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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第一幕 無明の星
30/84

30.The Altruism Lord(7)

 幼い少女の両親が別館へ姿を見せたのは、リアムの説得から三十分は過ぎた後。

 顔を青くした彼らが、娘と飼い犬を強く抱きしめると、甘いミルクの香りが留めていた水が、一気にあふれ出した。


 もう飼い犬のテディの声が聞けないこと、心配をかけたこと、家出をする前に嫌いだって言っちゃったこと。

 どれを謝って悲しんで、言葉にすればいいのか分からなくて。


 昨日までのように、飼い犬と一緒に両親から抱きしめられる幼い少女は、疲れて眠るまで泣き続けた。


「本当にお世話になりました、リアム様」

「これぐらい構わない。それよりも、俺の所に来てくれて良かった。こういう時、幼い子は人気のない場所に行きやすいからな」

「ええ、まったくです。お陰でご近所の方々にも、ご迷惑をお掛けしました。今日はここで失礼しますが、後日改めてお礼に参ります」


 リアムへ懸命に頭を下げ、謝意を示し続けるのは、幼い少女の母親。

 今回の騒動は飼い犬が亡くなった事実を、娘にうまく納得させられなかったことが原因だと、彼女は後悔とともに語っていく。


 まだ幼い娘にうまく寄り添えず、喧嘩をして、さらには目を離した隙に行方をくらまされた。


 失敗なんて言葉で片づけられない。

 その上、夕方が迫っていた時間帯に、幼い子どもが一人で出歩くなんて言語道断。

 一歩間違えれば行方不明。しかも理由は、迷子であるとは限らない。


 そんな不安が彼らの顔を青白くしてたものの、父の抱えられながら眠る娘を一目見るだけで、夕暮れのような色味を取り戻していった。


「それでザックさん。俺への要件だが……」


 茜色に照らされながら帰路につく家族を、別館の玄関前で三人が見届ける中。

 先刻の続きはどうするのかと、リアムとザックは話を始めていく。


「こちらから持ちかけたお話ですが、また後日にしようかと。この雰囲気でする話ではないので」

「なんだ、思ったよりは急ぎじゃないんだな」


 リアムはまぶしいものを見るように。

 ザックは壁に寄りかかりながら、思案を巡らせているのか顔の向きが定まらず。

 残るアンナは去っていく彼らの背に、寂しさを乗せた手を振っていた。


 そんな空気だからこそ、ザックは続きに戻ることを遠慮し、リアムは意外だと肩透かしを食らってしまう。


「もう逢えない、か」


 見送りはもういいだろう。

 そう言いながら別館の中へ戻る意思を見せる二人を背に、アンナは独り、届かない空へと言葉を投げる。


 少女の友だちと同じ、青と白が似合う大空はもういない。

 アンナの視界に広がるのは、赤と藍色で黒を作り始めた巨大なパレット。


 いつかのあの日と重なる空模様。

 彼女の深い紫の瞳は夕日に吸いこまれ、濃い色味になるまで想いを重ねていく。


「わたしも逢いたいよ、ミア」


 黒髪に差しこまれる赤い光。

 それは夕焼けによる錯覚か、それとも例の現象か。


 友だちの名前を口にして深まる想いは、もう見えなくなった幼い少女の心に向けて手を伸ばしていく。


 隣で彼女の友だちのことを、いっぱい聞いた。

 思いの丈も伝わったし、一緒にいたときの情景も目に浮かぶ。


 嫌だよね、離れたくないよね、置いていかれたくないよね。

 ──また逢いたいよね。


「こうすれば逢えるかな」


 欠けたことでできた、心の破片。

 先の見えない黒一色のそれを、煤のように沢山集め、つぎはいで固めれば黒い塊に。

 そこへ想いの火をつければ、血の通った灯火を見せてくれる。


「……ザックさん。これはいったい、どういう事だ」


 胸にざわつきを覚え、ふと後ろを振り返ったリアムが目にしたのは、一世紀は生きたとされる彼の人生の中で、初めての現象だった。


