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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第二幕 無音を奏でる笛と鐘
37/84

37.The Magic piper(2)

 南でくつろぐ太陽が、窓を通り抜けて小さな部屋を照らす。


 対面する二つの机。

 その上には、ペンとノートといった書き物が広げられ、手元を照らすのは蒸気の照明。

 壁面にそって並べられるのは、書物を抱えた書架たちに、小さなオルガンと裁縫道具が収まった小棚など。


 ここは屋敷の中で子息令嬢が学びを得る、小さな教室。

 そんな遊びの少ない空間で、アンナは椅子にちょこんと座り、黙々と本につづられた文字を目で追っていた。


「アンナって、本当に不思議よね」

「ん、なにが?」

「記憶がないのに言葉も読み書きも、人一倍に知ってるところ。今だって、特に教えていないのに本を読めてるじゃない」

「……そうだね。どうしてだろう」


 少女の反対側。本来であれば専属の家庭教師が座るべき位置に、ブリジットは腰を下ろしている。

 理由は明白であり、怪物としての性質を持ったアンナを、多くの人に知られてはいけないからだった。


 ザックからすれば部下、屋敷の中では客人と居候の立場を、揺れる秤にかけている。

 しかし王室──ひいては国からすると、王子が秘匿する人ならざる存在と、国家機密に該当するほどだ。


 一家庭教師にその誓約は重く、代わりとして、世話役であるブリジットが淑女のたしなみを一通り教えていた。


「思い出したくない過去が多いとか? 都合よく忘れたい、みたいな」

「みんな、そうでしょ」

「そうね。私にもあるわ、そういうの。でもアンナは、殿下が見つけるよりも前のこと、全て忘れてる。怖いくらいにね」


 知識はある、しかし思い出はミアとの記憶だけ。

 そんなアンバランスさを、屋敷内でもっとも身近にいたブリジットだからこそ、深く感じとっていた。


 代表的なのは、アンナの私室。

 元々は家主の子どもたちにあてがわれる部屋で、ザックは未婚だったがゆえに使われていなかった。


 その一室に住み始めて、もう一ヶ月。

 住人の色に染まるには充分な時間なのだが、少女の私室は未だに与えられた当時のまま。


 物自体は増えてきているが、どれも周りから譲り受けた物ばかり。

 記憶は好みすら遠ざけているのか、アンナらしい色が塗られる様子はない。


「思い出したいとか、考えたことある?」

「別に。ミアが知りたかったこと、知れればいいから」

「またミアちゃん。殿下からも少し聞いたけれど、よっぽど仲が良かったのね。親友とか羨ましい」

「ブリジットはいないんだ」


 友人がいないみたいな言い回しね。

 そうつぶやくブルジットの表情に、一滴分の険しさが塗られていく。


 しかし、それも少しの時間だけ。

 筆が進むにつれて現れたのは、淡い青だった。


「友人知人は多い方よ。でも、その中で特別仲のいい人がいないだけ。だから私も知りたいの。友人でも家族でもなく、親友っていう特別な人のこと」


 私にないものを持っている、貴方を知りたい。


 数ある星々の中でも、一番に輝く一等星。

 それはどんなものなのか。


「アンナにとって、そのミアちゃんはどんな子?」


 緑にこぼされた青を隠すように、ブリジットは少女の瞳を直視する。

 のぞく深い紫が出した答えは、空に描く見えない白だった。


「──僕だ、ザックだ。入ってもいいかな」

「あっ、はい! どうぞ、殿下。お入りください」


 アンナの口が開き、瞳がつづった言葉を音にしようとした瞬間。

 扉をノックした音が、ザックの声を連れてきた。


 光の見えない少女の瞳に、目を奪われていたブリジットだったが、主人である青年の声に、慌てて立ち上がり応えていく。

 世間に疎いアンナを任せていた使用人の許可が下り、ゆっくりと部屋の扉を開けたザックは、見るからに疲労した様子を二人にさらす。


「やあ。アンナ、カナルミア。勉強の途中に済まない。少し話があってね、構わないだろうか」

「勿論です、殿下。本日の予定は、既に一通り終えています。アンナ、とても物覚えが良いんですよ」

「そうか。……えっと、アンナ? その格好はいったい? とても似合っているけれど、今日は何かの記念日だったかな」


 肩と足が上がらず、声にすら覇気の一端も見当たらない。

 そんなザックが部屋に入ると、まずアンナが今着ている服装に目が向かった。


 白を基調とした、ロングスカートのワンピース。

 それだけならばアンナに似合うとして、使用人たちが多くそろえた品々の一つだ。


 しかし今の衣装はフリルにレースとリボンが飽きるほどに施され。

 ケーキに盛られた果物とホイップのような贅沢さが、少女の身を包んでいた。


「ブリジットに怒られた」

「いえ、殿下。お気になさらず。──それにしてもお疲れのようですが、今日はレイラ殿下の使いにお会いするだけのはずでは」

「会って来たよ。大半がブロンズロック男爵の調査に関する、後処理の嫌味だったけどね」


 早朝から出かけ、ザックの実姉であるレイラの部下と接触してた青年。

 しかし彼の耳にぶつけられたのは、旧ブロンズロック男爵こと、名前のない長命の錬金術師と会った後の話だった。


 町中に出現した人型の黒いなにか。

 事情を知る者からすれば、アンナの力だと推測ができ、それを多くの人が目撃してしまったのだ。


 秘匿しようにも、規模は町一つ。

 焼失までしてしまえば開き直ることができるが、今回はそうもいかない。


 だからこそ口止めに奔走する彼らからすれば、原因の首輪を握っていたはずのザックに、嫌味の一つは言いたくもなるだろう。


「お陰でこの通り。大人しく聞いているだけで、クタクタだ」

「でしたら、すぐにお休みになれるよう手配いたします」

「ああ、平気だよ、カナルミア。そこまでじゃないし、用事も終えていない」

「……失礼しました、殿下。まずはご用向きをお伺いすべきでした」


 主人の体調をおもんばかるか、わざわざ出向いた要件を先に聞くべきか。

 どちらも大切なことではあるが、片方のみに意識がいったことへブリジットは謝意を示す。


 しかし受けとったザックは、いつもの作り笑いで流していく。


「気にしないでくれ。さて、用があるのはキミだ、アンナ」

「わたし?」


 表情は淡々としているも、身動きだけで衣装の感想を述べるアンナ。

 動きにくそうに本を抱えて、ザックの言葉に首を傾げる少女は、真っ直ぐに青年の姿を捉える。


 ブリジットは脇にひかえ、ザックは小さな部屋を静かに進み。

 そして白に満ちたアンナの前まで来た彼は、片ひざをつきながら、少女の目前で手の平を見せた。


「ドレスを着て、僕とパーティーに参加して欲しい」


 アンナの瞳に映る、笑いかける青年の口元。

 だけど、前髪に隠された濃淡の赤い瞳とは重ならず、本気か冗談かは分からない。


 それでもザックからの突然の誘いに、アンナは読んでいた本を閉じて、ジッと彼の手を眺めながら悩んでいた。

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