力させる。
そんな少女を片手でしっかりと支え、そっと床へ下ろす怪人は、興味深げに顔をハンドベルへ向けていた。
怪人にどれほどの意思があるのかは分からないが、男爵とヴィクトリアのような変貌は見て取れない。
そう判断したザックが声をかけると、返って来たのは青年以上に作られた仮面の笑みだけ。
「予想以上だ。キミには、そのまま持っていて欲しいな」
瞳の奥を隠す青年の笑顔、描かれているだけの怪人の笑顔。
似て非なるものの視線が重なるが、ザックの言葉に怪人は小首を傾げる。
彼が耳を傾けるのは、一緒に暮らしてきたクリスティーと、気に入ったアンナだけ。
それは分かっているけれど、心の底から頼みたい気持ちを青年は押しだした。
しかしザックの声は届かない。
笛の音を鳴らす怪人が青年に背を向けると、影を置き去りにして彼は姿をくらませる。
「なに。これ持てばいいの?」
「おい馬鹿、ちょっと待て。それあぶねえんだろ。人の背中で何やってんだ」
怪人の足取りは目では追えない。
だが、間の抜けた少女の声に引っ張られて、ザックとクリスティーの視線はそちらへ連れ去られる。
クリスティーの背中で行われていたのは、黒い少女へ向けた片膝をつく怪人の捧げもの。
好意を抱いている女性へ、花束や指輪を送る男性のように。
怪人は花咲く白銀のスノードロップを渡そうとしていて、アンナも大した疑問を抱こうとせずに手を伸ばしていた。
「それはお前が持ってろ」
「アンナ、受け取っては駄目だ」
二人の意思と思いは、鐘で結ばれた少女と怪人には遠い声。
頭痛に悩まされてはいるものの、クリスティーはわざと倒れて怪人から距離を取ろうとするが、困惑の時間が多すぎた。
倒れる中、ハンドベルを握りしめたアンナに異変が起こっていく。
笛が奏でる旋律に合わせて、黒髪に走る無数の赤い光がパチンと爆ぜた。




