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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
49/84

49.intermedio - light and shade(2)

 火にくべられた炭のように、麗しい黒髪へ赤い亀裂が走る。

 そんな光景を目にしたヴィクトリアとクリスティーは、自分たちの認識に自信を持てずにいた。


 はじめは目の錯覚、次に変化が確かなものだと認め。

 人形同然に大人しかったアンナが、人にはない異変を起こしていると確信したのは、編まれた部分にすら赤い線が流れたとき。


「アイザック、もういないの?」


 命の脈動を思わせる赤を描く黒髪。

 生き物の温もりを忘れ、無機質な重さが増していく深い紫の瞳。

 そして、わずかながら感情の起伏があった表情は、ほのかな色味を失っていた。


 アンナに起きた変化は、部屋にすら及んでいく。


 目を凝らせば見える黒い霧。

 物を隠し、別のなにかを形作ろうとするそれは、時間が経つにつれて濃さを増し、煤のように張りついている。


 人知では一端も理解できない、明らかな異常。

 それを前にしてまず動けたのは、ヴィクトリアだった。


「違う、私が聞いたのは未遂で。そもそも決まってる話じゃないの」


 王子のお気に入りであることから、アンナが彼に対して思い入れがあるのは想像できていた。

 だからこそ、いなくなったという言葉が鍵だと察したヴィクトリアは、周囲の変化を無視して黒い少女に駆け寄っていく。


「きっと無事よ。あの王子のことだから、平然と姿を見せるに決まってるわ」


 両肩を掴み、焦点の合わない瞳をまっすぐ捉え、意識を叩くように声を上げる。


 ヴィクトリア自身も話の全てを鵜呑(うの)みにはしていない。

 でも、心のどこかでは本当かもと信じてしまっている部分がある。


 だからこそアンナの動揺に共感し、そしてうかつだったと悔いていた。


「嘘の、はずなのよ。ランストがそんなこと、する訳ないじゃない」


 見知らぬ場所と人、信じがたい噂話、一夜を過ぎて押し寄せる多大な変化。

 それを一介の少女たちが受け止めきれるはずもなく、アンナの異変を止めようとしたヴィクトリアも、徐々に引きずられていく。


 もしもアンナと同じ立場になったら。

 そんな想像が頭の中を循環し、考えては駄目と首を振っても、円となった思考は軌道を外れない。


 事態を飲みこめないまま、呆然としているクリスティーもまた、黒い空気に飲まれている。


 彼女たちが抱えているのは、自分には遠い世界の話。

 けれど現実には目の前で起きていることで、嘆く少女たちに代わり、行動を起こしたいと思いだけは走っている。


 でも心が動けたのは、クリスティーの表層だけ。

 底から押しだされるものはなく、足にすら力が入らない。


 ──黒い霧が濃くなり、煤が積もるのを見届けるばかり。

 何をすればいいのかが分からないクリスティーが、視界が黒く染まっていくのをただ見ていたそのとき。


 空気とは真逆の光に満ちた笛の音が、霧に隠れた少女を抱き上げた。


「……えっ」


 外見は怪しく、中身は不明の奇怪な怪人。

 彼の一声でアンナの瞳に光が加えられ、眼前の物すら見なくなりそうだった室内の霧も払われた。


 怪人を知っているはずのクリスティーすら、開いた口がふさがらず。

 抱き上げられたアンナは猫のように伸びたまま、ヴィクトリアは笑った顔を崩さない仮面に目を奪われる。


「お前、助けてくれた……でいいんだよな」

「なんで貴方がそれを確認するの」

「俺だって、こいつのこと全部は知らねえよ」


 霧を晴らし、宙に持ち上げたアンナをそっと床へ下ろした怪人は、二人の少女へ交互に顔を向けていく。

 視線はなく、どこを見ているのか疑問を持つアンナとヴィクトリア。


