29.The Altruism Lord(6)
アンナより一回りは下。
二桁に届くか分からない幼い少女が抱えていたのは、王国で昔から人気を博しているコーギーだった。
胴長の体に、大幅に取られた黒と腹部の白。
起きているときは活発に動き回る印象が強い犬だが、今は彼女の腕の中でぐっすりと眠っている。
表情は穏やかそのものであり、幼い少女が焦るような顔には見えない。
三人がそう思えたのは束の間だった。
「朝からね、ぜんぜん起きてくれないの。ゆすってもゆすっても、いつもみたいにワンって起きてくれなくて」
眠るコーギーを抱きしめながら、幼い少女はリアムの下へと近づいていく。
呼吸していればあるはずの体の上下、これでもかと脱力を感じる全身の様子、どれだけ揺れても開かないまぶた。
たったこれだけでも、彼女が大切にしている飼い犬がどうなっているのか、想像に難くない。
──今朝方、コーギーは眠るように亡くなった。
そんな結論を、幼い少女が目前にたどり着くまでに出したリアムは、そっと席を立って片膝をつく。
残された青緑の左目を、幼い少女と同じ高さに合わせ。
笑わず、泣かず。真実だけを告げると固く誓った声を、彼は解き放った。
「済まない。俺では、この子を助けられない。俺の手には、閉じた目を開ける術はないんだ」
「うそだ。パパもママも、リアムさまなら何でもできるって言ってた! れんきんじゅつで、何でもなおしてくれるって!」
「嘘じゃない、無理なんだ。俺なんかじゃ、死んだものを生き返らせることはできない」
幼い少女にどれだけ泣かれようと、どれだけ叫ばれようと、どれだけ嘘つきと言われても。
リアムはずっと、蘇らせることはできないと、言葉を尽くしていく。
自分は無力な人間だ。皆が考えるほど全能じゃない。
君の役に立つことができない、どこにでもいる無能なんだ。
どれだけの言葉の刃が襲いかかろうと、目をそらさずに受け続ける。
そんな姿勢のリアムに、理解と咀嚼が追いつかない幼い少女は、嘘つきだって叫び続ける。
「うそだもん。リアムさま、あたしのびょうきも治してくれたし、パパがうで折っちゃったときも、助けてくれた。ぬいぐるみも、おようふくも。みんな、なおしてくれた。だからテディもなおしてよ!」
「それでも──」
微動だにしないコーギーを抱きしめて、テディと名前を叫ぶ少女の想いは、その締めつけに比例する。
絶対に離さない。
天国だろうと地獄だろうと、自分自身の下からは一歩も、どこかには行かせない。
だからこうしている間に、リアムに魂を戻してもらおう。
そう高々に告げているのに、肝心の男性は冷たさすらある不変の言葉で、眠る飼い犬を涙で濡らす幼い少女の頭を撫でていく。
「それでも俺にはできないんだ。君と同じ、抱き締めることしか。なくなったものは、もう戻せない」
金に変えられた鉄も、鋼鉄の腕になる前の生きた腕も、昨日まで生きていた飼い犬も。
未来へ進んでしまったからこそ、戻らない。
「だからさ、本当の別れのときまでずっと一緒にいよう。土に還るその時まで、彼をそのまま抱いているんだ」
その上で過去にすがるのなら、骸を抱いているしかない。
何をしても目が覚めることはないのだから。
せめてお墓を作るまで、そのままで。
俺が出せる妥協点はこれだけだと、まだ生きている右手で幼い少女の飼い犬の頭を撫でるリアムに、彼女は段々と言葉を失っていく。
幼い少女にとっては、最後の砦だった。
大好きなパパとママに首を振られ、周りの知り合いも沈痛な面持ちで視線をそらし、抱えたテディは笑ったまま。
だから何でもできるはずのリアムへ頼みに来たのに、行きついたのは最後まで一緒にいること。
