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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第一幕 無明の星
35/84

35.The Altruism Lord(12)

 遠吠えのような汽笛の音を聞いて、アンナはかすかにまぶたを上げる。


 浮上する意識を引っ張り上げるのは、遠吠えのような汽笛の声。

 しかし、まだだと揺れる椅子と体を包む暖かさは、薄氷(はくひょう)(ふた)となっていた。


 少女の目は開いているけれど、瞳には何も映っていなくて。

 意識はあるけれど、記憶も心も曖昧(あいまい)なまま。


「んっ……」


 小さな声とともに、身じろぐアンナ。

 体を包んでいたのはザックの着ていたロングコートで、彼のにおいが鼻をくすぐると、少女は何の気なしに受けいれる。


 そのままぼんやりと目の前を見ていると、アンナの向かいの席には、笑うことなく窓の外を眺めているザックの姿があった。


 一見するとアイザックと同様の、無機質で冷めた黒塗りの感情。

 しかし青みの強さを感じる表情から、怪物の彼ではないことが分かる。


「ザック、ここどこ」


 眠気もともなったか細い声。

 それを聞いたザックは、視線を窓の外からアンナへと切り替えていく。


 外に向けていたのが本心だったのか。

 すぐさま上がった口角を少女に見える青年は、そんな疑いを持ってしまうほど、表情の薄さが際立っている。


 らしくない。

 なんて考えるアンナだったが、いざザックがしゃべり始めると、そんな印象は霧のように隠されてしまった。


「汽車の中だよ、もう帰り道さ。倒れたままだったらどうしようと思ったけど、予想より早く起きてくれて良かった」

「たおれた……? そっか。そう、だったね」


 汽車と並んで地平線を走る白い太陽。

 その光が照らすのは、アンナの意識が途切れる寸前のできごと。


 教会での事件と似た状況の中、リアムを名乗る誰かに少女は手を差し伸べた。

 しかしその手は取られることなく、ここにいると、アンナとは違う道へ行った彼。


 そこまで思い出した彼女にあるのは、三つの心。


 もし、彼が自分の手を取っていれば、今頃ザックの隣に座っていたのだろうか。

 もし、わたしが彼のようにザックの手を取らなかったら、ここにいなかったのか。


 そもそも、最初からミアの手を取っていたら、今目の前にいるのは、まばゆい友だちの少女になっていたのか。


「これで、よかったのかな」

「今回の結果についてかい? 芳しくないね。本命の彼からはフラれて、調査員も一人減った。それに彼とは、色々と知られた状態のまま別れてしまったから、後が怖い」

「そうじゃないよ、ザック」


 駆ける朝日に相応しく、小鳥のさえずりよりも控えた声量の会話。

 口元には笑いを描いてはいるも、ザックの言葉に乗るのは、残念とする気持ち。

 それをして、窓の外を見ていたときの表情が見間違いでないことを、アンナは確信する。


 だが、彼の言うことにそっと首を振る彼女は、前髪で隠された二色の赤い瞳を捉えた。

 とろけた深い紫の瞳。そのたゆたう意思に、硬い心を沈めながら。


「ミアみたいに、手を掴めばよかったのかな。絶対に離さないって」


 太陽のような友だちみたいに、自分勝手に人の手をつかんで駆けだして、見たことのない世界へ連れていく。

 そうしていれば、今ここにあの人はいたのか。


 そんな後悔を語るアンナに、ザックもまた流すことなく応えていく。


「どうだろうね。そうしたとしても、彼はあの町から離れない。僕はそんな気がしてるよ」

「でも……」

「キミはあの町から出たかった。彼はあの町に居続けたかった。その違いだよ、アンナ」


 誰も彼も、今の場所から連れ出せばいい訳ではない。

 少なくとも名前のない誰かは、あの町に身を置くことに不満もなければ、納得もしていた。


 かけがえのない場所だったのだろう。

 そうザックは理解を示すも、聞いているアンナの胸の内にあるのは、空っぽの感覚だけ


「あの人はあったんだ。大切なものが、あそこに」


 少女にとってのミアのように。

 彼には空白を埋めてくれる何かが、あの町にはあった。


 いいなと思う羨望と、ズルいなと思う嫉妬。

 そんな二色を少しずつ混ぜて、自分の気持ちという絵をアンナは描いていく。


 考えに(ふけ)る少女を、青年は無言をもって見守り。

 この場から二人すらいなくなるような静寂を経て、紡ぎだされたのはふとした疑問。


「ザックって、大切なものあるの?」

「キミ、かなり寝ぼけているね。僕にだって、それぐらいは一つや二つあるさ」


 寝ぼけまなこであることは、少女自身も否定しない。

 しかし、思い当たる節がないものに関心が向いてしまった以上、彼女もハッキリと声にしていく。


 アンナにとって、ミアがそうであるように。

 名前のない誰かにとって、あの町がそうであるように。


 誰しもが持っている、心に根づく大切なもの。

 それをザックの口から聞いたことがないと、少女は首を傾げるも、ザックは得意の笑みを返すだけだった。


「例えば、アンナ。キミもその一人だよ」


 爽やかさと怪しさを両立した青年の言葉。

 それを半目で受け取る少女だったが、彼の音が心に沁みこむ感覚はない。


 アイザックが同様のことを告げれば、その重さは計り知れないと想像ができる。

 しかし今のザックには、風に吹かれた木の葉程度の軽さしかない。


 本心ではないと見抜いたアンナは、もう少し深く潜りこもうと考えるも、仮面の厚さが見えてしまったがために、小さなため息をついて諦めた。


「ミア、この人のどこがよかったんだろう」


 遠く離れてしまっても、大切な友だちには変わりはない。


 しかし教会で熱く語っていた彼女の思い。

 それに疑問を呈すアンナは、呆れた気持ちが上回り、青年に向けていた視線を窓から見える朝日へと移した。


 部下と明確に告げたアイザック。

 大切な人だと、嘘か本当か分からないことを口にしたザック。


 二つを並べて眺める少女は、自分の心にも問いかける。


「わたしには分かんないな」


 今では聞けない、ザックに関心を持ったミアの心。

 それはどんな色で、どんな形をしていて。

 どうすれば、同じものを自分も知ることができるのか。


 知りたいことなのに、教えてと青年に言いだそうとすると、なぜか背中から抱き止められる。


 なら、どうすればいいの。

 そう問いかけながら、背中にいる誰かと一緒に、アンナは両腕で今の気持ちを包みこんだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

無事、第一幕が終了です。

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