67.Snow anthus(5)
銃口はザックにではなく、男爵へ向けられ。
しかし誰にも傷もなければ、したたる赤も見られない。
だがランストが発砲したのは間違いなく、消えかけの硝煙だって残っている。
「ラン……スト?」
なら彼は、なにを撃ったのか。
まず考えられるのは床と壁だが、従兄から目を離せないヴィクトリアでは痕跡を見つけられない。
ゆっくりと拳銃を手にした腕を下ろすランストは、深い息をつき。
戸惑うばかりの少女に答えを示したのは、何も言わない従兄ではなく、床に伏せたままのザックだった。
「良い腕だが、他にやり方はなかったのかい、ヒース」
「ご容赦を、殿下。もう一人の殿下にはお伝えしたのですが、これが限界です」
「いや、よくやってくれた。彼からは何も聞いていないけれどね」
ザックの視線が向かうのは、男爵から少し外れた床の上。
そこにあったのは、発砲されるまで男爵の手に収まっていたはずのハンドベル。
目立った傷はないが、放たれた弾丸によって無理矢理落とされたのは、誰の目にも明らか。
扱う人物がいなくなったことでハンドベルは沈黙し、見えない糸でつながっているのか、男爵すらも口を閉ざしている。
「名演だったよ。どこから演技だったんだい?」
「演技だなんて……そんな余裕はございません。はっきりと意識を保てたのは、殿下に凶器を当てた、二回だけです」
ランストが操られていたことをザックが疑うも、本人の力ない返答によって否定された。
一度目は、アイザックの背中にナイフを突き刺したとき。
二度目は、ザックの頭へ弾丸を撃ちこもうとした瞬間。
その二つの刹那にだけ、脳裏の霧が晴れたと話す彼は、ザックの体を押さえていた足を退けて離れていく。
「その僅かなチャンスで、男爵からハンドベルを奪ったんだ。勲章ものだよ」
「恐縮です」
先ほどまでの本調子な動きはどこへやら。
立ち上がるまではいいものの、全身をふらつかせて、ランストの背中は床へ吸いこまれた。
指一本すら動かせない。止まらない汗と覇気のない声でそう語る彼が見たのは、無言を貫く伯父である男爵。
「あのベルさえなければ。そう思って撃ったのですが、当たりのようです」
「みたいだね。色々と算段をつけていたんだが、キミに全部持っていかれたよ」
「……この建物の随所に諜報員たちが控えていたのは、操られている人々を捕らえるためですか」
「まあ、そうだね。ただベルの一振りでキミと同じになってしまうから、僕はいらないって言ったんだけどね。給料泥棒はしたくないそうだ」
「いい働きをしていました。早々に殿下を狙わないといけないくらい」
「それは上々。後は男爵が油断していたのが助かった。ミス・ヴィクトリアと会わずに、念には念をと動かなかったのが大きい」
男爵の手からハンドベルが離れ、ザックが想定した通り、彼の意識が途切れた。
これはあのベルが原因でおかしくなっていたと取れる証左であり、今こうしてランストと話せているのも、持ち主が不在になったことが関係している。
そう受け取ったザックは、肉体的な疲労感は薄いが、心を締めつけていた何かが解かれ。
手足の先にまで広がる安心感が、体の重さを倍にしていた。
「失礼ながら殿下。そのことなのですが、どうしてトリアを巻きこんだのですか」
「どうしてもと聞かなかったんだ。キミと男爵、どちらの無事も自分の目で確かめたいってね。囮にしたことは恨んで貰って構わない」
「伯父へ連絡を入れるだけでは駄目、だったんですよね。……はあ。想像はつきますが、次は力ずくでも止めていただきたいです」
「次があっては困るだろう。──っと、ミス・ヴィクトリア。どうかしたのか?」
男性二人、倒れたまま。
操られていたランストの様子を見つつ、ハンドベルをどう外へ運び出すかを、ザックは話しながら考えていた。
憶測ではあるが、ベルに触れれば人が変わる。
それは素肌に限られるのか、道具を介しても起こるのか。
男爵の手からハンドベルを奪うことを優先したため、後のことを考えていなかったザックは、ぼんやりと天井を眺めていた。
そんな青年の視線は、側にいたはずの少女へ。
事態が理解できず、混乱に染まっていたヴィクトリアだったが、二人が話している間に場を離れていた。