心のどこかで分かっていた。
お墓が必要だって、もう元気にワンと鳴いてくれるテディには逢えないんだって。
「おわかれ……なのぉ……?」
「ああ。一緒にいられて良かったと、笑うんだ。君が泣いていて、この子は喜ぶかな」
「……うぅん」
突然の離別ではなく、安らかな旅立ちなのだから。
空を昇っていくテディを、笑顔で見送ろう。
そう言い聞かせるリアムに、幼い少女が返すのは短い言葉と頷きだけ。
残る力は、飼い犬を抱きしめるだけに使われていく。
そんな様子を黙って見届けていたザックは、そろそろかなと席を立ち、幼い少女を驚かせないようにリアムへ声をかけた。
「リアムさん、何か手伝えることはありますか」
「客人にそんな……。本当に良いのか?」
「泣いてる少女を眺めながらお茶ができるほど、心は腐っていませんから。それに何かしないと、落ち着かないので」
「なら、そこにある小さい冷蔵庫からミルクを。それから戸棚に、ハチミツと砂糖がある。それでホットミルクでも作ってくれ」
すすり泣いてはいるも、別館へ飛び込んできたときと比べれば、かなり落ち着いてきた幼い少女。
一段落がついた。そう確信して笑みを取り戻すリアムは、願ってもないとばかりに、ザックの提案を受けいれた。
物を探すのには苦労するも、その後は可も不可もない動きで甘いホットミルクを作るザックに、後悔を残した表情でリアムは問いかけていく。
「なあ、ザックさん。こういう時って、どうするのが一番なんだろうな」
「僕も分からないな。何があっても平然としていろとは、よく言われたけれど」
「俺もだ。ただそれは違うんだろうなって、今は思ってる。……でも、涙を受け続けるしかないのが、正解とも思ってない」
飼い犬を離さないと誓った幼い少女を、用意した小さな椅子で休ませて、リアム自身はザックの隣へ。
泣いている彼女への接し方は、これで良かったのか。
そう心中をもらすリアムに、ザックもまた同意していく。
──置いていかれた者は、どうすればいいのか。
その答えはないし、胸に渦巻く行き場のない感情も、名前はない。
ただ欠落だけが残されて、見えなくなった背中を追う。
だからこそ黒の少女は、いつのまにか幼い少女の隣へ移動していた。
「その子、友だち?」
「うん……」
今でも記憶に刻まれている、友だちのミアのように。
幼い少女の隣で膝を抱え、視線はわずかに下へ。
あの日と同じ、うつむいたアンナは言葉を床へと落としていく。
けれど今は、そのまま転がらない。ポンと跳ねて、幼い少女の胸の中へ。
「いなくなるの、やだね」
「やだ」
「なんで、いなくなるんだろうね」
生きているからこそ、終わりがある。
それが分かっていても、どうしてと嘆く気持ちが、アンナの中に居続けている。
どうしていなくなったの、どうして置いていったの、どうして約束を守ってくれなかったの。
どうして、握っていた手を離したの。
最後まで笑おうとしてくれた友だちに、抱きしめてでも言いたい心の叫び。
けれど、もうその相手はこの世にいない。
「おねえちゃんも、おともだち、いなくなっちゃったの?」
「うん、ちょっと前に」
そっかぁ、と相槌を打つ幼い少女。そしてコクリと頷くアンナ。
どちらも抱えているものに目を落とし、手を繋いでいないのに、相手の体温を感じていく。
「いっしょだね」
そう言いながら無理をして作った幼い少女の笑い顔に、アンナも真似をして、口元に弧を描いた。
アンナの深い紫色の瞳が彼女を捉えると、儚さを演出する黒い長髪に、キラリと赤い一筋の流星が差しこまれる。
誰よりも寄り添ってくれる、知らない年上の少女。
そんな彼女の赤い光が刻まれた黒い髪に、幼い少女は目を奪われ続けた。




