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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
51/84

51.intermedio - light and shade(4)

 何度繰り返しても、教えられた番号で電話はつながらず。

 三度目の時点で無駄と理解したアンナは、諦めとともに受話器を置いた。


 用が終わったので、抱き上げていた少女を下ろす怪人。

 下ろされたのはいいものの、他にできることがないと、手持ち無沙汰となってしまうアンナ。


 人間にはない力を持った二人。

 彼らだけとなったリビングルームは、時計の針と動き始めた町の声しか聞こえない。


「……また一人」


 いつも隣に来ては、おしゃべりをする友だち。

 それぞれの態度で少女を気にしてくれる青年たちに、彼らの客人としてもてなす使用人たち。


 全員がこの場にいない。


 かつていた教会とは雰囲気が違うというのに、知る人がいないと内心につづると、紫の瞳の色が深みを増していく。

 周りにある調度品たちが壊れた物と同じに見え、時計の針が動く音は、一つ刻まれるのすら遅く感じる。


「どうしてだろ、前はいつもそうだったのに」


 いつの間にか、一人でいないことが当たり前になってしまった。

 その感覚が記憶の中にいるミアの影を長く思わせて、キュッと心が締めつけられていく。


 目を閉じると、思い浮かぶのはいくつかの影。

 彼らが友だちを隠してしまいそうな気がして、止めるためにアンナは両手を胸に当てる。


「一人なのは、慣れてるのに」


 心に住みついた、ミア以外の彼らは誰?


 そう問いかけても、答えられるのは自分だけ。

 他の誰にも彼らに名前はつけられない。


 分かっている。けれども、なんと呼べばいいのかは、今のアンナに当てはめられる言葉はない。

 だからこそ不気味な感覚すら覚える彼女は、頭を振ってでもミア以外の影を払おうとする。


「こわい」


 実感は体感へ。

 鼓動が跳ね、しかし頭と胸中は地面を目指し、あべこべな体の感覚は心理の鏡写し。


 活発なヴィクトリアに、任せきりにしていたアンナだったが、ここへ来て言葉だけに留めていた事実が冷気を放っていく。


 足はすでに凍てつき、体温は暑いと寒いを反復横跳びしている。

 音も遠のき、進んでいるはずの時間は、足を無風の雲に乗せていた。


「──……えっと、なに」


 誰も自分のところへは来てくれない。

 乱れた筆でそんな思いを心に描こうとしたとき、伏せられていたアンナの視界に、不気味な仮面が収まって来た。


 柔軟性が高いのか。

 立ったまま背を折り曲げて、怪人は少女の顔を覗きこむ。


 衝撃のあまり、渦巻いていた青と黒を真っ白に塗り替えたアンナは、ただただ疑問だけを彼にぶつけた。

 それを認めた怪人だったが、何をするでもなくスッと体勢を元に戻すと、今度は少女の両脇に手を通して持ち上げる。


 高く天井に届くくらい、全身を使って床からアンナを引き離す怪人は、そのまま見つめて反応を待っていた。


「これで喜ぶような子どもじゃない」


 さながら幼い子どもをあやすように。

 怪人と対面する形で持ち上げられたアンナだが、その心境は残念さが幅を利かせていた。


 ここに私がいる。そう告げたいがための行動なのだろう。

 しかし、アンナに対する怪人の動きは、幼い年齢を想定したものが多かった。


 事実、背丈でいえば低い方であり、体格も恵まれていない。

 けれども必要以上に幼く扱われることへ、アンナは不服を述べていく。


「別に、そこまで本気で悩まなくても」


 これではない。

 そのことを重々承知した怪人は、すぐにアンナを床へ下ろし、次を考え始めた。


 わざとらしく手を口元にあて、首に捻りを加えていく怪人。

 しかし、時計の針が彼の頭も回していく。


 黒い少女の機嫌を取るには、どうすればいいのか。

 六時半に近づくほど悩みをみせる彼に、アンナもまた困ってしまう。


「ごめん。もう平気。一人になるの、久しぶりだっただけだから」


 謝罪を口から、けれど表情に晴れ間は見えない。

 そんな少女を前にした怪人は、ゆっくり直立へ戻ると、今度は最敬礼のように上半身を倒し、アンナの眼前へ仮面を近づけた。


 間近で目にしても人間味のない笑う仮面。

 呼吸すらも聞こえない顔からは、代わりに笛の音が奏でられていく。


「あなたのせいなのに、心配するんだ」


 高すぎず、低すぎず。

 伸び伸びとした旋律が築くのは、気楽さを求める優しい曲。


 真昼のティータイムを思わせる笛に、アンナはかすかに口元を緩ませた。


「名前は……ないよね。それとも知らないだけなのかな」


 ──わたしみたいに。


 付け足した言葉に乗せるのは、夏ごろまでの膝を抱えた自分自身。

 独り言にも捉えられるアンナの言葉を受けた怪人だが、間近に迫った顔を引き戻すと、仮面に描いた口と立てた人差し指で十字を作る。


 秘密の沈黙。

 それとも人には聞こえない音で、こっそりと囁いているのか。


 どちらとも取れる笑みに、アンナは知っている人物の影を重ねていた。


「ザックみたいなことするね。ん、でもなんか違う。なんだろう」


 優しくしてくれる青年とも、一人の人間として淡々と扱う彼とも違う。

 どちらにも似ていて、でも確かなズレはあって。


 実感の湧かない知識の中から言葉を探すアンナは、不思議と思い浮かんだそれを怪人へ渡していく。


「……兄?」


 自分で困らせておいて、泣かれたりすると戸惑い機嫌を取ろうとし。

 とっさに出る扱い方が小さな子へのそれ。


 弟妹のいる兄と考えると、アンナに対する怪人の動きは頷ける。

 しかしそんな例えを、一瞬でも飲みこんでしまったアンナは、やはり怪人の中での自分の扱いに瞳で不満を示していくのだった。

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