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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
67/84

67.Snow anthus(5)

 銃口はザックにではなく、男爵へ向けられ。

 しかし誰にも傷もなければ、したたる赤も見られない。


 だがランストが発砲したのは間違いなく、消えかけの硝煙だって残っている。


「ラン……スト?」


 なら彼は、なにを撃ったのか。

 まず考えられるのは床と壁だが、従兄から目を離せないヴィクトリアでは痕跡を見つけられない。


 ゆっくりと拳銃を手にした腕を下ろすランストは、深い息をつき。

 戸惑うばかりの少女に答えを示したのは、何も言わない従兄ではなく、床に伏せたままのザックだった。


「良い腕だが、他にやり方はなかったのかい、ヒース」

「ご容赦を、殿下。もう一人の殿下にはお伝えしたのですが、これが限界です」

「いや、よくやってくれた。彼からは何も聞いていないけれどね」


 ザックの視線が向かうのは、男爵から少し外れた床の上。

 そこにあったのは、発砲されるまで男爵の手に収まっていたはずのハンドベル。


 目立った傷はないが、放たれた弾丸によって無理矢理落とされたのは、誰の目にも明らか。

 扱う人物がいなくなったことでハンドベルは沈黙し、見えない糸でつながっているのか、男爵すらも口を閉ざしている。


「名演だったよ。どこから演技だったんだい?」

「演技だなんて……そんな余裕はございません。はっきりと意識を保てたのは、殿下に凶器を当てた、二回だけです」


 ランストが操られていたことをザックが疑うも、本人の力ない返答によって否定された。


 一度目は、アイザックの背中にナイフを突き刺したとき。

 二度目は、ザックの頭へ弾丸を撃ちこもうとした瞬間。


 その二つの刹那にだけ、脳裏の霧が晴れたと話す彼は、ザックの体を押さえていた足を退けて離れていく。


「その僅かなチャンスで、男爵からハンドベルを奪ったんだ。勲章ものだよ」

「恐縮です」


 先ほどまでの本調子な動きはどこへやら。

 立ち上がるまではいいものの、全身をふらつかせて、ランストの背中は床へ吸いこまれた。


 指一本すら動かせない。止まらない汗と覇気のない声でそう語る彼が見たのは、無言を貫く伯父である男爵。


「あのベルさえなければ。そう思って撃ったのですが、当たりのようです」

「みたいだね。色々と算段をつけていたんだが、キミに全部持っていかれたよ」

「……この建物の随所に諜報員たちが控えていたのは、操られている人々を捕らえるためですか」

「まあ、そうだね。ただベルの一振りでキミと同じになってしまうから、僕はいらないって言ったんだけどね。給料泥棒はしたくないそうだ」

「いい働きをしていました。早々に殿下を狙わないといけないくらい」

「それは上々。後は男爵が油断していたのが助かった。ミス・ヴィクトリアと会わずに、念には念をと動かなかったのが大きい」


 男爵の手からハンドベルが離れ、ザックが想定した通り、彼の意識が途切れた。

 これはあのベルが原因でおかしくなっていたと取れる証左であり、今こうしてランストと話せているのも、持ち主が不在になったことが関係している。


 そう受け取ったザックは、肉体的な疲労感は薄いが、心を締めつけていた何かが解かれ。

 手足の先にまで広がる安心感が、体の重さを倍にしていた。


「失礼ながら殿下。そのことなのですが、どうしてトリアを巻きこんだのですか」

「どうしてもと聞かなかったんだ。キミと男爵、どちらの無事も自分の目で確かめたいってね。囮にしたことは恨んで貰って構わない」

「伯父へ連絡を入れるだけでは駄目、だったんですよね。……はあ。想像はつきますが、次は力ずくでも止めていただきたいです」

「次があっては困るだろう。──っと、ミス・ヴィクトリア。どうかしたのか?」


 男性二人、倒れたまま。

 操られていたランストの様子を見つつ、ハンドベルをどう外へ運び出すかを、ザックは話しながら考えていた。


 憶測ではあるが、ベルに触れれば人が変わる。

 それは素肌に限られるのか、道具を介しても起こるのか。


 男爵の手からハンドベルを奪うことを優先したため、後のことを考えていなかったザックは、ぼんやりと天井を眺めていた。

 そんな青年の視線は、側にいたはずの少女へ。


