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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
44/84

44.The Magic piper(9)

 若い男性から音が消えた。

 脱力しながらその場に崩れ落ち、うずくまる姿は胎児のよう。


 相当な痛みが彼を襲っている。

 そんな若い男性を前にして、両腕を組むヴィクトリアは、誇らしげに胸を張って彼を見下ろしていた。


「母から教わった護身術よ。お味は聞くまでもないようね」

「かなり痛そうだね」

「同情する必要はないわ。それよりも、今のうちに早く降りましょう」


 もだえている若い男性に対して、二人の少女の反応はそれぞれ。


 ヴィクトリアはいうまでもなく、瞳の温度は冷ややかで、追撃はしないが引け目もない。

 だがアンナに関しては想像が足りないのか、キョトンとした顔で横を通りすぎていく。


 動けなくなった若い男性はそのままに、彼が上がって来た入り口まで二人が近づくと、下には照明の効いた空間が広がっていた。


 人の行き来がしやすいよう幅を考えられた廊下に、取り外しのできる梯子(はしご)

 そこを何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、ヴィクトリアは急ぎ気味に降りていく。


「さあ、エスコートして差し上げます、子猫ちゃん」

「別にいらない」


 梯子(はしご)の昇降には向かないドレス姿。

 しかし乱れることのない足運びで、廊下へ立った灰の少女は、もう一人の少女に向けて右手を差しだした。


 降りることに迷いがあったアンナだが、彼女の手を見るや否や、身軽な体さばきで一つ二つと足場を踏み、猫のように廊下へ着地する。


 イメージしたのは、やんちゃをしそうな友だちのミアか、それとも屋敷に住む幽霊の黒猫プリムラか。

 どちらにせよ、手を借りることなく降りたアンナに、ヴィクトリアはくすりと笑う。


「意外に動けるのね。でも、ここからは駄目よ。離れたら終わりなんだから」

「引っ張らなくても走れる」

「……その様子でよく言えるわね」


 苦手な相手の世話にはならない。

 そう告げるアンナの行動だったが、意にも介さずヴィクトリアは彼女の手を取り、廊下を走り始めた。


 つられてアンナは足を動かしていくも、その走るさまは不器用そのもの。

 見た目の綺麗さに反して、遅くたどたどしい様子に、ヴィクトリアは冷や汗をかいていく。


 明らかな足手まとい。

 もはや抱えた方が早いという他ない姿は、自分たちを連れ去った人物から、逃げられる未来が想像できなかった。


「でも離さないわよ。男爵の娘として、貴女ぐらい守ってみせる」


 すぐに息が上がり、手をつないでいるのにふらついて、調子を合わせると徒歩の方が早く思える。

 だというのに、簡単に折れそうな小さく細い手をヴィクトリアは握ったまま。


 目指すは建物の出口。

 誘拐犯という印象から、空き家かなにかと思っていたが、屋内の様子は非常に整っている。

 なら、ここは住居だと考えた少女は、ひとまず下へ足を進めていく。


 廊下から階段へ。一つ二つと階層を下るとそれ以上は続かず、代わりに横へと大きく広がった場所へ着いた。

 三階建ての一番下だと気づくや否や、ヴィクトリアは玄関を探していく。


「あと少しよ。頑張りなさい、アンナちゃん」

「まっ、まって。もうちょっとゆっくり……」

「駄目。外に出るのが先決!」


 まずは穏便に玄関から。施錠されていて、鍵を開けられなかったら窓を破る。

 とにかく屋外へ出る方法を、脳内で描くヴィクトリアだが、アンナを連れての行動は選択肢が狭まっていくばかり。


 さっきの若い男性に追いつかれたら、二度目は考えられない。

 もし仲間も呼ばれていたら、それこそ一巻の終わり。


 知らない建物の中で、迷子になっている余裕はない。

 そんな覚悟の下、疲労を見せるアンナを無理にでも引っ張るヴィクトリアは、当てずっぽうに走り続けた。


「なに、この部屋は。かなり暑いわね」


 ついていくことに夢中なアンナは、無言のまま。

 そんな黒い少女を連れて、ヴィクトリアがたどり着いたのは、他の部屋へ漏れた空気に触れただけでも汗ばむ大部屋。


 室温が高く、至るところにあるのは蒸気機械と鋼鉄の道具たち。

 工房──そんな言葉を思い浮かべたヴィクトリアは、ある物に目を奪われてしまう。


 室内に置かれたガラス細工の器。

 形状としては普段使いできるグラスだが、刻まれた模様はステンドグラスのようにきめ細かい。


 薔薇(バラ)の赤みを基本とした、夕闇色(ゆうやみいろ)のウイスキーグラス。

 一目で心を囚われてしまったヴィクトリアに、息を整え始めたアンナが声をかけていく。


「ヴィクトリア、ここ、出口じゃない」

「えっ……。ええ、そうね。あれも盗品なのかしら」


 頭では分かっている。しかし見事なできに後ろ髪を引かれる様子は、アンナの容姿を間近で見たときと同じ。


 手に取って細部まで眺めたい。

 そう目で告げているヴィクトリアに、室温とは真逆の淡々とした視線をアンナは向けていく。


「──盗んでねえよ。それは俺が作ったやつだ」


 そうこうしている内に、少女たちの背後から聞こえたのは、ヴィクトリアによって倒された若い男性の声。


 追いつかれてしまった。

 その事実が二人の心は早鐘を打ち、おそるおそるとだが、彼女たちは動きをそろえて声の方向に振り向く。


「話は聞かねえし、すぐに暴力振るうし。それどころか誘拐犯に盗人だ? 不法侵入した奴の台詞じゃねえな」


 まず目についたのは荒々しさを感じさせる、赤い髪。

 百八十はある高い背丈に、質素な服装の上からでも分かる無駄の少ない筋肉。


 二人の少女とは反対の、険しい目つきの体格のいい男性が、逃がさないとばかりにたたずんでいた。

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