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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
45/84

45.The Magic piper(10)

 屋根裏部屋では薄暗くて判別できなかったが、目の前に立つ若い男性の姿に、アンナは既視感を覚えた。


 ぼんやりとだが記憶に残る、窓から侵入してきた奇怪な人影。

 虹の欠片を散らした奇天烈な格好だったが、背丈と赤髪は眼前の彼と印象が重なり、仮面をかぶれば似ているのではと逡巡する。


 だが長い手足は説明がつかず、いくら鍛えているといっても、若い男性からは女性二人を抱えて移動するような圧はない。


 ──探せばどこにでもいる。

 そんな印象にアンナは落ち着くも、隣のヴィクトリアは、もう一度攻勢に出ようと警戒を研ぎ澄ませていた。


「ったく、なんか俺が悪者みたいになってんな。分かった、落ち着け。朝から女と殴り合いとかやってられるか。とりあえず、メシでも食いながら話そう」

「いらないわ。どうせ眠る薬とか入れるのでしょう? それよりも家から出して欲しいのだけれど」

「そして俺を誘拐犯だって言いふらすってか。ふざけんなよ、不法侵入者が。俺は言い分を聞いてやるって言ってんだ。それとも椅子に座るより、縛られて床を舐める方が好きなのか、お前」

「既に舐めた方が面白いことおっしゃるのね」


 売り言葉に買い言葉。

 ヴィクトリアと若い男性は、言葉を交わすたびに舌の刃が研がれていく。


 手は出していないが、声はとうの昔に殴り合いの最中。

 身を引けば負けとお互いに思い、それを察しているからこそ、二人は前に進み続ける。


 致命の一撃を与えられる隙を探し、言葉での切り合いでその時を待つ彼ら。

 そんな目に見えない攻防の熱を、アンナはなんの情動もなく見届ける。


「……お腹すいてきた」

「ああ。だからメシ食いながら話そうっつってんだ。そっちの小さい方のが話し分かんな」


 二人の言い争いになってから、緊張感が薄れてしまった。

 そのせいかアンナは空腹を覚えるもと同時に、ヴィクトリアについていくことばかり向けられていた意識を、周囲に散らしていく。


 壁際にある窓から差しこむのは、夜の黒さとは逆の朝の白。

 工房らしき場所も、アンナにとって見慣れない物があるだけで、特別怪しさを感じる道具はない。


 若い男性も同様で。

 好戦的なヴィクトリアにつられて、赤い色をにじませているけれど、全体的には白黒はっきりしない物腰だ。


「食いたくなきゃ、食わなきゃいい。まあ、お前らみたいな身なりの奴が、満足できる物もないけどな」

「別に気にしない」

「ちょっと、アンナちゃん。その人のこと信用するつもり?」


 アンナが席に着くことを同意したからか、若い男性はヴィクトリアから目をそらし、ダイニングルームはこっちだと背中を向ける。

 その後をついて行こうとしたアンナだったが、未だに妥協点を見出せないヴィクトリアに呼び止められた。


 目が覚めたら知らない場所、そこにいた見知らぬ男性。

 何一つ信じられることがないと訴えるも、アンナが出した答えはひどくシンプルなものだった。


「してないよ。ただ、アイザックならこうするかなって」


 ザックならきっと、ヴィクトリアに近い反応をしていただろう。

 様子を見て、けっして相手にリードを取らせない。


 けれどもアイザックなら。

 限られた選択肢しかない状況で、下手な迷いは嫌うはず。


 何よりにただ言い争うより、同じ席で向かい合った方が手早く済む。

 そう判断したアンナは、振り返りながらヴィクトリアに言い放つ。


「あの殿下なら……。そうね、そういう考え方なら乗ってあげる」

「ご飯、いらないんじゃないの?」