 事態が理解できず、混乱に染まっていたヴィクトリアだったが、二人が話している間に場を離れていた。


 その足取りは男爵の方へ。

 混乱よりも心配が勝って、動かなくなった父親の下に向かっている。


 ザックとランストも、そう捉えて一時は見守るが、穏やかな心は日蝕のように影が満ちていく。


「冗談だろう」

「残念ですが、この通りです。油断をしていたのは貴方ですよ、アイザック王子」


 ヴィクトリアの足が止まったのは、父親の前ではない。

 向かったのは床へ落ちたままのハンドベル。淑女然とした拾い方でハンドベルを握ると、ザックへの返事として、少女はリンと一音だけ鳴らしていく。


「私の手中にある者がいれば、誰でもいいのです。勿論、そこの男性でも」

「触れた人間の人格が狂う。そういう訳じゃない、ってことか」

「ええ。何か誤解されていたみたいですが、それももう関係ありません」


 精巧で美麗な容姿に魅入られ、ハンドベルを握った者は人が変わる。

 そんな考えが構築されていたザックの頭の中に、操られた少女の言葉によって崩れる音が鳴り響く。


 触れた者の人格が変わるのか、音を聞いた者が変わるのか。

 それとも別の条件か。


 煙に巻かれた感覚を覚えるザックを、操られたヴィクトリアは虚ろな瞳で言葉を放つ。


「これで終わりですから」


 澄んだ青空がはるか遠方の山を映すように。

 ヴィクトリアが振るったハンドベルは、高く女性めいた旋律を建物全体へ浸透させていく。


 耳を打ちぬき、視線を奪い、肌すらも震わせるソプラノ。

 天使の讃美歌とすら思える鐘の音は、続く音色を静寂以外を許さない。


 話からして、裏で行われていた諜報員と操られていた人たちの争いも。

 立ち上がることを拒否する足に、鞭を入れ続けていたランストも。

 間に合わないと奥歯をかみ締めるザックも。


 全ての音が、ハンドベルの旋律に連れ去られた。


「さて、王子をどうしましょう。今の彼ならどうとでもできますが、苦しませるのは違いますね」


 誰の音もなくなった世界で、ヴィクトリアは何の感慨もなく次を考えていた。


 彼女が目下するべきことは、気に入らないザックの排除。

 とにかく相性が悪いと感じる彼を、どうするべきか。

 順々に手段を思い浮かべていくも、違和感を覚えるものは候補から外していく。


 加虐を目的として、血を多く見るのは好みではない。

 苦しい思いをさせ続ける趣味もなく、時間がかかる方法は自然と消える。

 しかし人体を苦もなく壊す方法は、少女だろうと男爵だろうと持ち合わせていない。


 ならと熟考の末にヴィクトリアが目を向けたのは、ランストの(ふところ)だった。


「そういえば彼が言っていましたね。銃ならば確実だと」


 拳銃の威力に人間は抗えず、またランストの言葉を借りれば少女だろうと扱える。

 理想的な道具だと頷くと、早速ヴィクトリアは銃を取りに従兄へ近づいていく。


「……なんだ。彼みたいな怪力とかがある訳じゃないのか」

「驚きました、まだ口が利けるのですね」

「どうやら、そうみたいだ。自決はできそうにないけれどね」

「まるで、それを望んでいるかのように言いますね。本当に気に入らない」


 銃はすぐそこに。

 そんなところまで足を進めたところで、少女以外の声が場に響く。


 それは少女の足元で倒れたままのザックだった。

 だが意識が朦朧(もうろう)としているのは見た通りで、霞んだ声はそれが確かなことだと示している。


 こんな状態では何もできない。

 そのはずなのに、策を(ろう)しているような作り笑いをする彼に、ヴィクトリアは足を止められてしまう。


「何を企んでいるのです」

「企むというか、賭けだよ。そうならないのが理想だったけれど、仕方がない」


 万全な状態のヴィクトリアに、言葉以外を失ったザック。

 どちらが有利かは明らかであり、ザックが余裕を見せられる状態とはとても思えない。


 だというのに、まるでチェスの盤面が整ったとばかりの笑みは、ヴィクトリアの体を縛りつける。


「ありがとう。挑発に乗ってくれて」


 誰に対してのお礼なのか。

 操られているヴィクトリアには皆目見当がつかず、無機質な表情には苛立ちの色合いが塗られていく。


 対して笑っているザックが瞳を向けるのは、見上げた先の少女ではなく、もっと先。

 どこからともなく生まれた黒い霧と、口笛にも似た軽快な音色だった。

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