47.The Magic piper(12)
町の至るところから空を目指す、小さな煙たち。
彼らの行く先はより暗く、そして流れのはやい雲の魚群。
ヴィクトリアの髪色を思わせる灰の空は、彼女の心境とすら同期していく。
心を支配するのは、そりの合わない赤髪の男性。
その髪色のように激しい怒りが、彼女の内側に満ちていて、駆ける足は加速以外を忘れていた。
「ふざけてるわ、あの人」
深い青から濾過された無色の雫をこぼす少女は、瞳に周囲の気配を映さない。
首都ほどではないが、石とレンガの栄えた町並み。
早朝だからか道端を行く人は少なく、音の数でいえば鳥の方が多いほど。
だがヴィクトリアとすれ違った人々は、確実に彼女へ視線を向ける。
庶民然とした町の空気とは外れた、着飾ったドレス姿の少女。
そんな彼女が涙を流しながら走り続け、行く先は想像すらつかない。
一見して、どこかの令嬢が恋人と喧嘩別れをしたのか。
そう捉えられる光景だが、日常的とはけっしていえない。
「父が罪を犯したとか、だから私たちが拉致されたとか。言っていることが滅茶苦茶」
どれだけ進んでも薄れることのない憤り。
人さらいがいると叫ばないのは、膨らんだ感情が喉で詰まっているから。
霞んだ視界は、後ろを振り向く口実を見つけたくないから。
このたぎる思いをぶつけるに相応しいのは、当然警察だ。
「待ってなさい。今、化けの皮を剥いでやるわ」
置き去りにしてしまったアンナのことは、頭にも上らず。
父を侮辱したクリスティーに一泡吹かせようと、少女は警察を探して町をさまよう。
しかし見かけるのは、頼りにならない市井の民ばかり。
それどころか、気を抜くと襲われるのではないかと、疑心暗鬼が生じるヴィクトリアは、目元に溜まる涙の量が増えていく。
どこに行けばいい、誰に会えばいい。
知らない場所、知らない人。空すら気持ちばかりを真似して、行くべき道を示さない。
そんなヴィクトリアがふと足を止めると、そこは人の気配が感じられない路地裏だった。
「……どこなの、ここ。なんで私、こんな場所に。嘘、さっきまで街道を沿っていたのに」
いくら感情的になろうとも、いくら目先が霞んで見づらくとも。
視界を袖で拭わなければ、どこを歩いているのか分からない。
そんなことにはならないはずなのに、ヴィクトリアは今、意識していた場所とは別にいた。
無意識か、それとも白昼夢か。
非現実的な現状に進み続けた足も止まり、不気味な無音の空間で彼女は空を見上げる。
「助けて。ママ、パパ」
モノトーンが満ちた世界で、暗い青を宿した少女が言葉をこぼす。
小さく、弱く。
跳んだ先から地面へ落ちた、ヴィクトリアの本音。
心の底が見えたとき、気丈に振る舞っていたその姿も揺らぎ、力を失った体は下に向けて崩れていく。
──そのはずだった。
「おい、今回の仕事。本当に大丈夫なのか?」
「つべこべ言わず働け。大金積まれたんだ、やる以外考えられるか」
路地裏に響く二人の男性の声。
その声は朝には似合わない厳しいもので、慎重さの中に刃物のようなきらめきすら感じとれる。
彼らに見られたら、何をされるのか。
背筋を走る寒気が危機を報せるも、内心の切り替えがうまく行えないヴィクトリアは、心身が向かう方角がバラバラになってしまう。
このままでは本当に会ってしまう。
そんなとき口笛に似た軽快な音が、少女の耳を通り抜ける。
彼女の体は宙に浮き、彼らの視界には収まらない、狭い小道へと吸いこまれた。
「なっ、なに! 離しなさい、貴方いったいどういうつもりで──」
自身を軽々と抱えて運んだことから、相手はきっと男性だろう。
そう踏んで抵抗を選んだヴィクトリアだったが、彼女の瞳に映ったのは性別を超えた奇怪さを持つ、人に似た何かだった。
虹の欠片を散りばめた道化の衣装、極端な笑いを描いた仮面。
背丈は二メートルを超え、少女を抱えて地に足をつける四肢は、常人からはかけ離れた長さをしている。
唯一の人らしい部分として赤髪があるも、印象はある言葉以外当てはまらない。
「怪物」
意識すると次々と姿を現す、奇怪な点。
衣服に隠された生身は、どういう訳か熱を感じず、固体に近い硬さを感じる。
仮面も視界と呼吸のための穴がなく、髪の下には耳すらない。
隠すように抱きかかえられ、密着しているというのに、ヴィクトリア以外の鼓動は伝わらず。
人の形をしているだけの、生き物ですらない何か。
怪物の異常性を一つ一つ実感するたびに、ヴィクトリアの記憶からはアンナの言葉が呼び起こされていく。
「貴方、アンナちゃんが言っていた拉致の実行犯ね」
跳ねた動悸は収まらず、動かしているのは恐怖か、それとも別のものか。
頭の一部が澄んだ感覚を覚えるヴィクトリアは、下手な抵抗はせずに、怪物へ言葉を伝えていく。
しかし返って来たのは、少女の口元に人差し指を当てる沈黙の合図。
その意図は程なくして理解できた。
「しかし驚きだよな。男爵の甥が、王子相手に大立ち回りとか。保守派らしいけど、派手なことやる奴いるんだな」
「王子もその場にいた関係者も、全員行方知れず。無関係と示すために男爵自身が捜査に買って出てるが、やらかしたとはいえ、親族を逮捕しろとか言わなきゃいけないとか。嫌な立場だ」
「どうだか。貴族の連中なら、血縁者でもあっさり切り捨てそうだけど。積んだ大金だって、そいつを無事に捕まえろとかって訳じゃないんだろ?」
「……まあな。とにかく俺たちのやることは、王子暗殺の未遂犯を見つけることだ」
人がいないがゆえの油断か、仕事の合間のぼやきか。
隠れたヴィクトリアたちにすら聞こえる音量で話す彼らは、やる気の感じられない足音とともに遠ざかっていく。
抱きしめられた少女が離されたのは、気配すらも聞き取れなくなった後。
一度は自分の足で地に立つも、すぐに力を失ったヴィクトリアを、怪物はそっと抱き止める。
「男爵の甥って従兄殿のことよね。それが王子暗殺? あの人が、あの王子を? 馬鹿言わないでよ。そんなことする訳ないじゃない」
目の前にいる怪物のことなんて、もう気にしていられない。
一夜にして二転三転を繰り返す少女の行き先。
太陽を見失った今の空のように、灰の濃さを増していく彼女の心は、奇怪な存在にすがりたくなるほど暗くなっていた。




