26.The Altruism Lord(3)
笑っていた。
そんな気がする、散っていった黒い霧。
あれが人の形をした煤の塊たちの材料、というのは容易く想像できるだろう。
発生と凝縮。そして物質として人の形を成し、赤い亀裂が走れば、例の怪物となる。
その工程までは納得がいくも、今まで見てきた彼らの格差に疑問があった。
自我すら失った有象無象の町民たち、外見はひどいものの人として接することができたスタンリー。
そして唯一の例として、最後まで人であろうとしたアンナの友人──ミア。
「どうにも足りないな」
少ないながらも手元にある情報を、線で結ぼうとするザックだが、どうにも据わりが悪く不格好になってしまう。
星座は決められた星が、決められた場所で輝くこそ成り立つもの。
確信をつくにはまだ早い。
そう諦めて、脳内を煮詰めていた火を止めると、手伝うかのように水を差してきた男性の声が、ザックの耳を通り抜ける。
「でん……ザックさん。どうかしましたか?」
「ああ、呆けてすまない。昨晩から考え事をしていてね。どうにも頭から離れないんだ」
そう言って、お手上げだとばかりに天井を見上げたザックは、自分が今、どこにいるのかを改めて認識した。
正午にも届かない時間帯がゆえに、人がまばらにしかいないティールーム。
室内は空席が目立つも、その隙間を外から聞こえる街の声が駆けていく。
朝と昼の合間のこの時間。
ゆったりとした静かな雰囲気の中、アンナを連れたザックは、ここでとある人物と接触を図っていた。
「心配するほどじゃないよ、サディアス」
「いえ、それは無理な相談です。貴方は以前から不摂生が多いですから。また徹夜で調べものとかでしょう?」
「外れだよ。この子のことを考えていたんだ」
ミルクと砂糖をたっぷりといれた、ブレックファスト。
それを片手に、ちまちまと焼き菓子を口にしているアンナへ、ザックと同席している男性が目を向ける。
サディアス──そう呼ばれた彼は、若いながらも落ち着きのある外見をしており、ひとたび雑踏の中へ足を運べば、たちまち見失ってしまう。
そんな凡庸を絵に描いたような男性で、黒い少女へ向ける目も、小動物を見るような穏やかさが塗られていた。
しかしそれは、アンナの容姿から来た反応。
ザックの言葉を反芻し、胃へ収めたとき、瞳に宿ったものは警戒で染めた剣のそれ。
「愚考であれば、申し訳ありません。このアンナ嬢と二人でいるのは、ザックさんの身が危ういのでは」
「何を言うかと思えば。それなら僕たちといるキミが、一番危うい状況ということになるけれど。そこはどう思う」
「見解の相違です。ザックさんはどちらであれど、無意味に私へ手を出すことはありません。その信頼があります。しかし……」
「アンナには良くも悪くも、何もないか。サディアス、キミの言うことはもっともだ」
参ったと白旗の代わりに、ストレートの紅茶が淹れられたカップをザックは持ち上げる。
ならどうして。そう口には出さずも目と空気で語るサディアスに、今まで大人しくお茶を楽しんでいたアンナが、静かに切りこみを入れた。
「レイラがついて行けって。アイザックの代わりになるかもとか言ってた」
「ひ……あの方がですか。いえ、ですがしかし。お付きが一人もいないというのは……」
姫、そう言いかけたサディアスは、慌てて口をつぐんで首を振る。
気持ちを落ち着かせ、改めて並べられていく彼の言葉は、アンナにではなくザックへ量が傾いていく。
サディアスは黒の少女が怪物と察するも、それはアイザックがいるため深くは追及しない。
ならそれを差し引いて考え直すが、今度は正体の知れない少女を連れた二人旅だ。
本来ならばザックは、外出の際に護衛をつけるべき立場。
しかし危険な存在との接触を踏まえて、部下の身を守るための苦肉の策であるとするならば、あえて触れることはしない。
では仮に、外見通りの無害な子だと譲歩しよう。
そこから先に残るのは、一人の婦女子をザックがエスコートできるのかという、別の話になってしまう。
どう転んでも不安だ。
そう全身で告げるサディアスから、ザックは顔をそらしてしまう。
「今からでも、誰かをお呼びした方が良いのでは」
「それよりもだ、サディアス。キミが姉さんに送った手紙、内容は承知したが、もう少し詳しく話を聞きたい」
護衛をつけない王子、怪しい風体で少女を連れる男性。
どちらを選んでも分が悪いザックは、サディアスからの追求が始まる前に、本題へ移るよう彼の言葉を遮っていく。
ザックの姉、レイラ王女の下へ届いた、長寿の錬金術師の噂。
その詳細を聞くべく、手紙を書いた本人を呼び出したんだと、冷や汗を隠しながらザックは続けた。
