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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
55/84

55.intermedio - light and shade(8)

 クリスティーの父親が落ち着きを取り戻したのは、曇天の日中が去ったころ。


 ぎこちない夕食とともに、息子たちの事情を咀嚼(そしゃく)できたのか。

 頭痛の気配をにじませながらも、二人の少女をリビングルームへ招き寄せた。


 その場にはクリスティーと怪人は同席させず、対面するのはアンナとヴィクトリアだけ。

 ソファーへ深く腰かける中年男性は、今日何度目かの深いため息をつく。


「仕事を請けていた男爵の娘さんに、アイザック王子の秘蔵っ子。胃がいくつあっても足りんな。……ああ、ヒース嬢。お茶くみの真似なんてさせて済まない」

「いえ、お気になさらず。私の方が紅茶を上手く淹れられますので。アンナちゃんにはこれを。仰っていたジンジャーティーです」

「ありがと。ブリジットが飲めって、よく出してきたんだよね」


 三人がいる空気に満ちるのは、紅茶の澄んだ香りとほのかな甘い匂い。

 中年男性にはストレートの紅茶が出されるも、少女たちがおそろいで用意したのは、生姜を足したジンジャーティー。


 そこへ蜂蜜を入れて甘味を出すも、それぞれで分量が違う。

 ヴィクトリアは控え目で風味を楽しむていどだが、アンナは砂糖ほどに溶かし、飲むお菓子として味わっていく。


「このカップも新しい。ここへ来て一週間だったか。うちの馬鹿二人が大変迷惑をかけた」


 夕食のお茶が準備できたところで、先に席へ着いているアンナの隣へヴィクトリアも座ると、中年男性は間を置くことなく頭を下げた。

 ティーカップの置かれたテーブルにぶつかるほど深く、そして本心を乗せた謝罪をする彼は、ゆっくりと顔を上げながら続きを発していく。


「申し遅れたが、俺はヴァレンタイン・ヘブンスコール。ご存じのとおりクリスティーの父親だ」

「こちらこそ改めて、ヴィクトリア・ヒースです。どうぞ、気兼ねなくヴィクトリアとお呼びください。家名は少々、思うところがありますので」

「そうか、それは悪かった。よろしくヴィクトリア嬢。それでこっちの子が──」


 疲労を隠せないのか。

 立ち上がる意思を見せたヴァレンタインだったが、肘置きに手を置いたところで諦め、詫びをいれながらも彼は名前を告げる。

 対してヴィクトリアは流れるように立ち、静かな礼を披露した。


「アンナ」

「……まるであいつみたいだな。もっとも、あいつは名前すら名乗らなかったが」


 立つどころか、口をつけるティーカップすらも離さず。

 たった一言、名前をつぶやくだけ。


 ヴァレンタインにアンナが向けるのは、霞のように薄い関心を宿した紫の瞳。

 それを苦笑で流す彼に、席へ座り直したヴィクトリアが食いついていく。


「あの怪人、知っているんですね。それどころか家族みたいな言い方でしたが」

「否定はしない。もう二十年も、あの二人を見ているからな。あいつがどう思っていようが、俺にとってはどちらも息子だよ」

「噂となっていた魔笛(まてき)の怪人の所業、そして私たちにしたこと。そのどちらもご承知で?」

「ああ。君たち、その辺りはもう息子──クリスから聞いているんだろう。世間に知られれば、一躍犯罪者だ」


 貴族が抱えた金品の盗難に、今回の児童誘拐。

 すべて怪人の勝手なのだが、それらを自分たちの罪として受けいれたヴァレンタインの目は、本来の茶色い眼差しより濃く黒い。


 盗品と知った上で寄付へ変えている。

 言い逃れができない犯罪ではあるが、責任を怪人へ押しつけない覚悟に、ヴィクトリアは言葉を紡ぐのに時間がかかってしまう。


「あいにくと私もクリスと同意見でね。考えてもみてくれ。どれだけ怪人のせいだと言っても、それを信じる人間がどこにいる。証拠は私の目の前に、君たちがここにいるんだ。寄付した金品はともかく、誘拐は事実としか映らない」


