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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第一幕 無明の星
25/84

25.The Altruism Lord(2)

 既に日は傾き、大人たちが棚から酒類を取り出す時間帯。


 二人で一部屋。

 兄妹として町の宿に泊まるザックとアンナだったが、両者ともに精根尽き果てた姿となっていた。


 原因はもちろん、妹として振る舞うアンナの好奇心。

 常にザックの手を握り、連れ回すのは目についた街並みの端から端。

 街中を走る蒸気バスを利用するも、少女は気の向くままに降車するため、距離もさながら青年の懐も羽が生えていた。


 まばゆい光を目に灯すアンナは、菓子類の店舗の前を通ればショーウィンドウに張りつき。

 アパレルショップやブティックは、一度目は向けるも通りすぎ、しかし後ろ髪を引かれて踵を返すと、視線をザックと扉の両方に行き来させる。

 玩具店──特にネコを模したぬいぐるみを売る店は食いつきがよく。屋敷にいるプリムラと似ているといって、商品を抱きしめはしなかったが、代わりにザックの服の裾を掴んでいた。


 東奔西走(とうほんせいそう)

 ザックが休息を許されたのは宿についてからであり、備えつけの椅子に一人腰かける彼は、とても深い息をはき出していく。


「……疲れた。その上、予定が全部めちゃくちゃだ」


 あくまでこの町に来たのは、錬金術師とやらが実在するかどうかを確かめるため。

 一から十まで仕事であり、ザックが組んでいた日程も、調査を念頭に置いていた。


 しかし計画には、余裕を設けるのが常識的な考え。

 いわば隙間となる時間であり、そこをザックは観光にあてるつもりだった。


「まあ、でも。これで良かったのかな。彼は不機嫌になるだろうけど」


 行動は速やかに。そう心がけているアイザックを思いながら、目の前の光景にザックは思わず笑みをこぼしてしまう。


 夕食と入浴を済ませ、あとは就寝をいつにするかという(よい)の時間。

 ワンピース型のルームウェアを着たアンナは、二台あるベッドの片方へ早々に入り、静かな寝息を立てている。


 そんな彼女の寝顔は、平坦な感情を描く日中とは違い、穏やかで自然な笑みを浮かべていた。

 澄んだ夜空に浮かぶ満月を女性として描くのなら、きっとこうなるだろう。


「友だちはいても、今日みたいに遊んで食べて、ぐっすり寝て。そんな日々を今まで送れなかったんだ。──いいさ、一日くらい。キミが見たい夢なら尚更ね」


 流れる風景が見られる列車旅。

 着ている(あか)抜けた衣服はレイラが寄越した物で、隣には無茶振りに応えてくれるザックがいる。


 一日で多くのものを目にした。

 ミアが語っていたもの、見たいだろうもの、アンナ自身が惹かれたもの。

 それ以外にも、沢山の知らないものを知った。


 だからこそ、アンナはこうして安らぎの温かい色を示している。


「さて、僕は一杯だけ飲もうかな」


 熟睡している少女を起こさぬよう、座る椅子のきしみすら注意して立ち上がるザックは、無音のまま退室を図る。


 青年が目指すのは、宿の中にある小さなパブ。

 疲れた体にエールを一杯。一日の締めに最高のもてなしをと、嬉々として財布を握った。


「アンナ?」


 しかし扉へ向けられた足は、背筋をなぞる悪寒によって反転させられる。


 ザックの直感は正しかった。

 振り返った先に見えたのは、艶のある黒髪にわずかな赤い光が差しこみ、表情を歪ませるアンナの姿。


 手にした財布が床に落ちたと同時に、弾かれるザックの足。

 少女が眠るベッドへ駆け寄るも、青年は思わず身を固めてしまう。


「いや、迷ってる場合じゃないだろ。起こして落ち着かせないと」


 兄妹というていは、ただ単に活動をしやすくするため。

 本来は雇い主と従業員に近い関係であり、もっといえば個室のこの空間において、歳が多少離れた男女にすぎない。


 異変があったとはいえ、眠る婦女子の体に触れる。

 それはザックにとって強い抵抗があり、揺さぶり起こすことさえためらってしまう。


「──……ミア、どこにいるの」


 少女の口からこぼれる、友だちの名前。

 小さく細い手は、彼女を探そうと彷徨(さまよ)って、必死に手を握ろうとぎこちない動きを見せる。


 そんな姿を前にして、ザックの思考にかかる霧は消え去った。


「キミの友達の代わりになるなんて、思ってもいない。彼女がそれだけ大切な人だということは、重々承知している。それでも、今は僕がいる」


 片膝をつき、両手を迷子となった少女の手に。

 手折らないようそっと包み、震えはすべて受け止めて、体温伝いに心の色を流していく。


 手を掴み、先へ連れて行ってくれる太陽のような少女は、もういない。

 けれどもここにいるのは、同じ夜空に浮かぶ、もう一つの月の青年。


「僕がいるんだ、アンナ」


 満ち欠けを繰り返す月として、光を失った月の側にいる。

 それでは駄目なのかと、悪夢を見ている少女にザックは問いかけて。


 ギュッと。

 笑みすら捨てた祈りを両手にこめ、僕はここにいると伝えていく。


「……もう、いかないで」


 やわく、そして弱々しく。少女の細い指はザックの手を握り返す。

 それは少女の頬に軌跡を描いた、一筋の流星を受け止めるようだった。


 ザックの祈りが通じたのか、アンナの呼吸は落ち着きを取り戻し、見ているだけでも胸が痛む表情も安らいだ寝顔へ。


 乱れた呼吸も静かなものに。

 そこまで見届けたザックだったが、それでも自身の手を未だ握る少女に、彼は応えたまま。


「夢見が少し悪かったみたいだね。これまでも同じことが起きていたのなら、カナルミアには苦労をかけてばかりだ」


 アンナの身を預かっている屋敷では、日頃の世話は使用人のカナルミアに任せきり。

 彼女は多少過保護な傾向があるも、寝ている少女の容態にまで気を回させていたと考えると、苦労を察して頭が下がってしまう。


 そんな思いを抱いたザックは、考えていた飲酒をきっぱりと断念し、このままでいることにした。


 部下の大変さは知っておくべき。

 これも経験の内だとため息をつきながら、青年は妙な楽しさを感じてかすかに笑う。


 ──合わせて、パチンと小さな火花の散る音がした。


「えっ……?」


 音に引っ張られたザックの視線は、すぐ上へ。

 眠るアンナを挟んで真正面。青年から見てベッドの反対側にいたのは、一個の塊としてまとまった黒い霧。

 物質として存在しているのかすらも怪しく、見えてはいても触れる気がしない黒い霧は、ときおり赤い光を走らせている。


 十秒程度。

 そんなごくわずかな時を過ごした黒い霧は、何をするでもなく、色を失い無色透明の空気に溶けていった。


 一部始終を見ていたザックだが、それを見てはき出せる言葉は口になく。

 胸の奥底に一つだけ、見覚えのある誰かの笑顔が描かれていた。

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