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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
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66.Snow anthus(4)

 ヴィクトリアの背後には、アイザック王子がいる。

 そう確信した男爵は隠す必要がないとばかりに、片手を腰の後ろへ回す。


 乱れた服装に対して、丁寧に取りつけられた小さなバッグ。

 そこから取り出したのは、ザックの話に出てきた白銀のハンドベルだった。


「殿下が仰っていた道具……!」

「無駄ですよ。手で耳をふさいだところで、歌は聞こえますから。それよりも意外です。あの王子が、一介の少女に先陣を切らせるだなんて。娘なら説得の機会があるとでも思ったのでしょうか」

「お生憎様。これは私が望んだことです。父と従兄の安否を気にするのは、血縁として当然でしょう?」

「それだけのために、会いに来たのですか。……足、震えてますよ」


 ヴィクトリアの言葉に返されるのは、抑揚のない男爵の声。

 そこへときおり挟まれる、ハンドベルの澄んだ音。


 手遊びの範疇(はんちゅう)で鳴らされる旋律は、たった一音だというのに少女の耳を抜けて心に残り。

 人を操る奇怪な音色と分かっていても、どこか気を許してしまう。


 いつ心が溶かされるのか、それとも既に自分ではないのか。

 いたずらに鳴らされる旋律に対して、ヴィクトリアは恐怖を隠しきれず、引くも進むもできずにいた。


「誰かのためなら何でもできる。共感はできますが、貴女のはただの無謀。私の手駒となりに来ただけではないですか」

「そう思われてるのでしたら滑稽ですね。アイザック殿下が、何の準備もせずに貴方を迎えるとでも?」

「まさか。チェスは駒を並べなければ、遊べないのですよ」


 リンと、ひと際大きい鐘の音が鳴らされるとともに、大部屋へつながる扉の一つが開け放たれる。


 続く火薬の炸裂音に、ひび割れる床。

 うなる銃声に追われて、開いた扉から飛びだしてきたのは、白髪の青年だった。


「少しは加減して欲しいな、ヒース。今の僕には、それはいささか厳しい」

「今の貴方だからですよ、殿下。あの方では銃も剣も意味をなさないですから」


 褐色の肌ではなく色白で、宝石と見まがう赤い瞳は前髪で隠されている。

 ヴィクトリアにとっては見慣れない、もう一人の王子ザック。


 息を切らしている彼に対し、扉の奥から迫る声は、無機質な声音にはなっているが、少女のよく知る男性の声。


「ランスト! 貴方、誰に向かって武器を向けていると思っているの!」

「我らがアイザック殿下だよ、トリア。褐色の彼とは違って、今なら幼い子どもでも命を奪える。君にだって可能だ」

「銃を撃てるなら確かにその通りなんだが、幼児より弱いと言われるほど、貧弱なつもりはない」

「虚勢は張らずとも結構ですよ、殿下。貴方が得意なのは、本をめくるか笑っているかのどちらかでしょう?」


 アイザックの暗殺未遂犯として捜索され、姿をくらましていたヴィクトリアの従兄、ランスト。

 彼はリボルバーに残る弾を確認しながら、あからさまな疲労を見せるザックへ淡々と近づいていく。


 発砲の熱が落ち着いた拳銃は(ふところ)へ。

 怪物のアイザックとは違い、運動を得意としないザックなら、ランストは素手で充分と判断する。


 事実、目前まで来た彼に対し、拳をもって相対するザックだったが、たった一合で組み伏せられてしまう。


「呆気ないですね。それに気配も違う。身を隠すために容姿を変えていると思いましたが、これは……」

「この方も殿下です。なにぶん、王家には世に出せぬ事情がありますから」

「そうですか。兵を配置し、ヴィクトリアを囮に時間稼ぎ。ここまでの予想は合っていましたが、最大の障害が弱っているとは」


 少女が心配をする間もなく、ザックの命はランストの腕の中へ。

 背中から押さえつけ、片手で押さえられた首は、力をこめれば苦痛が増す。


 後はどうするのかと、ランストが男爵に目配せをすると、応えた感情はわずかに困惑の色がにじんでいた。


「好都合、と言っていいのでしょうか。しかし貴方を消せるのなら、理由は何でも構いません。──ランスト」

「分かりました。今、すぐに」


 ザック側の事情がどうであれ、気に入らないものを簡単に排除できる。

 その過程が()に落ちないものの、熟考(じゅっこう)して機を逃すのを男爵は良しとしなかった。


 ハンドベルを一度振り、男爵はランストに指示を送っていく。

 その内容は単純明快。収めた拳銃を再び握り、彼は組み伏せたザックの頭部に銃口を押し当てる。


「駄目!」


 しかし銃撃を阻もうと、ランストに向けて走り出したヴィクトリアにより、銃口は明後日の方向へ。

 それでも足りないと床を蹴り、少女は全身を使ってザックの上から従兄を退かそうとする。


「邪魔をしないでくれ、トリア」

「ふざけないで。貴方の王家への忠誠はそんなものなんですか!」

「忠誠? 勘違いして貰っては困る。私が心を捧げたのはあの人……レイラ殿下だ」


 撃たせない。その一心でヴィクトリアが叫ぶのは、ランストにとっての心の置き場。

 王族を守る盾として膝を折り、従妹や伯父では知り得ない世界で、剣としての振る舞いをしてきた。


 それなのに奇怪な鐘の音一つで、主に刃を向ける。

 それが許せるのかと説いていくも、ランストが吐きだす思いの色は、ヴィクトリアとは別物だった。


「彼女は私を認めてくれた。努力が報われるとはああいうものだと、今でも昨日のように思い出せる。婚約だってそうだ。表には出せない仮の話だったとはいえ、殿下に寄り添えたのは名誉という他ない」


 例え自分が何人目かの恋人だったとしても、構わない。

 恋もなく、愛もなく、ただ優秀だったから私の手を取った。それでもいい。

 世間でいう恋仲になっても、王女と部下という立場のままだったのも許容できる。


 けれども──


「けれど、いつも彼女が見ていたのは、弟である貴方だった。この気持ちが分かりますか、アイザック殿下」

「想像はできるよ。でも済まないが、誤解だろう。姉が弟を構っているだけだよ」

「それでも愛は貴方にばかり。私にあったのは信頼だけ」


 どんな大きさでも形でもいい。

 レイラから一かけらの愛が欲しかった。


 そう告白するランストは、左腕でヴィクトリアを抑えつつ、右手だけで拳銃を構える。


 人間であるザックなら、銃弾がどこへ当たっても致命傷。

 それを見越した上で正確な照準を捨てたランストは、ためらいもなく引き金を引いた。


「これが私の忠誠ですよ、殿下」


 銃弾が放たれる直前、ヴィクトリアはギュッと目をつぶる。

 会場に響く火薬の音と、何かが弾けて飛んだ金属音。


 全員の鼻孔(びこう)をくすぐる火薬由来の臭いは、少女の血液を冷水と交換していく。

 続けて鉄の臭いが来るとヴィクトリアは想像するも、彼女が暗闇の中で捉えたのは、金属が落ちて転がる音だけ。


 誰も発声せず、身動きすら感じられない。

 それは何故かと疑問に思い、ゆっくりとまぶたを開いたヴィクトリアがまず見たのは、水平に構えられた拳銃から昇る硝煙だった。

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