62.intermedio - light and shade(15)
クリスティーが逃げ出さないよう、閉ざされていた無機質な扉。
そこから姿を現したのは、嘘くさい笑みを浮かべる青年、ザックだった。
待機していた諜報員たちは、すぐさま姿勢を正し、どこか緩みがあった空気は瞬く間に引き締まっていく。
自由が利かないクリスティーは見慣れない彼に首を傾げ、隣にいたヴィクトリアもまた、いぶかしむ表情を隠しきれず。
余裕をもって黒い少女に膝を貸していたブリジットですら、驚きを表に出したまま。
そんな何とも言えない色味が空間に広がる中、目を覚ましたアンナは立ち上がり、現れた青年に向かって駆け寄っていく。
「ザック、やっと会え──」
「おっと。本調子ではなさそうだね、アンナ。変わった様子もないし、ひとまずはお互いに無事だったことを喜ぼうか」
アンナの足が床についていたのは束の間。
数歩ほどでバランスを崩し、全身が宙に浮いてしまう。
さながら起こったことに体が固まる黒猫。
そのまま前のめりになり、顔が床に吸いこまれそうになったところで、ポンとアンナの体は別のものに収まった。
頼りなくも、男性らしさは依然とあるザックの懐。
両腕も使ってアンナを抱き止めた彼は、自分以上の弱さを見せる少女の姿に、形ばかりの笑みに色を混ぜていく。
「アイザックは?」
「彼は寝ているよ。交代できそうな感覚がないから、しばらくは僕のままだ」
「そっか。なら気をつけて」
「まるで僕だと不安みたいな言い方だね」
どこを見上げても雲ばかりだった夜空に、月明かりをふくんだ切れ間が見えた。
そんなアンナの様子に、ヴィクトリアもクリスティーも唖然としたまま。
何をするにしても、誰かが手を取らなければ歩くことすらままならない。
人形染みた印象が強かったアンナが、自ら青年のもとにまで駆けていった。
その衝撃は、姿勢を正した諜報員たちの様子を気にする隙を与えず、心から湧いた言葉がすんなりと二人の口からこぼれていく。
「アンナのその感じだと、お前……いや、貴方がアイザック王子で良いんだよな」
「いえ、私の知るアイザック殿下はこのような方では。……まさか、普段のあの方は影武者? であれば、アンナちゃんのあの様子も納得が──」
知っているのは名前だけ。
顔すら見たことのないクリスティーは、今のザックをそのまま受け入れようとするも、ヴィクトリアはそうもいかない。
冷たく鋭利な空気は、柔く穏やかなものに。
焼けた褐色の肌は、少女が敬愛するレイラ王女と同じ色白で。
灰が混ざった蝋のような白髪は同じでも、前髪は自信なく降ろされ、目元は完全に影の中。
最後に目にしたアイザックと同一人物。
そう言われても納得がいかず、ヴィクトリアは一つの可能性を導きだしていく。
「色々考えているようだけれど、僕とキミの知る彼は、同じと思ってもらって構わないよ。ミス・ヴィクトリア」
暗殺のおそれがある王侯貴族で、しばしば行われる身代わり。
都合により、表舞台には立てないザックが用意したのが、今まで目にしてきた冷たい彼だとヴィクトリアは結論づける。
だが、その考えはあっさりと本人によって否定され、少女が結んだ推測の糸は解かれてしまう。
「僕と彼は、そうだね。有り体にいえば二重人格だよ」
「殿下。言ってしまってよろしいのですか?」
「良いさ。アンナの力を見られていると聞いたし、彼は怪物の関係者なんだろう? どちらも目にしているミス・ヴィクトリアに隠したところで、ただの問題の先延ばしさ」
二重人格。
言葉としては頭に残るも、心がそしゃくできずにヴィクトリアは放心してしまう。
一週間前から心残りとなっていた、アイザック王子の暗殺。
それが今、問題がないと分かって安堵する自分が、確かな形で少女の胸にある。
しかし同時に、心配をしていた王子が人格を二つ持っていたという、信じがたい話を拒絶していた。
「その様子だと、アンナからは聞いていないみたいだね」
「何も話すなって、ザックもアイザックも言ったから」
「約束を守ってくれて嬉しいよ。キミ、釘を刺さないと聞かれたことは、全て話しそうだから」
「……なんか、言い方引っかかるんだけど」
目の前にいる青年の告げることすらも、全て王子の秘密を秘匿するためのもの。
荒唐無稽な話を持ち出して、王室の外には出してはいけない事実がある。
そんな考えすら理屈の地図に並べるヴィクトリアは、発せるはずの言葉すらもなくしてしまう。
対してクリスティーは、青年の言葉をそのまま受け止めていた。