その足取りは男爵の方へ。
混乱よりも心配が勝って、動かなくなった父親の下に向かっている。
ザックとランストも、そう捉えて一時は見守るが、穏やかな心は日蝕のように影が満ちていく。
「冗談だろう」
「残念ですが、この通りです。油断をしていたのは貴方ですよ、アイザック王子」
ヴィクトリアの足が止まったのは、父親の前ではない。
向かったのは床へ落ちたままのハンドベル。淑女然とした拾い方でハンドベルを握ると、ザックへの返事として、少女はリンと一音だけ鳴らしていく。
「私の手中にある者がいれば、誰でもいいのです。勿論、そこの男性でも」
「触れた人間の人格が狂う。そういう訳じゃない、ってことか」
「ええ。何か誤解されていたみたいですが、それももう関係ありません」
精巧で美麗な容姿に魅入られ、ハンドベルを握った者は人が変わる。
そんな考えが構築されていたザックの頭の中に、操られた少女の言葉によって崩れる音が鳴り響く。
触れた者の人格が変わるのか、音を聞いた者が変わるのか。
それとも別の条件か。
煙に巻かれた感覚を覚えるザックを、操られたヴィクトリアは虚ろな瞳で言葉を放つ。
「これで終わりですから」
澄んだ青空がはるか遠方の山を映すように。
ヴィクトリアが振るったハンドベルは、高く女性めいた旋律を建物全体へ浸透させていく。
耳を打ちぬき、視線を奪い、肌すらも震わせるソプラノ。
天使の讃美歌とすら思える鐘の音は、続く音色を静寂以外を許さない。
話からして、裏で行われていた諜報員と操られていた人たちの争いも。
立ち上がることを拒否する足に、鞭を入れ続けていたランストも。
間に合わないと奥歯をかみ締めるザックも。
全ての音が、ハンドベルの旋律に連れ去られた。
「さて、王子をどうしましょう。今の彼ならどうとでもできますが、苦しませるのは違いますね」
誰の音もなくなった世界で、ヴィクトリアは何の感慨もなく次を考えていた。
彼女が目下するべきことは、気に入らないザックの排除。
とにかく相性が悪いと感じる彼を、どうするべきか。
順々に手段を思い浮かべていくも、違和感を覚えるものは候補から外していく。
加虐を目的として、血を多く見るのは好みではない。
苦しい思いをさせ続ける趣味もなく、時間がかかる方法は自然と消える。
しかし人体を苦もなく壊す方法は、少女だろうと男爵だろうと持ち合わせていない。
ならと熟考の末にヴィクトリアが目を向けたのは、ランストの懐だった。
「そういえば彼が言っていましたね。銃ならば確実だと」
拳銃の威力に人間は抗えず、またランストの言葉を借りれば少女だろうと扱える。
理想的な道具だと頷くと、早速ヴィクトリアは銃を取りに従兄へ近づいていく。
「……なんだ。彼みたいな怪力とかがある訳じゃないのか」
「驚きました、まだ口が利けるのですね」
「どうやら、そうみたいだ。自決はできそうにないけれどね」
「まるで、それを望んでいるかのように言いますね。本当に気に入らない」
銃はすぐそこに。
そんなところまで足を進めたところで、少女以外の声が場に響く。
それは少女の足元で倒れたままのザックだった。
だが意識が朦朧としているのは見た通りで、霞んだ声はそれが確かなことだと示している。
こんな状態では何もできない。
そのはずなのに、策を弄しているような作り笑いをする彼に、ヴィクトリアは足を止められてしまう。
「何を企んでいるのです」
「企むというか、賭けだよ。そうならないのが理想だったけれど、仕方がない」
万全な状態のヴィクトリアに、言葉以外を失ったザック。
どちらが有利かは明らかであり、ザックが余裕を見せられる状態とはとても思えない。
だというのに、まるでチェスの盤面が整ったとばかりの笑みは、ヴィクトリアの体を縛りつける。
「ありがとう。挑発に乗ってくれて」
誰に対してのお礼なのか。
操られているヴィクトリアには皆目見当がつかず、無機質な表情には苛立ちの色合いが塗られていく。
対して笑っているザックが瞳を向けるのは、見上げた先の少女ではなく、もっと先。
どこからともなく生まれた黒い霧と、口笛にも似た軽快な音色だった。




