49.intermedio - light and shade(2)
火にくべられた炭のように、麗しい黒髪へ赤い亀裂が走る。
そんな光景を目にしたヴィクトリアとクリスティーは、自分たちの認識に自信を持てずにいた。
はじめは目の錯覚、次に変化が確かなものだと認め。
人形同然に大人しかったアンナが、人にはない異変を起こしていると確信したのは、編まれた部分にすら赤い線が流れたとき。
「アイザック、もういないの?」
命の脈動を思わせる赤を描く黒髪。
生き物の温もりを忘れ、無機質な重さが増していく深い紫の瞳。
そして、わずかながら感情の起伏があった表情は、ほのかな色味を失っていた。
アンナに起きた変化は、部屋にすら及んでいく。
目を凝らせば見える黒い霧。
物を隠し、別のなにかを形作ろうとするそれは、時間が経つにつれて濃さを増し、煤のように張りついている。
人知では一端も理解できない、明らかな異常。
それを前にしてまず動けたのは、ヴィクトリアだった。
「違う、私が聞いたのは未遂で。そもそも決まってる話じゃないの」
王子のお気に入りであることから、アンナが彼に対して思い入れがあるのは想像できていた。
だからこそ、いなくなったという言葉が鍵だと察したヴィクトリアは、周囲の変化を無視して黒い少女に駆け寄っていく。
「きっと無事よ。あの王子のことだから、平然と姿を見せるに決まってるわ」
両肩を掴み、焦点の合わない瞳をまっすぐ捉え、意識を叩くように声を上げる。
ヴィクトリア自身も話の全てを鵜呑みにはしていない。
でも、心のどこかでは本当かもと信じてしまっている部分がある。
だからこそアンナの動揺に共感し、そしてうかつだったと悔いていた。
「嘘の、はずなのよ。ランストがそんなこと、する訳ないじゃない」
見知らぬ場所と人、信じがたい噂話、一夜を過ぎて押し寄せる多大な変化。
それを一介の少女たちが受け止めきれるはずもなく、アンナの異変を止めようとしたヴィクトリアも、徐々に引きずられていく。
もしもアンナと同じ立場になったら。
そんな想像が頭の中を循環し、考えては駄目と首を振っても、円となった思考は軌道を外れない。
事態を飲みこめないまま、呆然としているクリスティーもまた、黒い空気に飲まれている。
彼女たちが抱えているのは、自分には遠い世界の話。
けれど現実には目の前で起きていることで、嘆く少女たちに代わり、行動を起こしたいと思いだけは走っている。
でも心が動けたのは、クリスティーの表層だけ。
底から押しだされるものはなく、足にすら力が入らない。
──黒い霧が濃くなり、煤が積もるのを見届けるばかり。
何をすればいいのかが分からないクリスティーが、視界が黒く染まっていくのをただ見ていたそのとき。
空気とは真逆の光に満ちた笛の音が、霧に隠れた少女を抱き上げた。
「……えっ」
外見は怪しく、中身は不明の奇怪な怪人。
彼の一声でアンナの瞳に光が加えられ、眼前の物すら見なくなりそうだった室内の霧も払われた。
怪人を知っているはずのクリスティーすら、開いた口がふさがらず。
抱き上げられたアンナは猫のように伸びたまま、ヴィクトリアは笑った顔を崩さない仮面に目を奪われる。
「お前、助けてくれた……でいいんだよな」
「なんで貴方がそれを確認するの」
「俺だって、こいつのこと全部は知らねえよ」
霧を晴らし、宙に持ち上げたアンナをそっと床へ下ろした怪人は、二人の少女へ交互に顔を向けていく。
視線はなく、どこを見ているのか疑問を持つアンナとヴィクトリア。
そのまま見続けるのかと思いきや、再び家の中を動き回り、怪人は物を手にした状態で戻って来た。
それはクリスティーの物であろう、いくつかのトップス。
少女たちへこれ見よがしに衣類を示し、その後は奥へと行けと、長く綺麗な腕で誘導していた。
「もしかして着替えでしょうか? ドレスのままは確かに不便ですが……」
「あー、そうっぽいな。つっても、うちには女物なんて碌にねえぞ」
「でしょうね。けど、この際構いません。あの方のご厚意に甘えさせていただきます」
アンナちゃん、行きましょう。
そう言いながら、ヴィクトリアは黒い少女の背中を押すも、先程とは別の意味で抵抗が薄かった。
アンナの瞳は怪人を収め続けたまま。
しかし体はヴィクトリアの押されるがままで、足も止まることはない。
「ありがとうございます。変な人ですね、貴方は」
怪人が誘うのは一つの空き部屋。
二人の少女を中には通すも、自分は立ち入らないと扉の前で足を止める怪人に、ヴィクトリアは微笑みとともに頭を下げた。
理由を告げず人を連れ去り、かと思えば扱いはお姫様。
あまりにも身勝手過ぎて、怪人の行動は容姿と合わさって笑えてしまう。
そんな思いを少女が正直に告げたとしても、怪人が声で応えることはなく。
ただ静かに肩をすくめるだけ。
「それとクリスティー。そこにいることを許すのは、話すためです。覗いたら極刑ですからね」
「しねえよ、お前なんか趣味じゃねえ」
見た目に反する怪人の行動を、受けいれつつあるヴィクトリアだったが。
出会ったときから衝突ばかりのクリスティーに対しては、今も軟化する気配は見えてこない。
扉一枚、境界が生まれても変わらず。
廊下側の壁に背中を預けるクリスティーは、後ろから刺さる針の先に、むずがゆさを覚えていた。
「ったく。なんでお前が信用されて、俺は今にも殴られそうなんだ。逆だろ普通」
用意された部屋の中で、衣類の物色を始める少女たち。
そんな空気を耳だけに入れながら、クリスティーは怪人へ声をかけていく。
令嬢の傍で控える執事のように、息を潜めて部屋の外で待機する怪人は、彼の言葉に首を傾げた。
「いつもみたいに金か宝石なら、面倒じゃねえのに。よりによってなもん持ってきやがって。何考えてんだお前」
悪態をつくクリスティーだが、聞いている怪人はどこ吹く風と流している。
この朝に起きた一連の事態。
すべては目の前にいる怪人のせいなのに、本人はまるで楽しんでいるようで。
執事ごっこでもしたかったのかよと、クリスティーは一人うなだれていく。
「……ああ? んだよ、さっきから。まさかヒース家の令嬢が趣味じゃねえつったの、気にしてんのか」
怪人の顔は、クリスティーと扉を行ったり来たり。
加わった身振り手振りを合わせ、ようやく意図を読み取った彼は、意外な質問に眉をひそめる。
「あんな暴力女、俺はごめんだ。アンナ? いやまあ、嫌いじゃねえ」
ヴィクトリアとは、いつまで経っても同じ方向は向けないだろう。
そんな予感がする彼女に対して、クリスティーの態度は一貫したもので、話題の少女もそれだけは同意するだろう。
だがもう一人の少女、アンナへ話が映った途端、彼の表情は和らいだ。
上流階級への対抗も、気に食わない相手への敵対も、噛み合わない言動への反発も。
激しいばかりの色彩で塗られた心が、時期である秋のように豊かな色味を実らせる。
「顔は好きだよ、顔は。……顔しか、まだ知らねえ」
ヴィクトリアのときには、本人にすら聞こえそうなほど上げられていた心の声。
しかしアンナを意識したクリスティーの調べは、彼が思っている以上に床をなぞるような低さで、ひっそりと奏でられていた。