 夕日で伸びた少女の影。

 そこから生まれた黒い霧は、彼女の隣で集合すると、黒い固体となって地に足をつける。


 質感は火にくべられた炭のそれ。

 しかし形作られた姿は、突然の記憶喪失か健忘症でない限り、忘れようのない見た目だった。


「アレはどう見ても、今帰った家族が飼っていた犬だ」


 アンナの足元で、ワンと元気よく吠える黒の塊。

 見えなくなった幼い少女を注視していた彼女だが、耳を通り抜けたその声に驚き、思わず後ずさりをした上に、足をもつれさせて転んでしまう。


 生みだされたのは、わずかな亀裂から赤い光を灯した黒一色のコーギー。

 その容姿は木炭を使って精巧に作られた、一流芸術家の彫刻品。

 まったくの同一といっていいほど、特徴を掴んでいるそれは、夕日の先を見つめた後にアンナの方へ体を向ける。


 こちらへ来るのか。

 そう思ったアンナは、コーギーの黒い体から教会に押し寄せる怪物を連想してしまい、うまく動かない足を引きずって距離を取ろうとした。


「こない……で……!」


 アンナの上げた悲鳴は空には届かず、ザックの足元にまで手が伸びる程度。

 自分を見て怯えている少女。それをパンティングしながら眺めていたコーギーは、特に何をするでもなく、別の方向へ駆け出した。


 向かう先は、いぶかしんだ表情を隠さないリアムの足元。

 警戒心もなくすり寄り、何度か彼の周りを回ると、クゥーンと困ったような声とともに頭上へ視線を移した。


 視線を合わせたリアムは、そのまま犬の全身を観察していく。


 近くで見るとより分かる、亡くなっていた飼い犬との類似性。

 視覚的にも感覚的にも、この犬は幼い少女が抱えていた子だと理解すると、リアムは別館の玄関で立ち止まっているザックに聞こえるよう、声を張り上げた。


「月の始め、町民の中に不審な死を遂げた奴がいた。遠い田舎町が丸々焼失した、なんてニュースが流れた時にだ」


 それはちょうど、アンナが教会の外へ出た辺りの話。

 暦の上では夏が終わり、秋が訪れる変わり目に起きた、奇怪な事件。


「そいつはベッドの上で、人間一人分の大きさの煤になっていた。政府の人間が自然発火による焼死と診断していたが、あり得ると思うか?」


 夜間に突然人が燃えれば、独りでなければ誰かは異変に気づくだろう。

 不可解な点は他にもあった。発火というには周囲に被害はなく、ベッドのシーツにすら痕跡はなし。


 人だけが燃えたか、元より煤だったか。

 そうでなければ説明のつかない現象に、リアムは今、線を結び始める。


「かん口令をわざわざ敷くんだ。何を隠しているかと思ったら、コレか」


 ザックの姉、レイラによって粛々と行われていた、人が煤へ変化する異常に対するかん口令。

 他言無用。それは隠し事の常套句であり、往々にして都合の悪さを物語っている。


 これによって、ほとんどの国民は認知することすら叶わないが、当事者たちであれば話は別。


「国は民を、都合のいい別物に置き換えようとしているのか、アイザック王子」


 リアムからすれば、アンナの起こす現象を使って、人間をすげ替える実験をしていた。

 そう受け取れるがために、棘で作った言葉をザックへぶつけていく。


 しかし通報に力任せな問い詰めなどの、青年を追い詰める行動にはすぐに移らず。

 釈明の時間だと言わんばかりのリアムの注視に、ザックは別館の影から出ないまま、真っ直ぐに彼の思いへ応えていった。


「少なくとも僕は違うし、アンナだってそうだ。他の貴族や軍の上層部は、考えそうなことだけれどね」


 自分たちは、リアムの考える壮大な実験には関わっていない。


 それは嘘ではなく、真実であるがゆえにザックは堂々と宣言する。

 しかし黒の怪物そのものに関しては否定できず、室内のときとは違う、赤と黒をふくんだ疑いの目が重なり合った。

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