18.a happiness without a cat(9)
アンナの深い紫の目と重なるのは、芯の強さを感じさせるヘイゼルの瞳。
ゆっくりと瞬きをし、突き合わせた鼻を離したネコは、その足で少女の体をぐるりと回る。
火のゆらぎに似たものをこぼす尻尾を立て、回りながら行うのは、自身の体のこすりつけ。
何かを催促しているのか、それとも自分の物だと主張しているのか。
見方によっては、今にも倒れるアンナを支えようとしている風にもとれる。
そんな行動を、すぐ側にいるザックは感じとれもせず。
遠くから見ていたスタンリーは、赤い目を細めて、焦る気持ちに静けさを取り戻した。
「そうか。気に入ったのだな、その少女を」
そう問いかけるスタンリーを、幽霊のネコ──プリムラはジッと見つめ返す。
鳴きもせず、肯定も否定もしない。
元の飼い主であるスタンリーに対して、意図の読めない振る舞いをみせるプリムラだったが、答えとばかりにフンと鼻を鳴らした。
カチャリとささやく、開かずの扉。
間髪入れずに開け放たれた扉は、二つの人影とともに後光に近しい明かりを、書庫の中へ供給していく。
「殿下、アンナ。ご無事ですか!」
「早まるな、ブリジット。先の二の舞は望むところではない」
居ても立っても居られず、暗闇を照らす光を追って入室しようとしたカナルミアを、ラルストンは肩を掴んで引き留める。
彼らからすれば同じ手口の罠。
ザックとアンナという最高の餌も用意され、飛びこまない理由を探す方が難しい。
どちらかが入れば、また扉は閉じられる。
そんな危機感を一番にもつラルストンへ、光で照らされたザックが声をかけた。
「ラルストン、良いんだ。その手を離してやってくれ。それよりも早く、アンナを安静にできる場所へ」
「……いえ、しかし。お言葉ですが殿下。私にはその場所が安全だとは、到底思うことが叶いません」
「ここに入ったら、また閉じられるって? それはきっと平気さ」
主はなにを言っているのか。
そう眉をひそめるラルストンの隙をついて、カナルミアは自分の体を押さえる手を払い、一目散に書庫の中の二人へ駆け寄った。
ザックには外見上何もない。しかしアンナは、容態を診るまでもなく体調を崩している。
青白くなった顔に、青年に支えられ、力なく横になりかけた体。
赤い発光が見られる髪も気になる点だが、カナルミアはそれを構わなかった。
「殿下、アンナをお預かりいたします」
「分かった。意識はまだある。気をつけて運んでくれ」
「お任せください。──私の声、聞こえる? もう大丈夫だからね」
慣れた手つきでザックからアンナの身を預かり、少女の軽い体を抱きかかえてカナルミアは立ち上がった。
そのまま下手なゆれを与えないよう、慎重かつ大急ぎで足を進める彼女は、何ということもなく書庫を後にする。
ザックのいう通り、罠ではなかった。
そう認めたラルストンだが、理解と納得を超えた不安が心に重くのしかかる。
カナルミアは問題なかったが、自分は果たしてそうなのか。
もしも自分だけは許されないとしたら、この扉の先へ踏み入れた瞬間に八つ裂きにされるのでは。
仮定も仮定。妄想にすら達する想像。
そのネガティブなイメージを捨てられなかった彼は、冷や汗とともに上げた足を落とした。
「何も起きない……」
「めげることはないさ。僕だって今のキミの立場なら、同じことを思うしやっていた」
「お気遣いは無用です。それよりも、何があったのですか。初めに扉を開けた際と、変わらないように見受けられますが」
一歩踏み出すことで、心の重石は砕け散った。
足を動かすたびに調子は戻り、強張った顔にも余裕が生まれてきたラルストンは、薄暗い書庫の中へ進入していく。
外からの光景と変わらない、陰鬱な本の山。
その中心にいるザックを、手放しで似合っていると思ったラルストンだったが口にはしない。
魔術に傾倒した元の所有者が没した場所。
そこがお似合いだと告げるのは、例え関わりのない他人だとしても侮辱に値する。
「彼を見てもそう言えるかい、ラルストン」
そんな本音を別として、今まで開かなかった書庫への関心を散らばすラルストンだったが、ザックの指差す方向へ目を向けた途端、驚きに勝る拒否感が彼の頭を貫いた。
