33.The Altruism Lord(10)
声が聞こえる。
呪いの火花を散らしながら行進する怪物たち。
冷たい断頭台のごとく、誰に対しても遠慮のない物言いをするアイザック。
そして許容という諦めをもって、地に根を張ってしまったリアム。
「こわい」
彼ら全員の言動は、霧となったアンナの記憶に、わずかながら輪郭を与えていた。
まぶたを閉じた先に見える、焼け焦げた絵画。
日蝕のように影しか捉えられないが、きっと今と似た経験をしたのだと、直視できない恐怖の黒と対面しながら、アンナは直感を言葉にしていく。
「みんな、嫌いだ」
誰に言った言葉だったのか。
それすらも分からないけれど、絵画に描かれた複数の影は、アンナが抱く恐怖に形を与える。
迫ってくる誰かが嫌い。
自分が裁判長とばかりに仕切る、誰かが嫌い。
彼らが来ているのに、絶望した表情でわたしを見ている誰かが嫌い。
──周りにいる、全員が嫌いだった。
「わたしは、怪物なんかじゃない」
どこを見回し、誰の顔を見ても。
至るところにつづられているのは、赤と黒の怪物の文字。
遠くかすんだ記憶も、近く鮮明な記憶も。
どちらにせよ変わらなくて、だからこそ明確になったことがあった。
「……だけど怪物でもいいって、言ってくれた」
怪物ではないと首を振り続け、離れた場所でわめく声たちを恨んで。
アンナはそんな少女だったのに、彼らとは違う二人がいた。
手を差し伸べて、握り返すのを待っていてくれる優しい太陽と。
表裏で異なる表情を見せてくれる、近しい月。
それぞれ接し方は違うけれども、アンナを見てくれたのは、どちらも同じ。
「リアムは同じだ。教会にいたときのわたしと同じ、あの日のまま」
だから燃え上がる怪物たちの慟哭の中から、冬の夜空のようなアイザックの声をアンナは聞き取った。
生きることすら諦めているリアムを見て、過去の自分を思い出すか?
その答えは胸が張り裂けそうなほどに痛み、そしてかすかに笑える感情がこみ上げてくるものだった。
「思い出せるよ、アイザック。だからわたしは、このままじゃダメだよね」
煤のようにもろい足を固めて、アンナは立ち上がる。
怪物たちの火花の声を聞いただけで、胃がねじ切れそうだけれど、それでも顔を下げることだけはしない。
また下を見てしまえば、あの日と同じになってしまう。
父親に連れられて、ミアが教会から出て行ってしまった、あのときみたいに。
だから少女は歩きだす。
届かない太陽を目指すように、怪物たちの波を超え、波を御するアイザックもすり抜けて。
いつかの自分と鏡写しのような彼を、もう離さないとばかりに捉えた。
「……みんな、止まれ」
黒い怪物たちは、全てアンナの怪物としての力によって生み出されたもの。
ならば生みの親である少女の命令は、その意志さえあれば通じるはず。
藍色が混じり始めた空を背に、軽いめまいを起こしながらも、アンナは怪物たちに思いを伝える。
生半可な言い方ではダメ。
そう思った彼女の言葉は、アイザックのように低く冷たい青の色。
歯向かえば煤に還す。
出来もしないことだとしても、すると決断を乗せた命令は、確かな手応えとともに黒の波へ浸透していく。
「ご苦労、アンナ。一つ進展だな。このまま励め」
「嬉しくない。こんなの苦しいだけ」
どうして。そんな思いがこめられた視線の群れの中を、アンナは一人で進んでいく。
リアムを名乗る男の前まで来たとき、アイザックがすれ違いざまに声をかけて来るも、少女に喜色の表情は浮かんでいなかった。
黒い怪物を生み出して、思い一つで自由に動かせる。
彼女が自発的に指示を出したのは、今回が初めてだが、もし無意識の想いでも動くのであれば、話が変わってしまう。
これまでの黒い怪物たちが起こしたことは、全てアンナが心のどこかで思っていたこと。
そうなってしまえば、少女に耐えられる心はない。
だから今は怪物たちのように脇へ置き、名前の判らない誰かの前まで向かった。
「やっぱり、絵画のリアムじゃないんだね」
「どこで気がついた? 今後のために聞いておきたい」
「笑い方。絵の人は友だちと似てたけど、あなたは違ったから」
光沢のない青銅の隻眼と、影が差した深い紫の双眸が重なる。
光が遠ざかってしまった二人が話すのは、絵画の人物と入れ替わっていた誰かとの相違点。
違和感は合っても、長い年月がそう変えた。
そういった、どこか納得のいく立ち振る舞いをしていたはずだと、彼は疑問を投げていく。
対して答えるアンナの言葉には、寂しさがふくまれていた。
「リアムじゃないのなら、あなたは誰?」
「聞いたところでどうする。俺はリアム以外であってはならないんだ。それに元の名前なんて、とっくの昔に忘れてる」
「名前、分からないんだ」
──同じだ。
名前を思い出せず、言ってももらえず、怪物でなくてはならない。
一ヶ月前の自分と目の前の誰かを重ねるアンナは、だからこそ、彼の前で膝を屈める。
意思一つ。男性の肩に刺さったままの黒い剣を煤に変え、少女は痛む胸をこらえながら小さな弧を口元に描いた。
「……ん」
小さく細い手を広げて、彼の目の前に。
突然、少女の手の平を見せられた名無しの誰かは、思わず唖然としてしまい、口から言葉が紡がれたのは数拍遅れた後。
「これは、なんだ」
「握手。友だちって、こうしたら慣れるんでしょう? わたしたち、自分みたいな人を探しに来ただけだから」
「友達とか、本気で言ってるのか」
口ではそう告げたが、男性の心の内は既に少女の手を取っていた。
けれども実際の手を取らないのは、彼女の背後にいる存在たちが気がかりなため。
どちらの人格にせよ、裏に光が当たらない王子。
そして少女の意識とは無関係に発生する、黒い怪物。
アンナだけならば、ためらいはあれど、まだ動く機械の左手で握ることができた。
しかしその背後に広がる、夜に似た世界を考えると、彼はアンナの無理をした笑いにつられた表情を浮かべ、そっと首を横に振る。
「悪いが、俺はまだリアムでいないといけない。待ってる人たちがいるんだ。王子の野望には付き合えないな」
「ダメ?」
「ああ。こいつらは俺を恨んでいても、俺はこいつらも領民も、全員嫌いにはなれない。助けてと言われているのに、さよならは無理だ」
お人好しと笑いたいなら、笑えばいい。
頼られているんだ、悪い気はしない。
だから無理だと、心の内で掴んでいた少女の手を離し、体も遠ざかるように後ろのめりへ。
背中を地面に預ける名前のない誰かは、青銅の瞳に茜色の空を映した。
「俺はここにいるよ」
「そっ……か……」
倒れたのはアンナも同じだった。
トラウマによる負荷を抱えながらの、無理ある行動。
少しでも気を抜く要因があれば意識はゆらぎ、霧は瞬く間に脳内へ広がっていく。
当然、まぶたを閉じたアンナの体は力を失い、抵抗なく地面へ──




