30.The Altruism Lord(7)
幼い少女の両親が別館へ姿を見せたのは、リアムの説得から三十分は過ぎた後。
顔を青くした彼らが、娘と飼い犬を強く抱きしめると、甘いミルクの香りが留めていた水が、一気にあふれ出した。
もう飼い犬のテディの声が聞けないこと、心配をかけたこと、家出をする前に嫌いだって言っちゃったこと。
どれを謝って悲しんで、言葉にすればいいのか分からなくて。
昨日までのように、飼い犬と一緒に両親から抱きしめられる幼い少女は、疲れて眠るまで泣き続けた。
「本当にお世話になりました、リアム様」
「これぐらい構わない。それよりも、俺の所に来てくれて良かった。こういう時、幼い子は人気のない場所に行きやすいからな」
「ええ、まったくです。お陰でご近所の方々にも、ご迷惑をお掛けしました。今日はここで失礼しますが、後日改めてお礼に参ります」
リアムへ懸命に頭を下げ、謝意を示し続けるのは、幼い少女の母親。
今回の騒動は飼い犬が亡くなった事実を、娘にうまく納得させられなかったことが原因だと、彼女は後悔とともに語っていく。
まだ幼い娘にうまく寄り添えず、喧嘩をして、さらには目を離した隙に行方をくらまされた。
失敗なんて言葉で片づけられない。
その上、夕方が迫っていた時間帯に、幼い子どもが一人で出歩くなんて言語道断。
一歩間違えれば行方不明。しかも理由は、迷子であるとは限らない。
そんな不安が彼らの顔を青白くしてたものの、父の抱えられながら眠る娘を一目見るだけで、夕暮れのような色味を取り戻していった。
「それでザックさん。俺への要件だが……」
茜色に照らされながら帰路につく家族を、別館の玄関前で三人が見届ける中。
先刻の続きはどうするのかと、リアムとザックは話を始めていく。
「こちらから持ちかけたお話ですが、また後日にしようかと。この雰囲気でする話ではないので」
「なんだ、思ったよりは急ぎじゃないんだな」
リアムはまぶしいものを見るように。
ザックは壁に寄りかかりながら、思案を巡らせているのか顔の向きが定まらず。
残るアンナは去っていく彼らの背に、寂しさを乗せた手を振っていた。
そんな空気だからこそ、ザックは続きに戻ることを遠慮し、リアムは意外だと肩透かしを食らってしまう。
「もう逢えない、か」
見送りはもういいだろう。
そう言いながら別館の中へ戻る意思を見せる二人を背に、アンナは独り、届かない空へと言葉を投げる。
少女の友だちと同じ、青と白が似合う大空はもういない。
アンナの視界に広がるのは、赤と藍色で黒を作り始めた巨大なパレット。
いつかのあの日と重なる空模様。
彼女の深い紫の瞳は夕日に吸いこまれ、濃い色味になるまで想いを重ねていく。
「わたしも逢いたいよ、ミア」
黒髪に差しこまれる赤い光。
それは夕焼けによる錯覚か、それとも例の現象か。
友だちの名前を口にして深まる想いは、もう見えなくなった幼い少女の心に向けて手を伸ばしていく。
隣で彼女の友だちのことを、いっぱい聞いた。
思いの丈も伝わったし、一緒にいたときの情景も目に浮かぶ。
嫌だよね、離れたくないよね、置いていかれたくないよね。
──また逢いたいよね。
「こうすれば逢えるかな」
欠けたことでできた、心の破片。
先の見えない黒一色のそれを、煤のように沢山集め、つぎはいで固めれば黒い塊に。
そこへ想いの火をつければ、血の通った灯火を見せてくれる。
「……ザックさん。これはいったい、どういう事だ」
胸にざわつきを覚え、ふと後ろを振り返ったリアムが目にしたのは、一世紀は生きたとされる彼の人生の中で、初めての現象だった。
夕日で伸びた少女の影。
