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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
60/84

60.intermedio - light and shade(13)

 怪人がいなくなり、残されたのは薄く広げられた青い空気だけ。

 姿が見えなくなった後も女性はいた場所を見続け、その背中を他の者たちもまた、言葉なく瞳に映している。


 重い沈黙が頭上から降り、足元には静寂がただよって。

 呼吸と心音だけの世界で、ようやく動き始めたのは、目だけで怪人を追い続けていた女性だった。


「いなくなったようですから、続きと行きましょうか。四人とも、警戒解除を許可します」


 了解。

 その一言をもって銃を(ふところ)にしまい、クリスティーを囲んでいた四人はまばらに散っていった。


 警戒を解いたというのは表情に現れていて、中でも最年長らしき男性は、緊張が続くヴィクトリアとクリスティーに笑みを向ける。

 他の面々も背を向けるなり、安堵のため息を漏らしたりなど、それぞれの気持ちのほどき方を見せていた。


「ではヴィクトリア様。そして、クリスティー・ヘブンスコール様。どうぞこちらへ」

「……やっぱ俺のことは承知済みか」

「ええ、その辺りも奥にある部屋でご説明いたします。その前に、アンナをお預かりしますので、降ろしていただけませんか?」

「えっ、いやそれはそのー、だな。俺としちゃ、お前らのことは敵か味方か、測りかねてるっつうか」


 早朝の家での荒事から、銃口に囲まれるまで。

 不信感は重く積み上がり、クリスティーの中にはそれが残ったまま。


 空気は一転しても目の前の女性を信用できず、彼は近づいてきた女性から一歩引いてしまう。


「降ろしていただけませんか、ヘブンスコール様」


 しかし距離を置いたクリスティーを、女性は逃さなかった。


 笑み一つ。

 表面的には、にこやかにも思える華やかな顔色。

 しかしそんな表情は、もう一歩下がろうとした彼の全身を固まらせる。


「ブリジットはへいきだよ、クリスティー」

「起きてたのか。まあ、お前が良いってのなら降ろすけど。……怖えな、あの人」

「うん」


 クリスティーの背筋を撫でた感情が、女性の笑顔に隠れた真意だろう。

 そう理解した彼は、弱々しくもやり取りができるようになっていたアンナに従い、背中から降ろすことにした。


「お帰りなさい、アンナ。怪我はしていない? あの男に変なことをされたりとかは?」

「別に、へいき」

「またそう言って。残念だけど、あとでちゃんと検査しますからね。──微熱が出てるし、髪もまだ少し赤い。アンナ、上にアレがいたりとかは」

「それも、へいき」


 クリスティーの背中から、ブリジットと呼ばれた女性の腕の中へ。

 ふらつきながらも移動を済ませたアンナは、柔らかい声音に小さな頷きを返していく。


 だが焦点が定まらず、喋れない雰囲気の少女にブリジットは深く追求せず。

 髪色が変化していることから、黒い怪物の存在を懸念する彼女は、他の仕事へ移ろうとしていた四人に指示を出していく。


「二人でいいから、念のため上を見てきて。もし何かがいたら、事前に伝えた対処法の通りに」

「了解です、ブリジットさん。おい、残業だ。稼ぎ時だぞ」


 最年長らしき男性と、志願した若い男性。

 二人がクリスティーたち来た階段を上がっていくのを見届け、残った面子は両腕でアンナを抱えたブリジットに連れられて、通路の奥へと進んでいった。


 迷路のごとく入り組んだ地下通路は、まるでアリの巣。

 その中でも、奥まった場所にある部屋までたどり着いた一行は、開かれた扉から流れてくる涼やかな空気に、ホッと息を漏らしていく。


「こちらです。どうぞ、遠慮なくお入りください」


 今は格好が違うも、ブリジットの所作の一つ一つが使用人のそれ。

 彼女のたたずまいは、貴族の生活にはうといクリスティーでも伝わり、大したものだと目を見張っていると、彼は隣から来る冷えた空気に気づく。


 それは不満がありますとばかりに細められた、ヴィクトリアの切れ味ある視線だった。


「んだよ」

「いえ、アンナちゃんを預けるのに、やたらとためらいがあったなと思いまして」

「そりゃあるだろ。お前らにとっては味方かもしれねえが、俺からすれば敵なんだよ。国の連中ってのが本当なら、なおさらだ」

「怪しいですね。惜しいとか、思ってませんよね」

「……思ってねえよ」


 クリスティーの最後の言葉は、自信の文字がぶら下がり、ふらふらと床へ落ちていく。

 彼の心境は男性として、三方の重しをもった秤が揺れに揺れていた。


 大きくあるのは、怪人の誘拐行為に関与する身としての危機感。

 次に小さな体の少女に対する、守りたいと思う感情。

 そしてアンナへの異性としての興味だった。


 幼さが目立つといえど、全体的にはヴィクトリアも認める美貌の持ち主。

 加えて顔立ちはクリスティーの好みであり、それが少しの間とはいえ、背中側に密着していたのだから、欲が生まれるのは自然だろう。


 だからこそクリスティーは強く否定できず、ヴィクトリアもまた瞳に宿る凍てつく刃を研いでいく。


「最低」

「おい、止めろ。言葉だけなのマジで怖えから。なんでそんな怒ってんだよ」

「小さい子が好みなのね、貴方」

「誤解にも程があんだろ。ホント止めろ」


 研がれた刃は、すぐさま灰の少女の声音によって振るわれる。

 まずは一閃。そこからの胸を何度も突く言葉の猛攻。


 いわれのない暴言だとクリスティーが抗議するも、ヴィクトリアの視線に暖かさは戻らない。

 針仕事のごとくチクチクと胸を刺す彼女は、室内に入った後も続けていた。


「あら、アンナちゃんのような目で見られるのが、お好きなのでしょう」

「お前のそれはちげえだろ。なんだ、今ここで例の勉強でもすればいいのか。お前のこと、お嬢様とかでも呼べば満足……ん?」


 言い争うヴィクトリアとクリスティーは、意識と視線がお互いに向けられたまま。

 どちらも引き下がらず、かといって踏みこむこともしない二人だったが、両の手首にクリスティーが違和感を覚えると、ヴィクトリアも振るう刃を止める。


 彼の手首に二人が視線を落とすと、そこには両腕の自由を奪う長い布が、丁寧に巻かれていた。


「念のためですので、ご理解を」


 声につられて二人が顔を上げると、アンナを寝かせるための準備を進めているブリジットが、爽やかな笑顔を浮かべている。

 入った扉は閉じられ、傍に人が立つことで暗に語るのは逃がさない意思。


 急なことにヴィクトリアの瞳にあった氷は溶かされ、代わりに困惑の色を浸透させる彼女は、ゆっくりとクリスティーの顔へ視線を戻していく。

 灰の少女がおそるおそる見た男性の顔色は、この場の誰よりも青白さを際立たせていた。

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