「よく分かんねえけどさ。こいつの知ってる奴とお前、じゃなくて、貴方は同じ人間ってことで良いんだよな」
「その認識で構わないよ。それと変にかしこまらず、普段通りにしてくれ」
「いや無理だって。そこのブリジットさんも、周りの連中も。さっきから視線が痛い……って、んだよ。悩んでんじゃねえのかよ。ガチで睨むな怖えんだよ、ヴィクトリア!」
ブリジットと諜報員たちの敬意と、アンナの懐きよう。
これらを合わせて、今まで見てきた褐色肌の青年と、目の前の青年が同じというのも頷くことはできる。
けれど最後の納得のいく一欠片を見つけられず、ヴィクトリアはうなるばかり。
「耳にした限りだと、複雑な立場にキミはいるはずだが。意外と落ち着いているね」
「落ち着くっつうか諦めだ。逃げるのも無理そうだしな。それに噂通りなら、王子のお前と話をした方がいいだろ」
「噂?」
「ほらあれ、ザックが怪物を探してるって」
「ああ、その話か」
ザック自ら許可を出したが、仕える者からすれば気が気ではない。
その心を国民であるクリスティーも分かるからこそ、口調は砕けたままでも、流れる冷や汗は感情の波を抑えている。
「事実ではないと言いたいところだけれど、キミは怪物──いや、怪人の関係者だ。アンナたちに特別、何かをしたようには見えないから。いいよ、要件次第では前向きに考えよう」
「殿下っ! お言葉ですが、無罪放免などを仰られると、司法との関係に問題が生じます」
「ということらしいけれど。クリスティーさんだったかな、続けるかい?」
少なくとも盗品を無断で寄付したことや、そもそも怪人の窃盗と誘拐を容認したこと。
これらの罪自体は見逃せないと暗に告げられると、クリスティーは目を泳がせた末に、ヴィクトリアへ視線を寄せた。
アイザック王子を捜す協力をする代わりに、余計なことを告げ口しない。
その内容は今や破綻はしているも、減刑ぐらいにはなる案が欲しいと、彼は少女に訴えかける。
深い海の青と、夕暮れのようなオレンジ色。
二色の瞳が重なると、少女の方が小さなため息をついた。
「貴方様を疑うというこれまでのご無礼、お許しを。アイザック殿下。彼の処遇について私に愚考がございます。無礼を重ねると存じますが、どうかお聞きいただきたいです」
「無理する必要はないよ。表向きは彼だけが王子だったからね。ただまあ、これで少しは信用してもらえるかな」
どれだけ疑いを向けようと、目の前にいる青年が王子と言われれば跪くしかない。
それが王家の下につく貴族としての義務であると、ヴィクトリアは一度、散らかり過ぎた考えを放棄する。
次に多少は変わってしまったが、クリスティーの罪状を軽くするための考えをまとめ始めるも、苦笑するザックにヴィクトリアの目は捕まってしまう。
──見覚えのある真紅の瞳。
右側の前髪だけを片手で上げ、さらされたザックの目は、色味も鋭さも違えど記憶と重なる。
二人につながりがあることは疑いようがない。
そう確信する彼女に、ザックは言葉を続けていく。
「それに、この話を突き詰めるのは今じゃない。まずは現状をどうにかしないと、屋敷にも城にも帰りづらいからね」
「そ、そうです、殿下。暗殺されそうになったとお聞きしましたが、いったい何があったのですか!」
足を通して、悩みが床に根を張っていたヴィクトリアだったが、ザックがこうして地下にいることを意識すると、彼女の体は弾かれるように立ち上がった。
そのままザックに詰め寄る少女に、彼は引き気味になりながら言葉をつむぐ。
「落ち着いてくれ、ミス・ヴィクトリア。その話をするためにも来たんだ。──あと、アンナ。それそろ離れてくれないかな」
「……むり。ちょっときもちわるい」
「急に動くからよ。ほら、アンナ。こっちで横になりましょう」
ヴィクトリアが聞いたという、アイザック暗殺未遂の噂。
その真相が聞けるとなると、脱力していたクリスティーの瞳にすら光が宿る。
しかし注目が青年に集まったのは一瞬で、彼の懐から聞こえた弱々しい声に、全員の意識は散らされる。
黒髪から赤が消えた代わりに、顔色に青が塗られたアンナ。
一歩も動けないと肌の色だけで伝える彼女を、ブリジットは足側からすくい上げて、ザックから離していく。
「後は頼んだよ、カナルミア。さて、それじゃあ先週なにがあったのかを話そうか」
アンナを抱えたブリジットは、少女を休ませるために元の位置へ。
それを見届けたザックは、ヴィクトリアとクリスティーの近くに椅子を用意しながら、一週間前のパーティーでのできごとを語っていく。