 噂は噂。

 怪人が実在すると信じる人は限られ、とすれば誘拐の実行犯はヘブンスコール家の者となる。

 それならば口封じとして、二人の少女の自由を奪うのは当然で、家の中を好きにできるのは本来であればありえないこと。


「だが、ヴィクトリア嬢の話が本当であれば別だ。王子の助けとなれるのなら、国民としてこれほど誇れる名誉はそうない。まあ、密告をしないことが条件となるがね」

「本当にあの人と同じなんですね」

「そう思うだろう? これでも歳でね。諦めるのも悪くないと思えてるんだ」


 何の話だと、ヴァレンタインの言葉にアンナとヴィクトリアも首を傾げる。

 彼の低い声は言葉に引っ張られ、結ばれた顔と体は下へ向いていく。


「頼む。もし俺たちのことを話すというのなら、怪人のやったことは全て俺のせいとしてくれ。この通りだ」


 この首は君たちの自由にしていい。

 その代わり、怪人とともに息子を霧の中へ隠してくれ。


 そう懇願(こんがん)するヴァレンタインに、二人の少女は横目で視線を交わす。


「そういえば、アンナちゃんがこの件をどうするのか。聞いてませんでしたね」

「別に。私はザッ……アイザックたちにあの怪人のこと、話すだけだよ」

「貴女を認知している時点で、アイザック王子は怪人をお認めになるでしょう。であれば、この話を続ける価値はありません」

「噂の怪物探しをしている王子か。こちらもあいつを抱えている身だ、疑いはしない」


 アンナを側に置いている以上、アイザックが怪物を認めないはずがない。

 そう確信するヴィクトリアは、内にある不満をジンジャーティーに溶かしながら、冷静さに努めていく。


 犯罪は罰しなければいけない。

 それを当然とするも、自身の目的と心情をすり合わせた結果、ヴィクトリアの心の天秤は傾いていた。


 未遂だが暗殺を受けたアイザックを捜す以上、ヴィクトリアたちの一連の流れをまず話す相手は、間違いなく彼となる。

 男爵の娘とはいえ一介の少女の言と、王子であるアイザックの言。

 どちらが重いかは比べるまでもなく、王子の裁量次第では家族そろって無罪もありえる。


 そんな考えを振り払えなかったヴィクトリアは、ヘブンスコール家の裁定を王子に委ねることにした。


「……その怪人ですが、どうして彼はこの家に居ついているのですか? この一週間隅々まで見ても、怪しい物があるどころか、普通の家でしたし」

「ちゃっかりしているな。そんなのは俺も知りたいくらいだ。知っての通り、あいつは自分のことを何も話さん」


 ヘブンスコール家が犯した罪は、王子を見つけ次第、彼の手へ預けることに。

 だが超常の力を持った怪人の動きによっては、ヴィクトリアの方針も、ヘブンスコール親子の方針も瓦解する。


 そんな想像が脳裏をかすめるがために、固い誓いを交わせない両者は、示し合わせた訳でもなく怪人の話題を口にしていく。


「まずクリスは、俺と亡くなった妻の実の子じゃない。それは聞いたか?」

「いえ。では養子ということですか」

「まあな。妻との間に子ができなくて、お互いに焦りを感じてたときに、あいつは現れたんだ」


 怪人が彼らの前に現れた瞬間。

 そんな話をできた試しがある訳もなく、ヴァレンタインの口は点いた火で遠い過去を照らしていく。


「濃い霧がかかった朝、家の前にあいつがいたんだよ。丁度、玄関を開けてすぐのところだ。大事そうに赤ん坊を抱えてな」


 家の中は薄暗く、外の世界は一面の白。

 大空すら飲みこんだ霧の中、ヘブンスコール宅の前でひっそりたたずむ奇怪な怪人。

 頭はうなだれ、長い足は糸のように頼りなく、赤子を抱えた両腕は自身の心を守るよう。


「俺と目が合うと、その赤ん坊を渡してきたんだよ。自分の命みたいに抱えてるのを、何も言わずにさ。受け取るしかなかった、拒めなかった」


 仮面に描かれている笑顔が、あまりにも辛そうに見えたから。


 安堵、悲哀、妥協。

 見いだせた感情の色は虹色で、しかし奥行きが掴みきれない霧のキャンバス。


 今まで見た怪人の様子とはかけ離れており、ヴァレンタインの語りにつられて、少女たちの空気も冷えたものとなっていく。


「その赤ん坊がクリスティーなのですね」

「ああ。その時からあいつはこの家にいるが、何があったかは聞けない。聞いても答えないだろうがな」

「ですが、その話を踏まえるのなら、盗みを働く理由も理解はできます。それだけ大切な人との約束が違えられたら、相手に報復しようと思っても不思議はないです」


 自身の命と同等の子ども、そしてそれを預けた一家。

 彼らと結んだ約束を破るのなら、相応しい償いを。

 金品を狙うのも、一家の役に立つ物をと考えてのこと。


 ヴィクトリアはそう解釈するも、納得が腹に落ちることはなく。

 それを聞いていたヴァレンタインも同じで、考えるだけ無駄だと笑みをこぼす。


 そんな不明瞭な怪人について話す二人の横で、アンナはジンジャーティーの甘味を口の中で転がしながら、耳で拾った単語を反すうしていた。


「霧、赤ん坊、大切な人、約束」


 言葉自体はありふれたものばかり。

 それなのに耳に残る音は、アンナの頭の中で歌を奏でていく。


「父親も母親も、わからない」


 リズムが刻まれるたび、胸中で鮮明に描かれていく怪人の姿。

 濃霧でたたずむ彼から思い起こすのは、いつの日かの自分。


 薄暗い教会の中で膝を抱え、明るい少女が扉を開けるのを待ち続けていた、小さな町の黒い怪物。

 どうしてか。その時の自分と怪人が、重なる気がしたアンナは、ヴァレンタインの言う笑顔も想像できた。


 ──パチンという、火花のような音とともに。


「アンナちゃん、眠いの? ……髪が赤く光ったのは気のせいかしら」

「べつに、ねむいわけじゃない」

「呂律がイマイチよ。仕方ないわね、早いけれど就寝の支度をしましょうか」


 怪人のことを考えている内に、まぶたが重くなって閉じてしまったアンナを、ヴィクトリアはくすりと笑う。


 フォーマルな衣装での大人っぽさ、男性の物を着たときの中性さ。

 そのどちらよりも、今の幼さが前面に出ているアンナが、ヴィクトリアの中では一番しっくりくるものがあった。


「この手の話は、この子にとっては退屈だったか。アイザック王子が見つかるまでだが、また話ができるかな、ヴィクトリア嬢」

「それは構いませんが、貴方がたの罪は覆りませんよ」

「交渉もさせてくれないのかい?」

「態度次第です」


 言葉の反応すら鈍くなったアンナを連れ、就寝の算段を立てながら動くヴィクトリア。

 そんな彼女に、残りの紅茶を嗜みながら声をかけるヴァレンタインは、取りつく島のない少女の姿に思わず苦笑してしまう。


 血はつながっていなくとも似ている。

 そう感じる彼の笑い方に、ヴィクトリアは口元を緩めてしまうも、ハッと気を取り直して背中を向けた。

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