書庫の奥。作業するビューローの席に座るのは、人とは到底思えない炭の塊。
赤い亀裂を走らせる人型の黒は、放心するラルストンに向けて、落ち着いた態度で接していく。
「初めまして、新たな客人。うちのネコが大いに迷惑をかけたようだ。飼い主としてここに謝罪を。とはいえ、詫びの印は用意できないがね」
「これはいったい、何がどうなっているのです」
「失礼、スタンリー卿。彼はあまり許容が広くない。貴方の姿は刺激が強すぎたようだ」
「構わぬよ、ザック殿。私自身、違和感を覚えぬことに驚いたままだ」
魔術をかじった端くれとして、もっと狂喜に満ちても良かろう。
そう心境を吐露するスタンリーの表情は、自嘲の一色に染まっていた。
あれだけ求めていた魔術──世界から外れた理、その一部となれたのだから、夜が明けても語り切れぬ喜びが内で踊り続ける。
そんな常春の気分はスタンリーにはなく、あるのは黒と赤しか存在しない体と同じ、わずかばかりの感情。
「して、私はどれだけここに居られるのだろうか」
「おそらく、もう時間はありません。アンナの意識次第だと僕は考えています」
「だろうな。私の体と少女の髪、そこに関連性を見出せぬ者は、余程太陽を目にしているのだろう」
受け入れがたい事実を前にしたラルストンを置いて、ザックとスタンリーは話を続けていく。
もう時間はないと結論付けた両者だったが、次の行動に移ろうにも、彼らはお互いに歩み寄れない。
そうするには、時間があまりにもなさすぎる。
一つか二つ、言葉だけの要件を済ませることしかできないと想定する彼らは、自然と笑みをこぼし合った。
「口惜しい。話せる御仁と会えたというのに、一刻も持たぬ体とは」
「僕もです、スタンリー卿。貴方であれば、僕が追い求める物の相談も成せると思えたのですが」
「それはそれは。光栄な話だ、殿下」
時計の秒針を刻むように。
黒い体に亀裂を増やしながら、口の滑りを良くするスタンリーだったが、ふと口走った単語に自分でも驚きを隠せなかった。
たった一言で思い出される記憶の欠片。
最期に魅せる大火の勢いか。生前ですら知り得なかった記憶も流れるスタンリーは、胸中の火をたぎらせていく。
「フッ、こんなことすら思い出すとは。本当の死の間際には、何も思い返せなかったというのに」
自分の灯火が消えた瞬間、一心不乱に書籍へかじりつく夜道、別れを惜しむ背中を見せてくれた部下たち。
炎が弱まるほど遡る記憶の回廊。目の光すら明滅しかけたところで、スタンリーはそれを見た。
病床に伏せる妻と、その傍らで丸くなったプリムラ。
そんないつも目にしていた光景で、知らない言葉が紡がれる。
「──この家、気にいった? あなたがずっとここに居てくれるのなら安心ね。かなり寂しがり屋なのよ、あの人」
元より体が弱く、先に旅立ってしまった最愛の妻。
彼女のこの言葉があったから、飼い猫のプリムラは幽霊となってもここにいたのだろう。
愛した彼女の頼みだから、愛されていた番の場所を守っていた。
そう納得したスタンリーは、だからこそまだ未練はあると瞳に火を灯す。
二度とない奇跡の時間。もう言い残すのは嫌だともがく彼が顔を上げると、それは鳴くことなく待っていた。
「プーリィ、まだ居てくれたのか。何、気にするな。次の飼い主を見つけたのなら、好きにするがいい。お前はもう自由だ」
動かなくなった足に体を一擦り。
それがプリムラの答えであり、その足で書庫の外を目指す背中は、寂しさを感じさせない。
「言われずともか。心配のし甲斐がない奴だ」
瞳に宿る赤い星は消え、全身に走る流星も燃え尽きた。
一人の黒い煤の塊となったスタンリーは、暗い書庫の奥で椅子に背を預ける。
曇る空と同じ天井を見上げ、そっと目を閉じて。
彼はポツリと声を放つ。
「この奇跡を以てしても、貴女にはもう何も告げられない。残酷な罰だ」
蘇った訳ではない。記憶と想いを継ぎ接ぎした、単なる煤。
だから私は、貴女にこれを伝えられないのだなと、最後の力を振り絞って打ち上げる。
「アネモネ、いつまでも愛しているよ」
その言葉を最期にスタンリーだった黒の怪物は、ザックとラルストンの目の前で物言わぬ煤と成り果てた。