「この二年間、その人物を見続けたキミの所見をね」
──王国王女レイラ・ドナ・シャーロット麾下、超常現象調査局所属サディアス・テイラー調査員。
一市民ではなく、彼が持つ本来の役職を語尾にふくめたザックは、笑みを忘れることなく真っ直ぐに男性を見つめる。
風体がそこらにいる優しい男性でも、それはあくまで演技の内。
王族直下としての仕事に戻ろうか。
そう語りかけるザックに、自身の前にあるティーカップへ視線を落とし、一口喉をうるおしたサディアスは応えていく。
「彼は……男爵閣下は、できたお人でした」
言葉を探し、ようやく口に出すことができた声音は、複雑な様相をていしていた。
「この町の住人はみな、閣下を慕っています。私もその一人です。というよりも、彼を好かない人間は、この町に居座ることができない」
すがる手を払わず、知恵を貸し、あまつさえ事の終わりまで見届けてくれる。
他人を思い続ける人物であるから、人が集まるのは当然の摂理。
そして彼を好いているからこそ、悪しき感情を持ったよそ者は追い出されていく。
そう続けるサディアスの口は止まらなかった。
「閣下とお会いになられるのなら、この住所へ。私の紹介であれば、怪しまれることは少ないでしょう。──それとこちらも」
「辞表かい? どうしてまた」
サディアスのいう、男爵のいる場所が書かれたメモとは別に、改まった封筒が一枚。
沈痛な面持ちでテーブル上に出した彼だが、意図をうまく汲み取れず、ザックは首を傾げてしまう。
青年が聞いたのは、あくまでも噂の人物に対するサディアスの印象。
話を聞いている限りでは、とても怪物的な要素を見出せず、善人の鏡のような人としか思えない。
だからこそ受け取る理由がないとザックは断るも、男性は重ねるように首を振った。
「先ほども言いましたが、私も彼に会ってから、この町の住人になってしまったんです。もう姫の下では働けません。これが以前の私がこなす最後の仕事。そう思ってください」
「この町にいたいから、これで最後にしたい、か」
「既に遅いかもしれませんがね」
サディアスは町民として溶けこんだものの、ザックとアンナは違う。
いってしまえば怪しい動きをするよそ者であり、そんな二人に男爵の居場所を教える彼の立場は、相当にまずいものだろう。
追い出される者の扱いがどうなるかは、いくつか想像できる。
陰湿な嫌がらせならば上々。袋叩きや、最悪は命を落とすことだって否定できない。
「分かった、僕は受け取ろう。姉さんがどうするかは、考えもつかないけれど」
「ありがとうございます」
「しかし、それなら仕事はどうするんだい?」
「実は先月、結婚したんです。妻の実家が服屋でして、義父から配達などの力仕事を手伝って欲しいと、前々から……」
町への溶けこみ具合を表す報告に、驚きすぎて一度は固まってしまうも、ザックはどうにか笑って祝う意思を伝えた。
間者などの特命を帯びた者たちは、ときに地元民との婚姻まで利用する。
それを頭では理解していても、いざ直面すると反応に困ってしまうザックの隣で、アンナは熟考を重ねていく。
深い紫の瞳が捉えるのは、仕事の都合上遅くなった、姉の部下への言祝ぎを伝える青年。
考えに考えて、口の中のクッキーが完全に喉を通ったとき、少女はキョトンとしながら口を開いた。
「そういえば、ザックにはいないの? 恋人」
王侯貴族の通例として、婚約者を抱える人物は多数いる。
ましてや、ザックに限れば国の王子。許嫁はもちろん、含みの有無は置いて言い寄る異性が多くても不思議ではない。
破綻はしているが、姉のレイラも例に漏れず婚約者はいた。
ならザックはと考えるのは自然であり、現にアンナは、青年の周りに親しそうな異性の影を見たことがない。
そんな問いに対して、とうの本人の答えは、色よいものではなかった。
「いないよ。継承権の序列も低いし、僕は人を覚えるのが苦手だからね」
政治的価値も薄く、人付き合いも苦手。
その上、アイザックという怪物を抱えている青年は、人が遠ざかるには充分すぎる。
そう自嘲するザックだったが、アンナは意に介さず、淡々と記憶をなぞって声に出していく。
「レイラはわたしを婚約者にしたら、って言ってた」
それはアイザックがくだらないと切って捨てた、レイラの提案。
本気か冗談か分からないものの、そんなことを言っていたと告げるアンナは、放った言葉をそのままに。
しかし唐突な告白に対して男性二人ができたのは、むせて咳きこむ、ただそれだけ。
受け取り咀嚼し投げ返す。
それすらもままならない状態になったザックとサディアスを、そうなった原因である少女は何をしているのだろうと、冷たい視線を送るのだった。




