44.The Magic piper(9)
若い男性から音が消えた。
脱力しながらその場に崩れ落ち、うずくまる姿は胎児のよう。
相当な痛みが彼を襲っている。
そんな若い男性を前にして、両腕を組むヴィクトリアは、誇らしげに胸を張って彼を見下ろしていた。
「母から教わった護身術よ。お味は聞くまでもないようね」
「かなり痛そうだね」
「同情する必要はないわ。それよりも、今のうちに早く降りましょう」
もだえている若い男性に対して、二人の少女の反応はそれぞれ。
ヴィクトリアはいうまでもなく、瞳の温度は冷ややかで、追撃はしないが引け目もない。
だがアンナに関しては想像が足りないのか、キョトンとした顔で横を通りすぎていく。
動けなくなった若い男性はそのままに、彼が上がって来た入り口まで二人が近づくと、下には照明の効いた空間が広がっていた。
人の行き来がしやすいよう幅を考えられた廊下に、取り外しのできる梯子。
そこを何の躊躇もなく、ヴィクトリアは急ぎ気味に降りていく。
「さあ、エスコートして差し上げます、子猫ちゃん」
「別にいらない」
梯子の昇降には向かないドレス姿。
しかし乱れることのない足運びで、廊下へ立った灰の少女は、もう一人の少女に向けて右手を差しだした。
降りることに迷いがあったアンナだが、彼女の手を見るや否や、身軽な体さばきで一つ二つと足場を踏み、猫のように廊下へ着地する。
イメージしたのは、やんちゃをしそうな友だちのミアか、それとも屋敷に住む幽霊の黒猫プリムラか。
どちらにせよ、手を借りることなく降りたアンナに、ヴィクトリアはくすりと笑う。
「意外に動けるのね。でも、ここからは駄目よ。離れたら終わりなんだから」
「引っ張らなくても走れる」
「……その様子でよく言えるわね」
苦手な相手の世話にはならない。
そう告げるアンナの行動だったが、意にも介さずヴィクトリアは彼女の手を取り、廊下を走り始めた。
つられてアンナは足を動かしていくも、その走るさまは不器用そのもの。
見た目の綺麗さに反して、遅くたどたどしい様子に、ヴィクトリアは冷や汗をかいていく。
明らかな足手まとい。
もはや抱えた方が早いという他ない姿は、自分たちを連れ去った人物から、逃げられる未来が想像できなかった。
「でも離さないわよ。男爵の娘として、貴女ぐらい守ってみせる」
すぐに息が上がり、手をつないでいるのにふらついて、調子を合わせると徒歩の方が早く思える。
だというのに、簡単に折れそうな小さく細い手をヴィクトリアは握ったまま。
目指すは建物の出口。
誘拐犯という印象から、空き家かなにかと思っていたが、屋内の様子は非常に整っている。
なら、ここは住居だと考えた少女は、ひとまず下へ足を進めていく。
廊下から階段へ。一つ二つと階層を下るとそれ以上は続かず、代わりに横へと大きく広がった場所へ着いた。
三階建ての一番下だと気づくや否や、ヴィクトリアは玄関を探していく。
「あと少しよ。頑張りなさい、アンナちゃん」
「まっ、まって。もうちょっとゆっくり……」
「駄目。外に出るのが先決!」
まずは穏便に玄関から。施錠されていて、鍵を開けられなかったら窓を破る。
とにかく屋外へ出る方法を、脳内で描くヴィクトリアだが、アンナを連れての行動は選択肢が狭まっていくばかり。
さっきの若い男性に追いつかれたら、二度目は考えられない。
もし仲間も呼ばれていたら、それこそ一巻の終わり。
知らない建物の中で、迷子になっている余裕はない。
そんな覚悟の下、疲労を見せるアンナを無理にでも引っ張るヴィクトリアは、当てずっぽうに走り続けた。
「なに、この部屋は。かなり暑いわね」
ついていくことに夢中なアンナは、無言のまま。
そんな黒い少女を連れて、ヴィクトリアがたどり着いたのは、他の部屋へ漏れた空気に触れただけでも汗ばむ大部屋。
室温が高く、至るところにあるのは蒸気機械と鋼鉄の道具たち。
工房──そんな言葉を思い浮かべたヴィクトリアは、ある物に目を奪われてしまう。
室内に置かれたガラス細工の器。
形状としては普段使いできるグラスだが、刻まれた模様はステンドグラスのようにきめ細かい。
薔薇の赤みを基本とした、夕闇色のウイスキーグラス。
一目で心を囚われてしまったヴィクトリアに、息を整え始めたアンナが声をかけていく。
「ヴィクトリア、ここ、出口じゃない」
「えっ……。ええ、そうね。あれも盗品なのかしら」
頭では分かっている。しかし見事なできに後ろ髪を引かれる様子は、アンナの容姿を間近で見たときと同じ。
手に取って細部まで眺めたい。
そう目で告げているヴィクトリアに、室温とは真逆の淡々とした視線をアンナは向けていく。
「──盗んでねえよ。それは俺が作ったやつだ」
そうこうしている内に、少女たちの背後から聞こえたのは、ヴィクトリアによって倒された若い男性の声。
追いつかれてしまった。
その事実が二人の心は早鐘を打ち、おそるおそるとだが、彼女たちは動きをそろえて声の方向に振り向く。
「話は聞かねえし、すぐに暴力振るうし。それどころか誘拐犯に盗人だ? 不法侵入した奴の台詞じゃねえな」
まず目についたのは荒々しさを感じさせる、赤い髪。
百八十はある高い背丈に、質素な服装の上からでも分かる無駄の少ない筋肉。
二人の少女とは反対の、険しい目つきの体格のいい男性が、逃がさないとばかりにたたずんでいた。




