60.intermedio - light and shade(13)
怪人がいなくなり、残されたのは薄く広げられた青い空気だけ。
姿が見えなくなった後も女性はいた場所を見続け、その背中を他の者たちもまた、言葉なく瞳に映している。
重い沈黙が頭上から降り、足元には静寂がただよって。
呼吸と心音だけの世界で、ようやく動き始めたのは、目だけで怪人を追い続けていた女性だった。
「いなくなったようですから、続きと行きましょうか。四人とも、警戒解除を許可します」
了解。
その一言をもって銃を懐にしまい、クリスティーを囲んでいた四人はまばらに散っていった。
警戒を解いたというのは表情に現れていて、中でも最年長らしき男性は、緊張が続くヴィクトリアとクリスティーに笑みを向ける。
他の面々も背を向けるなり、安堵のため息を漏らしたりなど、それぞれの気持ちのほどき方を見せていた。
「ではヴィクトリア様。そして、クリスティー・ヘブンスコール様。どうぞこちらへ」
「……やっぱ俺のことは承知済みか」
「ええ、その辺りも奥にある部屋でご説明いたします。その前に、アンナをお預かりしますので、降ろしていただけませんか?」
「えっ、いやそれはそのー、だな。俺としちゃ、お前らのことは敵か味方か、測りかねてるっつうか」
早朝の家での荒事から、銃口に囲まれるまで。
不信感は重く積み上がり、クリスティーの中にはそれが残ったまま。
空気は一転しても目の前の女性を信用できず、彼は近づいてきた女性から一歩引いてしまう。
「降ろしていただけませんか、ヘブンスコール様」
しかし距離を置いたクリスティーを、女性は逃さなかった。
笑み一つ。
表面的には、にこやかにも思える華やかな顔色。
しかしそんな表情は、もう一歩下がろうとした彼の全身を固まらせる。
「ブリジットはへいきだよ、クリスティー」
「起きてたのか。まあ、お前が良いってのなら降ろすけど。……怖えな、あの人」
「うん」
クリスティーの背筋を撫でた感情が、女性の笑顔に隠れた真意だろう。
そう理解した彼は、弱々しくもやり取りができるようになっていたアンナに従い、背中から降ろすことにした。
「お帰りなさい、アンナ。怪我はしていない? あの男に変なことをされたりとかは?」
「別に、へいき」
「またそう言って。残念だけど、あとでちゃんと検査しますからね。──微熱が出てるし、髪もまだ少し赤い。アンナ、上にアレがいたりとかは」
「それも、へいき」
クリスティーの背中から、ブリジットと呼ばれた女性の腕の中へ。
ふらつきながらも移動を済ませたアンナは、柔らかい声音に小さな頷きを返していく。
だが焦点が定まらず、喋れない雰囲気の少女にブリジットは深く追求せず。
髪色が変化していることから、黒い怪物の存在を懸念する彼女は、他の仕事へ移ろうとしていた四人に指示を出していく。
「二人でいいから、念のため上を見てきて。もし何かがいたら、事前に伝えた対処法の通りに」
「了解です、ブリジットさん。おい、残業だ。稼ぎ時だぞ」
最年長らしき男性と、志願した若い男性。
二人がクリスティーたち来た階段を上がっていくのを見届け、残った面子は両腕でアンナを抱えたブリジットに連れられて、通路の奥へと進んでいった。
迷路のごとく入り組んだ地下通路は、まるでアリの巣。
その中でも、奥まった場所にある部屋までたどり着いた一行は、開かれた扉から流れてくる涼やかな空気に、ホッと息を漏らしていく。
「こちらです。どうぞ、遠慮なくお入りください」
今は格好が違うも、ブリジットの所作の一つ一つが使用人のそれ。
彼女のたたずまいは、貴族の生活にはうといクリスティーでも伝わり、大したものだと目を見張っていると、彼は隣から来る冷えた空気に気づく。
それは不満がありますとばかりに細められた、ヴィクトリアの切れ味ある視線だった。
「んだよ」
「いえ、アンナちゃんを預けるのに、やたらとためらいがあったなと思いまして」
「そりゃあるだろ。お前らにとっては味方かもしれねえが、俺からすれば敵なんだよ。国の連中ってのが本当なら、なおさらだ」
「怪しいですね。惜しいとか、思ってませんよね」
「……思ってねえよ」
クリスティーの最後の言葉は、自信の文字がぶら下がり、ふらふらと床へ落ちていく。
彼の心境は男性として、三方の重しをもった秤が揺れに揺れていた。
大きくあるのは、怪人の誘拐行為に関与する身としての危機感。
次に小さな体の少女に対する、守りたいと思う感情。
そしてアンナへの異性としての興味だった。
幼さが目立つといえど、全体的にはヴィクトリアも認める美貌の持ち主。
加えて顔立ちはクリスティーの好みであり、それが少しの間とはいえ、背中側に密着していたのだから、欲が生まれるのは自然だろう。
だからこそクリスティーは強く否定できず、ヴィクトリアもまた瞳に宿る凍てつく刃を研いでいく。
「最低」
「おい、止めろ。言葉だけなのマジで怖えから。なんでそんな怒ってんだよ」
「小さい子が好みなのね、貴方」
「誤解にも程があんだろ。ホント止めろ」
研がれた刃は、すぐさま灰の少女の声音によって振るわれる。
まずは一閃。そこからの胸を何度も突く言葉の猛攻。
いわれのない暴言だとクリスティーが抗議するも、ヴィクトリアの視線に暖かさは戻らない。
針仕事のごとくチクチクと胸を刺す彼女は、室内に入った後も続けていた。
「あら、アンナちゃんのような目で見られるのが、お好きなのでしょう」
「お前のそれはちげえだろ。なんだ、今ここで例の勉強でもすればいいのか。お前のこと、お嬢様とかでも呼べば満足……ん?」
言い争うヴィクトリアとクリスティーは、意識と視線がお互いに向けられたまま。
どちらも引き下がらず、かといって踏みこむこともしない二人だったが、両の手首にクリスティーが違和感を覚えると、ヴィクトリアも振るう刃を止める。
彼の手首に二人が視線を落とすと、そこには両腕の自由を奪う長い布が、丁寧に巻かれていた。
「念のためですので、ご理解を」
声につられて二人が顔を上げると、アンナを寝かせるための準備を進めているブリジットが、爽やかな笑顔を浮かべている。
入った扉は閉じられ、傍に人が立つことで暗に語るのは逃がさない意思。
急なことにヴィクトリアの瞳にあった氷は溶かされ、代わりに困惑の色を浸透させる彼女は、ゆっくりとクリスティーの顔へ視線を戻していく。
灰の少女がおそるおそる見た男性の顔色は、この場の誰よりも青白さを際立たせていた。




