43.The Magic piper(8)
なにも見えない霧の世界で、風を切る音が耳をかすめる。
体は温もりに包まれていて、鼓動の代わりに聞こえるのは、嬉しそうにしている笛の歌声。
奇天烈で、でも子どもが好む愉快さもあって。
就寝間近の幼い子を、ゆりかごまで案内しているようにも思える。
そんなおかしな笛の演奏が途絶えたところで、アンナはゆっくりとまぶたを開いた。
「ここ、どこ」
しかし少女の瞳に映るのは、霧の世界を見ていたときと同じ、黒一色。
意識はある。トクンと鳴る胸の内も、肌から伝わる感触も、アンナが目を覚ましていることを証明してくれる。
だというのに、自分の手すら見えるか危うい暗さに、彼女は戸惑うばかり。
「想像はできていたけれど、そこにいるの、やっぱりアンナちゃんね」
「……レイラの恋人だった人の従妹」
「ヴィクトリア! もう、やっぱり覚えてなかったのね」
そんな暗闇の中でアンナの耳に飛びこんできたのは、知ったばかりの少女の声。
姿は分からないが、すぐそばにヴィクトリアがいるらしく。
一面の黒を照らせそうな溌溂とした空気が、アンナにぶつかる。
それどころか、手探りながら少女の体に触れる動きがあり、ある程度の自由が許されていることを確認した。
「ねえ、アンナちゃん。ここ、どこか分かるかしら。貴女と談話室に向かっていたはずなのに、気がついたらコレよ」
「たぶん、あの大きい奴のせい。……覚えてない?」
「大きい? 何のことを言ってるの。あの会場に、そこまで長身な方はいなかったはずよ」
二人の少女はお互いの認識のズレに、見えない顔を合わせていく。
ヴィクトリアが覚えているのは、談話室に向かう道中まで。
アンナが覚えているのが、談話室の中で長身の人間を見たところまで。
灰の少女が実は途中から意識を失っていたのか、それとも黒の少女が夢を見ていたのか。
すぐには出ない結論を前に、ヴィクトリアは話を中断した。
「よく分からないことが分かったわ。とにかく今は、ここがどこなのか。それを確かめるの!」
「確かめるって、どうやって……なに。なんで触ってくるの」
「貴女も、どこも縛られてないわね。怪我もなさそう」
「何もないよ。服もそのままみたいだし」
「みたいね。ここへ連れてきた連中、何がしたいのかしら」
衣服は着ていたドレスのままで、談話室から直接連れて来られたことが分かる。
目立った怪我はなく、痛む部位もなし。
どこかへ閉じこめられたにしては、手足を縛って動きを制限する、布や縄もない。
ただ二人の少女を、暗い部屋に閉じこめただけ。
貴族の子息令嬢を狙い、身代金目的の拉致にしては杜撰すぎる。
同じ上流階級の人間が行う、若い女性を自分の物にするためだとしても、やはり拘束されていないのが腑に落ちない。
「盗品は別にあって、目撃されたと勘違いして思わず連れ去った。とかかしら」
「一人だったし、私たちを探してたみたいだけど」
「現実的じゃないわね。アンナちゃんが軽いとしても、女性二人を抱えて逃走? 力のある男性が、三人ほどいたに違いないわ」
腕っぷしの強い男性二人が少女たちを抱え、残る一人が誘導役。
そうして、外の見知らぬ場所に連れだすのが自然だと、両手で足元を探りながらヴィクトリアは思考を口にしていく。
彼女の手に伝わるのは、冷たく硬い石の感触。
よくある石造りの建造物。そう推測するヴィクトリアは、そのまま扉がないか動こうとしたところで、背中側へ振り返った。
「……もしかして貴女が目的じゃないかしら、アンナちゃん。謎多きアイザック殿下のお気に入り。狙う理由なんて、いくらでも──」
「わっぷ。ごめん、そこにいたんだ、ヴィクトリア」
これなら辻褄が合うのでは。
そう思いつきをアンナに伝えようとするも、ヴィクトリアと同じように動き回っていた当の本人が、無防備な脇腹に頭突きをいれる。
ウっと声にならない声を漏らし、灰の少女は少しの間もだえていく。
この状況なら仕方がない。そう痛みを飲みこむヴィクトリアは、一つの不満すらなく立ち直った。
「気をつけなさい。それとトリアでいいわ。私、気にいった相手には、そう呼ぶことを許可しているの」
「分かった、ヴィクトリア」
「私があの殿下を嫌ってるの、そんなに不満なの?」
「別に」
愛称で呼ばないことに特別理由はない。
アンナはそう告げるも、近くにいるヴィクトリアからは、納得のいかない青い空気が生まれていく。
二人の少女の意思が、中々同じ方向へそろわない。
そんなことに心で渦を描くヴィクトリアだったが、物音一つした途端に、目つきと同じく意識が線となる。
床に何かがぶつかり、固定されるような音。
続けて下から昇ってくる音を聞いた二人は、示し合わせた訳でもなく、自然と声を潜めた。
「──誰か、いるのか」
床が開けられ、まぶしい光とともに入ってきたのは、若い男性の声。
そのまま少女たちと同じ場所へ立ち、手に持っていたランプを床に置いた。
心許ないが、ランプの明かりは暗闇を食べていく。
足元は想像通りに石造り。高身長の人物だと、中腰にならざるおえない低い天井。
ここは天井裏。そう確信した少女たちが次に見るのは、上がって来た男性だ。
火の明かりを背にしているから、輪郭しか分からない。
だが、天井に程近い背丈から少年とはいえず、声からすると若くて二十歳目前。
そんな彼が照らし切れていない闇の中で、二人の少女を目にした瞬間、ヴィクトリアは弾かれるように動きだした。
「おい、お前。こんなところで何を……」
「くたばりなさい、誘拐犯!」
駆けだした彼女のドレスのスカート部分は、足元を動かしやすい作り。
それゆえにしゃがんだ状態から、大きな歩幅で男性に近づいていく。
相手の声なんて聞きはしない。
先手必勝とばかりに男性の懐にまで潜りこんだヴィクトリアは、令嬢としてははしたなく、彼の足元から上に向かって右足を大振りした。