「勿論、それはいらないわ。でも交渉の席にもつかないのは、レイラ殿下なら絶対にありえない」


 貴女があの王子に従うように、私にも敬愛する王女殿下がいる。

 そう告げるヴィクトリアと関心の薄いアンナは、そのまま若い男性の後を追っていく。


 案内されたのは宣言通りのダイニングルーム。

 二人の少女は先に席へ着くよう促され、若い男性が一人奥へ進むと、程なくして香ばしい匂いが彼女たちの部屋へ流れつく。


 香りからでも分かる、パンを焼く匂い。

 後に続く何かを焼く音に、皿に盛りつけられる軽快な音。


 話を聞くことを優先したのか、それとも待たせている女性への気遣いか。

 手早く朝食を準備をしてきた彼は、二人の少女が待つテーブルへ並べていく。


「なぜ私の分もあるの」

「一人だけ無いのは、俺が落ち着かねえんだよ。後で俺が食う分だから、ほっとけ」


 各自に一杯の紅茶。トーストにベーコンエッグとベイクドビーンズ。

 これらを一皿をまとめた物が出されるも、ヴィクトリアは頑なにいらないと主張し続ける。

 対してアンナは食事の挨拶を早々に済ませ、黙々と手をつけていく。


 一緒にいたわりには噛み合わない連中だ。

 そう思いながら自分も朝食を摂り始める若い男性は、口を動かす合間に言葉を挟んでいく。


「とりあえず名前聞こうか。俺はクリスティーだ。長いからクリスでいい」

「アンナ」

「私は答えませんわよ。名乗るに値しません」

「あっそう。まあ、お前には何も期待しねえよ、暴力女」


 進展があることを望むアンナのお陰で、同席しての話し合いまでは足を運べた。

 しかし険悪な結びつきはそのままであり、簡単にはほどけない。


 だが若い男性──クリスティーの言動に、障りを覚えるヴィクトリアは、ついつい腹で煮えた言葉を蒸気で浮かべてしまう。


「訂正しなさい、クリスティー。私はヴィクトリア・ヒース。ミッドデイボーン男爵の娘です。そのような暴言は見過ごせません」

「そうかよ、やっぱり貴族の令嬢様か。ったく、そんな奴がなにやって……」


 全体的に茶色くなったトーストを食べるアンナの横で、ヴィクトリアとクリスティーは言葉をつづった後にそろって黙ってしまう。


 ヴィクトリアは男性の口車に乗せられて、うっかり名乗ってしまったことを恥じて。

 そしてクリスティーは、彼女の名前に思い当たるものがあるのか、食事の手すら止まってしまう。


 ベイクドビーンズをトーストに乗せ、頬張るアンナ。

 そんな彼女が見たのは、これまでにない真剣さでヴィクトリアを捉える、赤みの強いオレンジ色の彼の瞳だった。


「待て、ヒース家? 小麦生産の事業で、王国の土壌改良と肥料の輸出入に、メスをいれたってところのか」

「そ、そうだけれど。詳しいわね。確かに父は先日、貴方の言う事業を成功させたばかりよ」

「──最悪だ。お前らが屋根裏にいたの、そういうことかよ」


 ヴィクトリアの家名を聞いた途端、落ちこむ様子に一変したクリスティーへ、彼女は戸惑いを隠せなかった。


 工房からして、クリスティーは細工師かなにかの職人業。

 ヴィクトリアの父が営んでいる農業関連の事業とは、そこまでのつながりは見つけられない。


 しかも前夜にパーティーを開いていたのだから、一般人の彼がすぐに知れるような失敗が報じられたとも思えない。


 なら、どうしてクリスティーは頭を抱えているのか。

 その答えは静かに、そして呆気なく告げられた。


「いいか、よく聞け。お前の父親、男爵は罪を犯した。だから連れて来られたんだよ、ここまでな」


 一方的で、根拠がない。

 けれども(くつがえ)す余地がないとクリスティーは断言する。


 そんな彼を収めたヴィクトリアの深い青の瞳は、黒を混ぜて無機質さを強調していった。

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