そこから生まれた黒い霧は、彼女の隣で集合すると、黒い固体となって地に足をつける。
質感は火にくべられた炭のそれ。
しかし形作られた姿は、突然の記憶喪失か健忘症でない限り、忘れようのない見た目だった。
「アレはどう見ても、今帰った家族が飼っていた犬だ」
アンナの足元で、ワンと元気よく吠える黒の塊。
見えなくなった幼い少女を注視していた彼女だが、耳を通り抜けたその声に驚き、思わず後ずさりをした上に、足をもつれさせて転んでしまう。
生みだされたのは、わずかな亀裂から赤い光を灯した黒一色のコーギー。
その容姿は木炭を使って精巧に作られた、一流芸術家の彫刻品。
まったくの同一といっていいほど、特徴を掴んでいるそれは、夕日の先を見つめた後にアンナの方へ体を向ける。
こちらへ来るのか。
そう思ったアンナは、コーギーの黒い体から教会に押し寄せる怪物を連想してしまい、うまく動かない足を引きずって距離を取ろうとした。
「こない……で……!」
アンナの上げた悲鳴は空には届かず、ザックの足元にまで手が伸びる程度。
自分を見て怯えている少女。それをパンティングしながら眺めていたコーギーは、特に何をするでもなく、別の方向へ駆け出した。
向かう先は、いぶかしんだ表情を隠さないリアムの足元。
警戒心もなくすり寄り、何度か彼の周りを回ると、クゥーンと困ったような声とともに頭上へ視線を移した。
視線を合わせたリアムは、そのまま犬の全身を観察していく。
近くで見るとより分かる、亡くなっていた飼い犬との類似性。
視覚的にも感覚的にも、この犬は幼い少女が抱えていた子だと理解すると、リアムは別館の玄関で立ち止まっているザックに聞こえるよう、声を張り上げた。
「月の始め、町民の中に不審な死を遂げた奴がいた。遠い田舎町が丸々焼失した、なんてニュースが流れた時にだ」
それはちょうど、アンナが教会の外へ出た辺りの話。
暦の上では夏が終わり、秋が訪れる変わり目に起きた、奇怪な事件。
「そいつはベッドの上で、人間一人分の大きさの煤になっていた。政府の人間が自然発火による焼死と診断していたが、あり得ると思うか?」
夜間に突然人が燃えれば、独りでなければ誰かは異変に気づくだろう。
不可解な点は他にもあった。発火というには周囲に被害はなく、ベッドのシーツにすら痕跡はなし。
人だけが燃えたか、元より煤だったか。
そうでなければ説明のつかない現象に、リアムは今、線を結び始める。
「かん口令をわざわざ敷くんだ。何を隠しているかと思ったら、コレか」
ザックの姉、レイラによって粛々と行われていた、人が煤へ変化する異常に対するかん口令。
他言無用。それは隠し事の常套句であり、往々にして都合の悪さを物語っている。
これによって、ほとんどの国民は認知することすら叶わないが、当事者たちであれば話は別。
「国は民を、都合のいい別物に置き換えようとしているのか、アイザック王子」
リアムからすれば、アンナの起こす現象を使って、人間をすげ替える実験をしていた。
そう受け取れるがために、棘で作った言葉をザックへぶつけていく。
しかし通報に力任せな問い詰めなどの、青年を追い詰める行動にはすぐに移らず。
釈明の時間だと言わんばかりのリアムの注視に、ザックは別館の影から出ないまま、真っ直ぐに彼の思いへ応えていった。
「少なくとも僕は違うし、アンナだってそうだ。他の貴族や軍の上層部は、考えそうなことだけれどね」
自分たちは、リアムの考える壮大な実験には関わっていない。
それは嘘ではなく、真実であるがゆえにザックは堂々と宣言する。
しかし黒の怪物そのものに関しては否定できず、室内のときとは違う、赤と黒をふくんだ疑いの目が重なり合った。




