40.The Magic piper(5)
交錯する夜のような紫と大海の紺碧。
一人の男性を通じて衝突する二つの主張。
片や、アイザックを信じるがゆえの、あからさまな敵意への反発。
片や、アイザックを快く思わないがゆえの素直な不信。
気がつくと、憶測や妄想でつづる男女の輪は、つながった線を崩していた。
遠巻きに見ている分には楽しいが、少女たちの豊かな感情は、自分たちの方にまで波を立てることは想像に難くない。
だから巻きこまれる前に場を離れる。
そう判断した彼らの足音は、猫のように音が盗まれていた。
「……ふぅ。止めましょう、アンナちゃん。こんなのは本意じゃないわ。そこの方、飲み物を二人分いただけるかしら」
賑わう大部屋の中で、波形が収まりかけた無色の円。
そこに再び波を起こしたのは、この状況は不本意だとため息をついたヴィクトリアだった。
アイザックは嫌いだ。
かといって、彼の側にいたアンナも同じかと聞かれると、灰の少女は違うと首を振る。
「私はそのジンジャーエールを。……ありがとう。貴女はどうしますか?」
「どれがどれなのか、分からない」
二人を囲んでいた男女と同様、足が遠のいていたウェイターを、ヴィクトリアは声一つで呼び止める。
雑談の多い場所で、見事飲み物を運んでいた男性を捕まえると、それまで張り詰めていた糸を切り、ウェイターとのやり取りをしていく。
彼女が受け取ったのは、運ばれる飲み物の中で、目についた淡い色合いの炭酸飲料。
ウェイターにはお礼を言いつつ、トレイから自分でグラスを手にする。
流れでアンナの分も受け取ろうとするも、相手の言葉を聞いて、選ぶ手が止まった。
ヴィクトリアが背にした黒い少女を一瞥すると、そこにあったのは警戒心の傍らに覗かせる困り顔。
路頭で迷子になった子猫を思わせる表情に、灰の少女は聞き返すことなく、トレイに残るものから選び取った。
「なら、甘いので良いかしら。リンゴジュースを」
「──私も一つ貰おうか。ああ、このレモネードで構わない」
多くは運べないトレイ。
その中からヴィクトリアが選んだのは、甘く飲みやすい少女然とした飲み物。
第一印象がまずく、警戒されているのを背中で感じる彼女は、少しでも緊張を和らげたい気持ちをこめ、アンナに手渡しをしようとする。
だが振り返る直前にもう一人、黒い少女のものではない手が、ヴィクトリアの視界に入りこんできた。
驚きつつ後ろを向くと、そこにいたのは絵に描いたような貴族の優男。
アンナは当然、ヴィクトリアと比べても長身の彼の背丈は、おおよそアイザックと並ぶ。
茶髪と暗い青の瞳、低めの声音と木の葉ほどの自信が感じられる柔らかな表情。
どれもが攻撃的ではなく、かといってアンナの知るザックと違って、怪しい気配も混ざっていない。
これこそ優しい男性の理想。
手放しでそう言える彼を、アンナはジッと見つめた後に、思い当たった節をぶつけた。
「思いだした。レイラの恋人だった人」
「まるでアイザック殿下だね。今の私には、なかなか耐え難い事実だよ、それは。以前は挨拶ができなかったから、改めて初めましてかな」
グラスを片手にしたまま一礼する、タキシードの男性。
レイラの恋人だったという部分を聞いて、目を細めるヴィクトリアを置いて、彼は言葉を続けていく。
「ランスト・ヒース。できれば、ランストと呼んで欲しい。君のことは殿下たちから聞いてるよ、アンナ嬢」
「……よろしく、レイラをフった人」
「悪いけれど、まだその件は気持ちの整理がついていないんだ。あまり触れないで貰いたいな」
「それは無理なご相談ですね、従兄殿。王女殿下のもとで働いているとは存じていましたが、お付き合いしていたとは初耳です。しかもフラれたではなく、フった?」
無害そうな男性──ランストは、言葉も距離感も無難な挨拶を述べていった。
しかし放った名前がアンナには届かなかったのか、少女の口にから告げられるのは、恋人関係だったレイラのことばかり。
よほど破局した場面を目にしたのが、印象的だったのだろう。
無理もないと認めた上で、話題にされるのをランストは拒否していく。
だが、そんなささいな願いは却下されてしまう。
二つのグラスを手にしたまま、彼の背後で挨拶の交わし合いが終わるのを待っていたヴィクトリアは、声一つでランストの足を押さえる。
にこやかな笑みは花壇に咲く花のよう。
しかし瞳に宿る光は鋭く研がれ、視線の刃がランストの首筋にあてられる。
「私の知る限り、従兄殿は一歩引いた人物だったはずですが。いつの間に王女殿下との交際を、自ら断る度胸をお持ちになられたのでしょうか」
「止めてくれ、トリア。落ち着いたらきちんと話すから。アンナ嬢もこの子に気づいていて、わざと言っただろう」
手にしたリンゴジュースをアンナに渡しつつ、ヴィクトリアは彼女の隣へ。
ランストの前に二人の少女が並ぶと、彼は内心を語るように後方へわずかに引いた。
