63.Snow anthus
──人々の鳴らす雑音が、積雪の夜のように静まる。
誰もが開いていた口は固く結ばれ、密集していた彼らの体は等間隔で離れていく。
活気に満ちた光は夜に飲まれ、伝播していた熱意も凍らされていた。
まるで新雪の結晶。
色を抜かれ、形も変わらず、時を止められた純白そのもの。
「容易いものですね。拍子抜けにも程がある」
しかし一人、脱色されずに済んでいた者がいた。
着飾った人々でできた真っ白な氷晶に、その中心で立つハンドベルを握った男。
ミッドデイボーン男爵が表情なく言葉をこぼしていく。
「ですが、これ自体は想定通り。問題は貴方ですよ、アイザック・マーティン・エリク・レイモンド」
「同感だ。様子見と思っていたが、度が過ぎるぞ、男爵」
どんな表情を作ろうとも、人の好さが抜けなかった黒みのある青い瞳。
それが今となっては温度を失い、同じく冷え切っている紅玉の双眸へ、視線を重ねていく。
口が凍らなかったのは男爵だけではない。
もう一人、人間として正体を隠していた怪物、アイザックがいた。
「先の不快な音。それをもって人を操る、といったところか」
「だとしたら何でしょう。元に戻せは聞けませんよ、殿下」
「下らん。このような愚行を図る輩に、私が交渉すると思うなど。随分と頭の巡りが悪くなったな」
凍えた空気を震わせるのは、アイザックと男爵の二人だけ。
お互いに真正面から向き合い、刃のような視線を交える彼らは、彼我の距離を詰めもしなければ引きもしない。
「そうでしょうか。貴方は賢い王子だ。九を救うのに一を捨てられる方と存じていますが、それはあくまで大衆を相手にしたときの話」
男爵は白銀のハンドベルを握ったまま。
二度目の鐘の音は鳴らさず、己の声音だけでアイザックと相対する。
すでに周囲の人々を手中に収めていることこそ、彼の絶対的な優位。
そう主張する男爵は、動く気配すら未だ見せないアイザックに、言葉をぶつけていく。
「今、この場にいる方々は、易々と切り捨てられないでしょう。してしまえば、内臓を一つ失うと同義」
人の好さは、関わった者を惹きつける蜜の味。
男爵だからこそ集ったパーティーの面々。一人一人が各方面と深くつながり、欠ければ損失と嘆く者は後を絶たないだろう。
それが一度に行われれば、国家という生き物の内臓が痛むと言っていい。
例え、機能不全となる器官が一つだけだったとしても、のちの影響を考えると無視はできず。
アイザックが目に見えた行動へ移らないのは、そういった算段があるからこそと男爵は語っていく。
「個人としては果てしなく厄介だと思っていましたが、王子としては真っ当な決断をなさる。存外まともなのですね、殿下は」
「よく回る口は変わらぬか。目的を話すまでと待ってはみたが、戯言だけとは興が削がれた。──そのベル、砕けば事が片付くだろう」
価値ある人質がいる限り、アイザックは動けない。
その根拠を並べていく男爵だったが、耳を傾けていた当の本人は周囲の人々を一べつすらしなかった。
赤い瞳が捉えるのは、男爵が握るハンドベル。
鐘の音によって人を操る奇怪な道具。それを壊せば異変が終わるとアイザックは予想し、できずとも奪えばいいと両手に力をこめていく。
ついに一歩、アイザックが前に出ると、男爵は取り乱すことなくハンドベルを振るいだす。
「砕くと来ましたか。音色が響かないどころか、その距離からでも私の首を折れるというような大言。ああ、まさに怪物。気に入らない」
「そうか。私もそのベルが気に食わない」
教会を通り抜けるような神秘的で澄んだ音。
それを合図に、アイザックが床を蹴ろうとした瞬間、ついさっきまで彼に向かっていた男爵の音色が後ろにまで放たれた。
「──貴方はどうですか、ランスト」
物と物がぶつかり、衣類が裂けた小さな音。
床にひびをいれたアイザックの足は宙に浮かず、ハンドベルを砕くと告げた手は、男爵からは程遠い。
直前に投げられた男爵の声を、後から追うアイザックは、背中側にある違和感へ目を向ける。
「そうですね。正直な思いを申し上げれば、このナイフが答えと思っていただきたい」
アイザックが覚えた違和感の正体は、簡単に持ち歩ける折り畳み式のナイフ。
それ自体に驚愕はなく、人を操れるのなら集団で襲わせる手法もあると踏んでいた彼は、ナイフを握る人物のみを注視した。
男爵の甥、ランスト・ヒース。
アイザックの姉であるレイラに仕え、一時期は恋仲となっていた彼が、今では凶器を青年に突き刺している。
アイザック以外が操られているのなら当然あることであり、王族に仕える者として鍛えた肉体は、こうして不意を突くことも簡単だ。
青年の一番近くにいて、この場で最も優れた身体能力。
これを活かさない訳もなく、男爵の取った選択は最善といえる。
「ですが、この程度では無駄なようですね」
だがアイザックの体勢に変化はなく、ランストの告げたことは、男爵の目からも事実だと捉えられた。
凶器を振るわれた人体は、必ず赤を辺りに散らす。
それすらもないどころか、痛みすらも感じさせない涼しい表情をする青年に、男爵は深いため息をついていく。
「鋼鉄の刃物、それを受けて傷もつかないとは。ここまで怪物だとは思いもしませんでしたよ、殿下」
「ええ、私もです伯父さん。まさか、ここまでとは」
アイザックを間に挟み、男爵とランストは言葉を交わす。
お互いに姿が見えずとも、同じ感想を口にする彼らは、驚きの色で染まり切っていた。
それを見届けていたアイザックは、一度熟考するようにまぶたを閉じる。
再び彼の目に光が宿ったとき、低い声音が告げたのは、男爵が予想もしていないことだった。
「……茶番だな。いつぞやの町民の方が気概を感じる」
冷えていくのは声だけではない。
男爵に向けられていた手は下ろされ、足は真逆の出入り口へ。
交えていた刃のごとき視線も、透かすように外され、アイザックの瞳はランストどころか男爵すらも映していない。
興味関心が失われた。
突然にも思える事態に、困惑ではなく警戒の色を男爵は見せるも、青年の背中は無言で遠ざかっていくばかり。
「意外ですね。この方たちを見捨てるとは」
「下らぬ挑発だ。私を排除したいというのなら、この者たち全てを使えばいい。しかし貴様はそれをしなかった。人を欲しているのは貴様も同じ。そうだろう」
離れながらも言葉に応えるアイザックを、男爵は何もせずに見送っていく。
ハンドベルは振るわず、ランストもその他の人々も呆然としたまま。
ここにいる人々が必要なのはお互い様。
言葉を飲みこむことでそれに頷くような男爵へ、アイザックもまた足音だけで応えていく。
そうして青年の姿が見えなくなると、一人だけとなった男爵は優しくハンドベルを鳴らしていった。
「何を考えているのやら。本当に気に入らない。──さて、皆さん。仕事を始めましょうか」
一つの音だけで奏でられる、単調ながらも心に入りこむ旋律。
鐘の音色を、人々を。夜が更けていく中で連れ歩く男爵は、遠く暗い空に向けて言葉を放っていく。




