52.intermedio - light and shade(5)
怪人の案内によってアンナが姿を消したあと、クリスティーは壁に背をつけ、床へ座りこんだまま。
閉ざされた扉は動く気配がなく、室内から感じる気配も、水底の重い流れが壁越しに伝わるのみ。
ぶつかってばかりだった少女が、完全にふさぎこんでしまった。
それを充分に理解した彼は、ぼんやりと天井を眺めながら、あふれてくる言葉を丁寧に選んでいく。
「おい。お前まさか、聞いただけの噂を信じるのか」
ヴィクトリアが耳にしたという、アイザック暗殺未遂。
クリスティーにとって彼は遠い存在であり、姿どころか名前以外はなにも知らない人物。
だが国の王子という重鎮に凶刃が向けられた。
その意味するところは理解でき、次第によっては国民にも関わる案件だろう。
「俺とお前、見たのはあいつとアンナの黒いやつだけだろ。国の王子のなんて、又聞きしか知らねえ」
王子と面識がある少女の気持ちも、クリスティーは重さの一端を感じとれていた。
三人の中で一番近しいアンナに起こった異変で、ヴィクトリアの本心はうまく隠されていたが。
知り合いが傷つけられたと聞いて、平然としていられるほど、灰の少女に流れる血は青くない。
ましてや犯人は従兄。アイザックについても、嫌う傾向はあっても王族に対する敬意はある。
どちらも性格の一面を思い描ける相手であり、例え事実でなくとも根深い痛みが少女の中を駆けている。
「あいつがお前たちを連れて来て、アンナは奇妙な力を持ってる。俺が知ってるのはそれだけだ」
「……だから、何よ」
今までは気丈に振る舞っていただけで、いくえもの衣がはがれれば、さらされるのはどこにでもいる女の子。
姿が見えずともそれが分かったクリスティーは、あくまでも噂だと訴えかけると、小さく低い声が壁越しに背中を叩いた。
一枚の壁を挟んで重なる、少女と若い男性の背中。
どちらも下を向き、反対側へ声を投げているのに、床と壁に天井とぶつかっては、言葉が相手の頭に刺さっていく。
「本当かどうか確かめる」
「どうやって」
「あいつがいる。お前たち二人を攫ったぐらいだ。王子とその犯人を捜すぐらい、簡単だろ」
確証はない。
しかしあの怪人なら、謎の多い事件でも糸口を見つけられるはず。
そんな信頼を強く乗せ、クリスティーは後ろの少女に言葉を放るも、丸まった切っ先だけだった。
「それをするくらいなら、私たちを家に帰しなさいよ。父に会えば、全て分かる」
「そうしたらお前、俺を牢屋にぶちこむだろ」
「当然でしょ。怪人が盗んだ物を、返さず別のことに使ったのだから」
「あいつが取ってきたやつを寄付した話か。……それもあっさり信じてる辺り、見た目より純粋だな、お前」
ヴィクトリアを褒めているつもりで、クリスティーはフッと笑う。
けれど少女の耳には馬鹿にしている調子で届き、ヴィクトリアは思わず壁に肘を打ちつける。
だが衝撃は彼に伝わらず、残ったのは加減のない力で生まれた痛みだけ。
それでも思いが乗せられた音だけは背中を打ち、クリスティーは笑みをため息で消していく。
「第一、あいつを使って王子を捜すつったの、お前からだろ。ほら、どうした。もう一回言えよ。協力しろって」
前しか見ていなくて、強引で、ためらいもなく立ち向かう。
背中を合わせている少女はそんな奴だと、第一印象を心でつづるクリスティーは、わざとらしく嘲る音色を奏でる。
出会って間もないのに、ふさぎこんだ姿は似合わない。
そう告げる彼に向け、再び壁が叩かれた。
「うるさいわね、さっきから。犯罪者の口車に乗る訳ないでしょう」
一度目よりも強く。
燃える苛立ちだけで叩かれる壁は、それでも硬くそびえたつ。
「クリスティー、貴方なにを勘違いしているの。協力させてくださいでしょう? 私が外に向かって叫べは、それで一巻の終わり。そのことを理解できていて」
「なんだ、まだ元気じゃねえか。怪人に攫われたなんて世迷言、世間に知られれば、頭がおかしくなったと思われるだけだぞ」
「あら、いつ誰があの怪人の名前を出すと言いました? 貴方の名前だけで充分事足ります」
壁に打ちつけるのは、肘や手に言葉まで。
強さが増していくヴィクトリアの思いは、ほつれ傷ついた衣を段々と直していった。
「言ってみろ。容赦しねえ」
「怖いわね、殿方というのは。組み伏せる程度なら、また蹴り上げて差し上げます」
「そんな余裕があると思ってんのか」
天井裏で初めて出会ったときと同じで隙がある。
そう踏んで、もしもの話に対して自信満々にヴィクトリアは対応を語っていく。
しかし遮る形で告げられた低い男性の声に、彼女は無意識に体を縮めてしまう。
こぼれる小さなか弱い悲鳴。
かすかにだがそれを聞き取ったクリスティーは、ハッと我に返りながら、声の調子を戻していく。
「──やんねえよ。ったく、調子狂うな。おい、一度しか言わねえぞ」
普段のヴィクトリアと話していると、言葉の加減が効きにくい。
それを実感したクリスティーは、深めに息を吸いながら、熱量に引っ張られないように思いを形にしていく。
協力しろ、協力してください。
どちらを選んでも結果は同じで、噂の事件の真相を知りたいという思いも重なっている。
違うのは男性が手を取るか、少女が手を取るかだけ。
「王子を捜すのを手伝ってやる。俺だって、そいつには聞きたいことがあるんだ」
「良いでしょう。後で言い方を学ばせる必要はありそうですが」
「ビンタの次は勉強かよ、クソが。それと条件だ。拉致とか余計なこと、その王子に言うなよ」
「交渉のつもり? 貴方の態度次第ね」
なんで連れ去れた側が偉そうにしてんだ。
そうぼやくクリスティーだったが、背中から伝わる重さがなくなったのを感じると、自分の中にもあった重い空気を吐きだした。
けっして、出会ったときのような明るさに戻りきった訳ではない。
それでも顔を上げたことが分かる様子に、不思議と体が軽くなっていく。
「ああ、そういえばクリスティー。貴方に言いたいことがあるの」
「うおっ! だからお前ら、急に扉開けんな。恥じらいとかねえのか」
「失礼な人ね、引っぱたくわよ。それよりもほら、出しなさい」
音もなく現れたアンナとは違い、控え目だが気配のある扉の開け方をするヴィクトリアに、クリスティーは慌てて目をそらした。
うかつに見てしまえば、何をされるか分からない。
そんな警戒をよそに近づいてきた少女は、未だにドレス姿のまま。
趣味じゃないと言ったとはいえ、貴族らしく飾られた容姿は惹かれるものがあり。
目の前に手を差しだされるまで、彼は少女の全身を瞳に収めたまま。
クリスティーが急かすように主張する手の平を見たのは、続く言葉を聞いてからだった。
「この家にある服、全部。部屋にあるだけじゃ納得いかないの」
「……お前なあ」
海のような碧眼と、夕暮れ空を思わせる赤みの強いオレンジの瞳。
その二つが重なるとき、お互いに描かれた笑みの形は違う心をふくんでいた。