思ったことをそのまま口にする、黒い少女。
親しい関係を思わせる言動で、一切の遠慮がない発言をぶつける灰の少女。
そんな二人に困った表情以外を作れないランストを置いて、彼女たちは先程までの緊張を少し緩めて話をしていく。
「別に、そんなことない。……いとこ? 二人が?」
「ええ、そうよ。従兄殿は私の父の弟、その息子なの。昔は結婚を迫られるぐらいには好かれていたのよ、彼に」
「それは君の方だろう。十も下の幼い子を口説く趣味はない」
口数が多いのは、ヴィクトリアとランストの従兄妹同士。
昔からの知り合いというのもあって、言葉の投げ合いは手慣れたもの。
彼らのやり取りに挟まれながら、アンナは渡されたリンゴジュースを喉に通していく。
口内に広がるのは、果汁が持つ甘さとわずかな酸味。
舌の上では甘味が花を咲かせていたものの、口元過ぎて残るのは、寂しさを引きだすかすかなリンゴの味わい。
言葉にしなくとも周囲に告げる、美味しいの感想。
一口は少ないながらも、コクリコクリとアンナはリンゴジュースを飲んでいく。
「覚えがないわね。それよりも王女殿下のことだけれど」
「ここでは話せない。アンナ嬢、君のこともね」
「やっぱり知ってる訳ね。あの王子はいったいどこから、こんな子を拾ってきたの」
「そんな犬猫じゃないんだから。……国家機密だ。大したことは言えない」
口は後味サッパリの、上品なリンゴジュースを楽しんだまま。
外見では似た印象がない従兄妹たちを、目だけで追うアンナは、四方へ散っていく彼らの話題に段々と関心が薄れていった。
ヴィクトリアが聞きたいのは、アンナのことは勿論、ランストとレイラの関係性も捨てられない。
しかしランストからすれば、国の王族二人が関わる重大案件。
もし開示する許可がでていたとしても、うかつな発言は自分の首を絞める結果にもつながってしまう。
だからこそ、別の話題へ逸らそうとするランストだったが、従妹の食いつきは激しいものだった。
「納得いかない。というか、さっきから何も言えてないじゃない!」
「言えないことしか聞いて来ないからだろう。アンナ嬢、この話は君も無関係じゃないぞ」
「わたし? でも、アイザックは挨拶だけしろって言ってた」
「……ここへ来る前。例えば昼間に、殿下は何か仰っていなかったか?」
アイザックではなく、ザックから何かを聞いていないか。
そう含みをこめた言葉を受け取ったアンナは、はじめは首を傾げるも、ザックのことだと気がつき、数時間前を思い返していく。
「美味しいものを食べてくるといいって言われた」
「確かにこの後、晩餐会があるけれど。えっと、うん、だいたい分かった。君はそのままでいい」
「挨拶と晩餐会しか話を聞いていないとか。貴女、何をしに来たの」
「アイザックと行ってこいって言われたから、来ただけだよ」
立ち姿だけは淑女然としているも、中身は無知な少女そのもの。
そして諸々の事情を知っている従兄は、国から口止めをされている。
少なくとも、この場では真実を知れる機会はない。
そう察したヴィクトリアは、一息にジンジャーエールを飲み干すと、大きくうなだれた。
「はあ。もう、いいです。アンナちゃんについてすら、私は知る権利がないのですね」
「さっき小耳に挟んだけれど、アイザック殿下は推測だけなら許されたんだ。それで我慢してくれ」
「とは言ってもですね」
綺麗な少女。
外見からはそれ以上のことを知れず、アイザックのお気に入りだとしても想像の幅が広すぎる。
だからこそ、話題にするなと事実上言い渡されたのと同義で、大半は妄想の域を出ない。
「そういえば、従兄殿。ここで一つ謝罪を」
「一つで済まない気がするけれど」
「いえ、これまでのことではなく、これからのことです。──申し訳ありませんが、私はお助けいたしません」
何を言っている?
レモネードを口にふくみながら、首を傾げるランストだったが、ヴィクトリアの言葉の意味はすぐに分かった。
辺りを見回すと、目を凝らすまでもなく映る男女の強烈な眼差し。
その色は、アンナへ向けられていたものをより濃くした赤で、たぎる血潮にも似た熱意が彼へ注がれる。
「王女殿下との交際のお話。後で私にもしっかりとお聞かせください」
ちょうどアンナがリンゴジュースを飲み終えたところで、ヴィクトリアは彼女の手を取り、ふらりとランストの前から逃げていく。
代わりに彼の視界を埋めたのは、血走った目で迫るパーティーを楽しんでいたはずの男女たち。
いつから交際を、破局を申し出たのは本当か、王女殿下との今のご関係は……
隙を見せた青年を狩る、好奇心に毒された数多の狩猟者。
四方八方から来る彼らを、ランストはさばききれずに押し潰されていく。
そんな彼を置いて、小走りで人混みから離れていく少女たちを、もはや誰も気に留めていなかった。




