37.The Magic piper(2)
南でくつろぐ太陽が、窓を通り抜けて小さな部屋を照らす。
対面する二つの机。
その上には、ペンとノートといった書き物が広げられ、手元を照らすのは蒸気の照明。
壁面にそって並べられるのは、書物を抱えた書架たちに、小さなオルガンと裁縫道具が収まった小棚など。
ここは屋敷の中で子息令嬢が学びを得る、小さな教室。
そんな遊びの少ない空間で、アンナは椅子にちょこんと座り、黙々と本につづられた文字を目で追っていた。
「アンナって、本当に不思議よね」
「ん、なにが?」
「記憶がないのに言葉も読み書きも、人一倍に知ってるところ。今だって、特に教えていないのに本を読めてるじゃない」
「……そうだね。どうしてだろう」
少女の反対側。本来であれば専属の家庭教師が座るべき位置に、ブリジットは腰を下ろしている。
理由は明白であり、怪物としての性質を持ったアンナを、多くの人に知られてはいけないからだった。
ザックからすれば部下、屋敷の中では客人と居候の立場を、揺れる秤にかけている。
しかし王室──ひいては国からすると、王子が秘匿する人ならざる存在と、国家機密に該当するほどだ。
一家庭教師にその誓約は重く、代わりとして、世話役であるブリジットが淑女のたしなみを一通り教えていた。
「思い出したくない過去が多いとか? 都合よく忘れたい、みたいな」
「みんな、そうでしょ」
「そうね。私にもあるわ、そういうの。でもアンナは、殿下が見つけるよりも前のこと、全て忘れてる。怖いくらいにね」
知識はある、しかし思い出はミアとの記憶だけ。
そんなアンバランスさを、屋敷内でもっとも身近にいたブリジットだからこそ、深く感じとっていた。
代表的なのは、アンナの私室。
元々は家主の子どもたちにあてがわれる部屋で、ザックは未婚だったがゆえに使われていなかった。
その一室に住み始めて、もう一ヶ月。
住人の色に染まるには充分な時間なのだが、少女の私室は未だに与えられた当時のまま。
物自体は増えてきているが、どれも周りから譲り受けた物ばかり。
記憶は好みすら遠ざけているのか、アンナらしい色が塗られる様子はない。
「思い出したいとか、考えたことある?」
「別に。ミアが知りたかったこと、知れればいいから」
「またミアちゃん。殿下からも少し聞いたけれど、よっぽど仲が良かったのね。親友とか羨ましい」
「ブリジットはいないんだ」
友人がいないみたいな言い回しね。
そうつぶやくブルジットの表情に、一滴分の険しさが塗られていく。
しかし、それも少しの時間だけ。
筆が進むにつれて現れたのは、淡い青だった。
「友人知人は多い方よ。でも、その中で特別仲のいい人がいないだけ。だから私も知りたいの。友人でも家族でもなく、親友っていう特別な人のこと」
私にないものを持っている、貴方を知りたい。
数ある星々の中でも、一番に輝く一等星。
それはどんなものなのか。
「アンナにとって、そのミアちゃんはどんな子?」
緑にこぼされた青を隠すように、ブリジットは少女の瞳を直視する。
のぞく深い紫が出した答えは、空に描く見えない白だった。
「──僕だ、ザックだ。入ってもいいかな」
「あっ、はい! どうぞ、殿下。お入りください」
アンナの口が開き、瞳がつづった言葉を音にしようとした瞬間。
扉をノックした音が、ザックの声を連れてきた。
光の見えない少女の瞳に、目を奪われていたブリジットだったが、主人である青年の声に、慌てて立ち上がり応えていく。
世間に疎いアンナを任せていた使用人の許可が下り、ゆっくりと部屋の扉を開けたザックは、見るからに疲労した様子を二人にさらす。
「やあ。アンナ、カナルミア。勉強の途中に済まない。少し話があってね、構わないだろうか」
「勿論です、殿下。本日の予定は、既に一通り終えています。アンナ、とても物覚えが良いんですよ」
「そうか。……えっと、アンナ? その格好はいったい? とても似合っているけれど、今日は何かの記念日だったかな」
肩と足が上がらず、声にすら覇気の一端も見当たらない。
そんなザックが部屋に入ると、まずアンナが今着ている服装に目が向かった。
白を基調とした、ロングスカートのワンピース。
それだけならばアンナに似合うとして、使用人たちが多くそろえた品々の一つだ。
しかし今の衣装はフリルにレースとリボンが飽きるほどに施され。
ケーキに盛られた果物とホイップのような贅沢さが、少女の身を包んでいた。
「ブリジットに怒られた」
「いえ、殿下。お気になさらず。──それにしてもお疲れのようですが、今日はレイラ殿下の使いにお会いするだけのはずでは」
「会って来たよ。大半がブロンズロック男爵の調査に関する、後処理の嫌味だったけどね」
早朝から出かけ、ザックの実姉であるレイラの部下と接触してた青年。
しかし彼の耳にぶつけられたのは、旧ブロンズロック男爵こと、名前のない長命の錬金術師と会った後の話だった。
町中に出現した人型の黒いなにか。
事情を知る者からすれば、アンナの力だと推測ができ、それを多くの人が目撃してしまったのだ。
秘匿しようにも、規模は町一つ。
焼失までしてしまえば開き直ることができるが、今回はそうもいかない。
だからこそ口止めに奔走する彼らからすれば、原因の首輪を握っていたはずのザックに、嫌味の一つは言いたくもなるだろう。
「お陰でこの通り。大人しく聞いているだけで、クタクタだ」
「でしたら、すぐにお休みになれるよう手配いたします」
「ああ、平気だよ、カナルミア。そこまでじゃないし、用事も終えていない」
「……失礼しました、殿下。まずはご用向きをお伺いすべきでした」
主人の体調をおもんばかるか、わざわざ出向いた要件を先に聞くべきか。
どちらも大切なことではあるが、片方のみに意識がいったことへブリジットは謝意を示す。
しかし受けとったザックは、いつもの作り笑いで流していく。
「気にしないでくれ。さて、用があるのはキミだ、アンナ」
「わたし?」
表情は淡々としているも、身動きだけで衣装の感想を述べるアンナ。
動きにくそうに本を抱えて、ザックの言葉に首を傾げる少女は、真っ直ぐに青年の姿を捉える。
ブリジットは脇にひかえ、ザックは小さな部屋を静かに進み。
そして白に満ちたアンナの前まで来た彼は、片ひざをつきながら、少女の目前で手の平を見せた。
「ドレスを着て、僕とパーティーに参加して欲しい」
アンナの瞳に映る、笑いかける青年の口元。
だけど、前髪に隠された濃淡の赤い瞳とは重ならず、本気か冗談かは分からない。
それでもザックからの突然の誘いに、アンナは読んでいた本を閉じて、ジッと彼の手を眺めながら悩んでいた。




