35.The Altruism Lord(12)
遠吠えのような汽笛の音を聞いて、アンナはかすかにまぶたを上げる。
浮上する意識を引っ張り上げるのは、遠吠えのような汽笛の声。
しかし、まだだと揺れる椅子と体を包む暖かさは、薄氷の蓋となっていた。
少女の目は開いているけれど、瞳には何も映っていなくて。
意識はあるけれど、記憶も心も曖昧なまま。
「んっ……」
小さな声とともに、身じろぐアンナ。
体を包んでいたのはザックの着ていたロングコートで、彼のにおいが鼻をくすぐると、少女は何の気なしに受けいれる。
そのままぼんやりと目の前を見ていると、アンナの向かいの席には、笑うことなく窓の外を眺めているザックの姿があった。
一見するとアイザックと同様の、無機質で冷めた黒塗りの感情。
しかし青みの強さを感じる表情から、怪物の彼ではないことが分かる。
「ザック、ここどこ」
眠気もともなったか細い声。
それを聞いたザックは、視線を窓の外からアンナへと切り替えていく。
外に向けていたのが本心だったのか。
すぐさま上がった口角を少女に見える青年は、そんな疑いを持ってしまうほど、表情の薄さが際立っている。
らしくない。
なんて考えるアンナだったが、いざザックがしゃべり始めると、そんな印象は霧のように隠されてしまった。
「汽車の中だよ、もう帰り道さ。倒れたままだったらどうしようと思ったけど、予想より早く起きてくれて良かった」
「たおれた……? そっか。そう、だったね」
汽車と並んで地平線を走る白い太陽。
その光が照らすのは、アンナの意識が途切れる寸前のできごと。
教会での事件と似た状況の中、リアムを名乗る誰かに少女は手を差し伸べた。
しかしその手は取られることなく、ここにいると、アンナとは違う道へ行った彼。
そこまで思い出した彼女にあるのは、三つの心。
もし、彼が自分の手を取っていれば、今頃ザックの隣に座っていたのだろうか。
もし、わたしが彼のようにザックの手を取らなかったら、ここにいなかったのか。
そもそも、最初からミアの手を取っていたら、今目の前にいるのは、まばゆい友だちの少女になっていたのか。
「これで、よかったのかな」
「今回の結果についてかい? 芳しくないね。本命の彼からはフラれて、調査員も一人減った。それに彼とは、色々と知られた状態のまま別れてしまったから、後が怖い」
「そうじゃないよ、ザック」
駆ける朝日に相応しく、小鳥のさえずりよりも控えた声量の会話。
口元には笑いを描いてはいるも、ザックの言葉に乗るのは、残念とする気持ち。
それをして、窓の外を見ていたときの表情が見間違いでないことを、アンナは確信する。
だが、彼の言うことにそっと首を振る彼女は、前髪で隠された二色の赤い瞳を捉えた。
とろけた深い紫の瞳。そのたゆたう意思に、硬い心を沈めながら。
「ミアみたいに、手を掴めばよかったのかな。絶対に離さないって」
太陽のような友だちみたいに、自分勝手に人の手をつかんで駆けだして、見たことのない世界へ連れていく。
そうしていれば、今ここにあの人はいたのか。
そんな後悔を語るアンナに、ザックもまた流すことなく応えていく。
「どうだろうね。そうしたとしても、彼はあの町から離れない。僕はそんな気がしてるよ」
「でも……」
「キミはあの町から出たかった。彼はあの町に居続けたかった。その違いだよ、アンナ」
誰も彼も、今の場所から連れ出せばいい訳ではない。
少なくとも名前のない誰かは、あの町に身を置くことに不満もなければ、納得もしていた。
かけがえのない場所だったのだろう。
そうザックは理解を示すも、聞いているアンナの胸の内にあるのは、空っぽの感覚だけ
「あの人はあったんだ。大切なものが、あそこに」
少女にとってのミアのように。
彼には空白を埋めてくれる何かが、あの町にはあった。
いいなと思う羨望と、ズルいなと思う嫉妬。
そんな二色を少しずつ混ぜて、自分の気持ちという絵をアンナは描いていく。
考えに耽る少女を、青年は無言をもって見守り。
この場から二人すらいなくなるような静寂を経て、紡ぎだされたのはふとした疑問。
「ザックって、大切なものあるの?」
「キミ、かなり寝ぼけているね。僕にだって、それぐらいは一つや二つあるさ」
寝ぼけまなこであることは、少女自身も否定しない。
しかし、思い当たる節がないものに関心が向いてしまった以上、彼女もハッキリと声にしていく。
アンナにとって、ミアがそうであるように。
名前のない誰かにとって、あの町がそうであるように。
誰しもが持っている、心に根づく大切なもの。
それをザックの口から聞いたことがないと、少女は首を傾げるも、ザックは得意の笑みを返すだけだった。
「例えば、アンナ。キミもその一人だよ」
爽やかさと怪しさを両立した青年の言葉。
それを半目で受け取る少女だったが、彼の音が心に沁みこむ感覚はない。
アイザックが同様のことを告げれば、その重さは計り知れないと想像ができる。
しかし今のザックには、風に吹かれた木の葉程度の軽さしかない。
本心ではないと見抜いたアンナは、もう少し深く潜りこもうと考えるも、仮面の厚さが見えてしまったがために、小さなため息をついて諦めた。
「ミア、この人のどこがよかったんだろう」
遠く離れてしまっても、大切な友だちには変わりはない。
しかし教会で熱く語っていた彼女の思い。
それに疑問を呈すアンナは、呆れた気持ちが上回り、青年に向けていた視線を窓から見える朝日へと移した。
部下と明確に告げたアイザック。
大切な人だと、嘘か本当か分からないことを口にしたザック。
二つを並べて眺める少女は、自分の心にも問いかける。
「わたしには分かんないな」
今では聞けない、ザックに関心を持ったミアの心。
それはどんな色で、どんな形をしていて。
どうすれば、同じものを自分も知ることができるのか。
知りたいことなのに、教えてと青年に言いだそうとすると、なぜか背中から抱き止められる。
なら、どうすればいいの。
そう問いかけながら、背中にいる誰かと一緒に、アンナは両腕で今の気持ちを包みこんだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
無事、第一幕が終了です。




