15.a happiness without a cat(6)
開かれた扉の先にあったのは、目にするだけで陰気がうつる暗闇。
わずかに入った通路の明かりが示すのは、立ち並ぶ棚の影だけ。
何も起きない。
それどころか今まで不動だった扉は、いとも簡単に開いてしまった。
三人の言っていたことは事実だったのか、疑問とともに表情を無にするアンナ。
しかし明らかな不安を示していた件の三人は、驚愕以外の感情を顔に描けなかった。
「あちらの殿下は、これを想定していたのでしょうか」
「どうだろうね。僕は何も起きたいと思っていたよ。予想も予定も、全部台無しさ」
これまでの試行と変わらず、結果は同じ。
例え全容は不明だが異常を抱えるアンナだろうと、扉が開くきっかけは持たないはず。
なので殺傷の類から助けるため、ラルストンはいつでも動ける準備をと待機していた。
そのはずだったが、背筋を伸ばして変化が起きないことを祈っていた主従は、目の前の扉と同様、開いた口がふさがらない。
対して控えていたカナルミアは、二人に構わず駆けだした。
これがどうしたのと振り向くアンナに、彼女は抱きしめる強さで心境を吐露していく。
「よかった、アンナ……! 平気? どこも痛くない?」
「別に。ねえ、ザック。開いたけど、どうするの」
カナルミアの抱擁に、アンナは驚きつつも抵抗はしなかった。
鍵を外しても扉が開かない。
その現場を実際には見ていない少女は、今のカナルミアの心配の仕方に釈然としない思いがあった。
だが自身に向けられる温かいものは、過去を事実だと訴えかけ。
そして、まだ出会って間もない少女に向ける感情も、本物だと示していた。
「折角だから入ってみようか」
「殿下、それはいささか早計が過ぎます。この状態を維持し、後日──早くとも明日にするべきかと」
「その方が調査に回せる人も多い、か。一理あるが、悠長に構えていられるかな。今まで頑なに開かなかったんだ。明日には気分が変わっている、なんてこともあるだろう」
「その仰られようでは、アンナ嬢以外はあの場には立ち入れない。とも考えられますが」
扉一つ、部屋一つ。
どれが起点となって人々を拒絶していたのか定かではなく、要因もいまなお不明のまま。
再びその現象が起きるのは、いつか。
今か、それとも明日か。もしくは閉じる日は来ないのか。
進む理由として、仮定に仮定を重ねるザックの言い回しに、流石のラルストンも難を示す。
しかし是が非でも止めに入らないのは、彼もまた仮定から先の結論を導き出せないから。
何も起きない、何か起きるかもしれない。
平行線を描き続ける主従の意見に、淡々とした一言が割ってはいった。
「じゃあ先に行くね、ザック」
「アンナ、待ちなさい。行ってはダメ」
他三人の心情なんか考えもしない。
猫を思わせるマイペースさ。そんなアンナは、スルリと暗い書庫の中へ足を運ぼうとするも、カナルミアがそれを許さなかった。
少女への抱擁をさらに固くし、くつずりの先から遠ざけて。
それでも身をよじって逃れようとするアンナに、彼女は思いを重ねていく。
「殿下の指示は扉を開けるだけ。だから貴女が、これ以上なにかをする必要はないの」
「……そうなの?」
カナルミアの思いが伝わったのか、それともただの確認なのか。
小首を傾げながら振り向き、止めに入る彼女の上司にアンナは問いかける。
二者択一。ハイかイイエのどちらを選ぶか、女性二人に迫られるザックが出したのは、にこやかな作り笑いからは遠い答えだった。
「確かに、僕は扉を開けて欲しい。それしか指示は出していない。でも──」
ラルストンとの協議は打ち切られた。
ゆっくりと歩みを進める主の背に、彼が向けるのは頭痛からくる落胆とため息。
殿下がそこまで仰るのならと、自身の意見を折ったラルストンへ、ザックは軽く手を振りながら感謝を伝える。
そのまま進退を拮抗させている二人の下へ着いた彼は、暗い書庫を前に気圧されることなく、少女の隣に立ち並んだ。
「開けた後はどうするか。その指示は今からだよ、カナルミア」
「私は……反対です、殿下。貴方様も、アンナも。どちらも行くべきではありません」
「逆さ。僕とアンナ、いや彼とアンナ以外にここは任せられない。そうだろう?」
人外の力を振るえるアイザックと、焼失した町にいた未知数のアンナ。
この二人だからこそ、未知なる書庫を調べることができる。
不安を拭いきれない使用人たちに、ザックは自信をもってそう示すも、やはり同意は得られない。
何も分からないからこそ、慎重になるのが常識的で。
無策に思える行動をするザックとアンナは、外れている側。
そのためか、少女が続けた言葉はやはり異質なものだった。
「この部屋は平気。ただ本があるだけ。私がいた町より、怖くない」
だから離して。
そうアンナから告げられたカナルミアは、徐々に腕の力を緩めていく。
緑の瞳に映る、深い闇のような少女の紫の目。
その目から連想されるのは、冷たく濡れた赤い宝石の瞳。
彼に似ている。そう思った瞬間、カナルミアの中にいた少女が遠ざかっていく。
ここまで実感してこなかった、少女が怪物だという事実。
それを見知った目の色で認めたカナルミアは、手を離す間際、ポツリと言葉を残すのだった。
「それでも、私は行って欲しくない」
「諦めろ、ブリジット。今の我々に止める術はない」
離れた手は、まだ名残りを求めさまよって。
感情も行き場を失ったカナルミアに、渋さを表情に残しながら、ラルストンは声をかけていく。
彼女の心中は察する。が、使用人の役目は果たさなければならない。
私心を隅に置いたラルストンが取ったのは、未知へ挑む二人への礼だった。
「これ以上は引き留めません。どうか、お二人とも。ご無事で」
「大げさだな、ラルストン。我が家の書庫に入る、ただそれだけだよ」
最後は主命のままに。
主を立てて見送る使用人を背にして、二人は書庫へ足を進める。
自然とそろうアンナとザックの足並み。
しかし一歩だけ前に出ていた青年に、少女は何の気なしに手を伸ばした。
その手は空いた彼の片腕へ。
スッと腕を絡め、相手の歩みを遅らせるアンナに、ザックは捉えどころのない表情を口元に作って少女へ向けた。
「暗いのは苦手かい?」
「……別に」
アンナの声に含まれていたのは、異常を前にしたときの薄らいだものではなかった。
それは誰もがよく知っている、名前のある感情。
顔はそのまま。しかし声音の変化があった少女に、ザックは変わらずの調子で続けていく。
「なら、王国紳士としてエスコートさせていただくよ。お嬢さん」
二人の全身が書庫の暗闇に染まり、通路の明かりが遠ざかる。
頼れるのはわずかな視界と、触れ合った互いの手と腕だけ。
物音すら減っていく空間で、アンナの手の力は気持ちばかり強まった。