 そのまま見続けるのかと思いきや、再び家の中を動き回り、怪人は物を手にした状態で戻って来た。


 それはクリスティーの物であろう、いくつかのトップス。

 少女たちへこれ見よがしに衣類を示し、その後は奥へと行けと、長く綺麗な腕で誘導していた。


「もしかして着替えでしょうか? ドレスのままは確かに不便ですが……」

「あー、そうっぽいな。つっても、うちには女物なんて碌にねえぞ」

「でしょうね。けど、この際構いません。あの方のご厚意に甘えさせていただきます」


 アンナちゃん、行きましょう。

 そう言いながら、ヴィクトリアは黒い少女の背中を押すも、先程とは別の意味で抵抗が薄かった。


 アンナの瞳は怪人を収め続けたまま。

 しかし体はヴィクトリアの押されるがままで、足も止まることはない。


「ありがとうございます。変な人ですね、貴方は」


 怪人が誘うのは一つの空き部屋。

 二人の少女を中には通すも、自分は立ち入らないと扉の前で足を止める怪人に、ヴィクトリアは微笑みとともに頭を下げた。


 理由を告げず人を連れ去り、かと思えば扱いはお姫様。

 あまりにも身勝手過ぎて、怪人の行動は容姿と合わさって笑えてしまう。


 そんな思いを少女が正直に告げたとしても、怪人が声で応えることはなく。

 ただ静かに肩をすくめるだけ。


「それとクリスティー。そこにいることを許すのは、話すためです。覗いたら極刑ですからね」

「しねえよ、お前なんか趣味じゃねえ」


 見た目に反する怪人の行動を、受けいれつつあるヴィクトリアだったが。

 出会ったときから衝突ばかりのクリスティーに対しては、今も軟化する気配は見えてこない。


 扉一枚、境界が生まれても変わらず。

 廊下側の壁に背中を預けるクリスティーは、後ろから刺さる針の先に、むずがゆさを覚えていた。


「ったく。なんでお前が信用されて、俺は今にも殴られそうなんだ。逆だろ普通」


 用意された部屋の中で、衣類の物色を始める少女たち。

 そんな空気を耳だけに入れながら、クリスティーは怪人へ声をかけていく。


 令嬢の傍で控える執事のように、息を潜めて部屋の外で待機する怪人は、彼の言葉に首を傾げた。


「いつもみたいに金か宝石なら、面倒じゃねえのに。よりによってなもん持ってきやがって。何考えてんだお前」


 悪態をつくクリスティーだが、聞いている怪人はどこ吹く風と流している。


 この朝に起きた一連の事態。

 すべては目の前にいる怪人のせいなのに、本人はまるで楽しんでいるようで。


 執事ごっこでもしたかったのかよと、クリスティーは一人うなだれていく。


「……ああ? んだよ、さっきから。まさかヒース家の令嬢が趣味じゃねえつったの、気にしてんのか」


 怪人の顔は、クリスティーと扉を行ったり来たり。

 加わった身振り手振りを合わせ、ようやく意図を読み取った彼は、意外な質問に眉をひそめる。


「あんな暴力女、俺はごめんだ。アンナ? いやまあ、嫌いじゃねえ」


 ヴィクトリアとは、いつまで経っても同じ方向は向けないだろう。

 そんな予感がする彼女に対して、クリスティーの態度は一貫したもので、話題の少女もそれだけは同意するだろう。


 だがもう一人の少女、アンナへ話が映った途端、彼の表情は和らいだ。


 上流階級への対抗も、気に食わない相手への敵対も、噛み合わない言動への反発も。

 激しいばかりの色彩で塗られた心が、時期である秋のように豊かな色味を実らせる。


「顔は好きだよ、顔は。……顔しか、まだ知らねえ」


 ヴィクトリアのときには、本人にすら聞こえそうなほど上げられていた心の声。

 しかしアンナを意識したクリスティーの調べは、彼が思っている以上に床をなぞるような低さで、ひっそりと奏でられていた。

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