25.The Altruism Lord(2)
既に日は傾き、大人たちが棚から酒類を取り出す時間帯。
二人で一部屋。
兄妹として町の宿に泊まるザックとアンナだったが、両者ともに精根尽き果てた姿となっていた。
原因はもちろん、妹として振る舞うアンナの好奇心。
常にザックの手を握り、連れ回すのは目についた街並みの端から端。
街中を走る蒸気バスを利用するも、少女は気の向くままに降車するため、距離もさながら青年の懐も羽が生えていた。
まばゆい光を目に灯すアンナは、菓子類の店舗の前を通ればショーウィンドウに張りつき。
アパレルショップやブティックは、一度目は向けるも通りすぎ、しかし後ろ髪を引かれて踵を返すと、視線をザックと扉の両方に行き来させる。
玩具店──特にネコを模したぬいぐるみを売る店は食いつきがよく。屋敷にいるプリムラと似ているといって、商品を抱きしめはしなかったが、代わりにザックの服の裾を掴んでいた。
東奔西走。
ザックが休息を許されたのは宿についてからであり、備えつけの椅子に一人腰かける彼は、とても深い息をはき出していく。
「……疲れた。その上、予定が全部めちゃくちゃだ」
あくまでこの町に来たのは、錬金術師とやらが実在するかどうかを確かめるため。
一から十まで仕事であり、ザックが組んでいた日程も、調査を念頭に置いていた。
しかし計画には、余裕を設けるのが常識的な考え。
いわば隙間となる時間であり、そこをザックは観光にあてるつもりだった。
「まあ、でも。これで良かったのかな。彼は不機嫌になるだろうけど」
行動は速やかに。そう心がけているアイザックを思いながら、目の前の光景にザックは思わず笑みをこぼしてしまう。
夕食と入浴を済ませ、あとは就寝をいつにするかという宵の時間。
ワンピース型のルームウェアを着たアンナは、二台あるベッドの片方へ早々に入り、静かな寝息を立てている。
そんな彼女の寝顔は、平坦な感情を描く日中とは違い、穏やかで自然な笑みを浮かべていた。
澄んだ夜空に浮かぶ満月を女性として描くのなら、きっとこうなるだろう。
「友だちはいても、今日みたいに遊んで食べて、ぐっすり寝て。そんな日々を今まで送れなかったんだ。──いいさ、一日くらい。キミが見たい夢なら尚更ね」
流れる風景が見られる列車旅。
着ている垢抜けた衣服はレイラが寄越した物で、隣には無茶振りに応えてくれるザックがいる。
一日で多くのものを目にした。
ミアが語っていたもの、見たいだろうもの、アンナ自身が惹かれたもの。
それ以外にも、沢山の知らないものを知った。
だからこそ、アンナはこうして安らぎの温かい色を示している。
「さて、僕は一杯だけ飲もうかな」
熟睡している少女を起こさぬよう、座る椅子のきしみすら注意して立ち上がるザックは、無音のまま退室を図る。
青年が目指すのは、宿の中にある小さなパブ。
疲れた体にエールを一杯。一日の締めに最高のもてなしをと、嬉々として財布を握った。
「アンナ?」
しかし扉へ向けられた足は、背筋をなぞる悪寒によって反転させられる。
ザックの直感は正しかった。
振り返った先に見えたのは、艶のある黒髪にわずかな赤い光が差しこみ、表情を歪ませるアンナの姿。
手にした財布が床に落ちたと同時に、弾かれるザックの足。
少女が眠るベッドへ駆け寄るも、青年は思わず身を固めてしまう。
「いや、迷ってる場合じゃないだろ。起こして落ち着かせないと」
兄妹というていは、ただ単に活動をしやすくするため。
本来は雇い主と従業員に近い関係であり、もっといえば個室のこの空間において、歳が多少離れた男女にすぎない。
異変があったとはいえ、眠る婦女子の体に触れる。
それはザックにとって強い抵抗があり、揺さぶり起こすことさえためらってしまう。
「──……ミア、どこにいるの」
少女の口からこぼれる、友だちの名前。
小さく細い手は、彼女を探そうと彷徨って、必死に手を握ろうとぎこちない動きを見せる。
そんな姿を前にして、ザックの思考にかかる霧は消え去った。
「キミの友達の代わりになるなんて、思ってもいない。彼女がそれだけ大切な人だということは、重々承知している。それでも、今は僕がいる」
片膝をつき、両手を迷子となった少女の手に。
手折らないようそっと包み、震えはすべて受け止めて、体温伝いに心の色を流していく。
手を掴み、先へ連れて行ってくれる太陽のような少女は、もういない。
けれどもここにいるのは、同じ夜空に浮かぶ、もう一つの月の青年。
「僕がいるんだ、アンナ」
満ち欠けを繰り返す月として、光を失った月の側にいる。
それでは駄目なのかと、悪夢を見ている少女にザックは問いかけて。
ギュッと。
笑みすら捨てた祈りを両手にこめ、僕はここにいると伝えていく。
「……もう、いかないで」
やわく、そして弱々しく。少女の細い指はザックの手を握り返す。
それは少女の頬に軌跡を描いた、一筋の流星を受け止めるようだった。
ザックの祈りが通じたのか、アンナの呼吸は落ち着きを取り戻し、見ているだけでも胸が痛む表情も安らいだ寝顔へ。
乱れた呼吸も静かなものに。
そこまで見届けたザックだったが、それでも自身の手を未だ握る少女に、彼は応えたまま。
「夢見が少し悪かったみたいだね。これまでも同じことが起きていたのなら、カナルミアには苦労をかけてばかりだ」
アンナの身を預かっている屋敷では、日頃の世話は使用人のカナルミアに任せきり。
彼女は多少過保護な傾向があるも、寝ている少女の容態にまで気を回させていたと考えると、苦労を察して頭が下がってしまう。
そんな思いを抱いたザックは、考えていた飲酒をきっぱりと断念し、このままでいることにした。
部下の大変さは知っておくべき。
これも経験の内だとため息をつきながら、青年は妙な楽しさを感じてかすかに笑う。
──合わせて、パチンと小さな火花の散る音がした。
「えっ……?」
音に引っ張られたザックの視線は、すぐ上へ。
眠るアンナを挟んで真正面。青年から見てベッドの反対側にいたのは、一個の塊としてまとまった黒い霧。
物質として存在しているのかすらも怪しく、見えてはいても触れる気がしない黒い霧は、ときおり赤い光を走らせている。
十秒程度。
そんなごくわずかな時を過ごした黒い霧は、何をするでもなく、色を失い無色透明の空気に溶けていった。
一部始終を見ていたザックだが、それを見てはき出せる言葉は口になく。
胸の奥底に一つだけ、見覚えのある誰かの笑顔が描かれていた。




