72.馬と熊が攻めてきたので、黒焦げにして良いですか?
「こんにちは」
「……あら、珍しいわね、午前中になんて」
「ええ、色々ありまして。
……その、……相談に乗ってもらいたい事がありまして」
リズドの街の書店を経営するライラさんは、私の言葉に一瞬だけ眉を顰める。
私がシンフェリア領を出て、まず向かったのがリズドの街周辺の山奥の狩場。
とにかく先立つ物がなければ話にならない。
それなりに溜めてはいるけど、これから寒い冬になる以上、狩猟は当分お預けになってしまうため、本当に今季最後のつもりで狩ってきた。
成果の程は、この時期にしてはかなりとだけ。
そしてその後、換金してから此処に訪れたのだけど。
「貴女からだなんて珍しいわね。
いいわ、奥で話しましょうか」
「え、お店は?」
「実は今日は休業日なの」
どう見ても嘘だけど、ライラさんは大人の笑みでもって私を店の奥へと迎え入れ、そそくさと店の入口の看板を閉店中の物に入替え、扉を施錠する。
そしてお茶を煎れるから寛いどいてと言われて、案内された部屋は……まぁ彼女の個人スペースと言うか居間なのだけど。……うん、掃除したい。
「散らかっていて、ごめんね。
吃驚したでしょ」
「……はははっ…いえ、これくらいなら」
「顔に出ているわよ、だらしないって」
「いえ、そこまでは」
「まぁ、今はちょっとドタバタしていてね」
「えーと、そんな時に良かったんですか?」
辺りを見渡すけど、うん何か手紙が多い。
大量の本に埋もれている部屋の中でも、手紙の束が彼方此方に。
「別に良いわよいいわよ。
普段化粧をしない子が、如何にも何かを隠そうと化粧をされてたら、話を聞かない訳にはいかないでしょうが」
「……やっぱり、分かっちゃいますか?」
「ん……、まぁ貴女より長く生きているからね」
昨夜、お湯にふやけてまでした努力は無駄だったようで、しっかりと翌朝腫れていた目の下を化粧で隠してたのだけど、見破られてしまったようです。
「……実は、家を出てしまいまして」
「……一応は確認するけど、そう言う意味の出るよね?」
ライラさんの言葉に、ゆっくりと私は肯く。
特権階級である貴族が、家を出ると言うには深い意味がある。
普通に結婚や士官のために家を出ると言う意味合いもあるけど、……今、示しているのは絶縁であり、家の関与する関係者から一切の支援や力を借りる事ができなくなる。
「まさか本の件が家にバレてとか?」
「いえ、そちらは全然関係ないですし、落ち着いたら続きも書けます」
「そう、良くはないけど、書店の主人としては良かったとだけは言えるわ。
それじゃあ、……例のお家騒動の件が再発?」
そう言えば、以前にそう言う事が話に出た事があったっけ。
首を振ってから、簡単に経緯を少しづつ話す。
「……それ、本当の話?」
「……ええ、残念ながら」
「はぁ……、あり得なさ過ぎっ!
婚約なら分かるけど、結婚っ!?
しかもこんな小さな子に?
あり得ないわよ、そいつの存在が!」
はははっ、流石はライラさんです、相手の存在ごと否定しましたよ。
私もその意見には同意ですが。
「ですが、貴族同士ならあり得ない話ではないかと」
「ちなみに、そいつの事は知っているの?
まぁ貴族だと、結婚式に初めて相手を見ると言う事も、珍しくはないと聞くけど」
「以前にお姉様の結婚式で一度だけ」
「ふーん、どんな奴だったの?」
正直、覚えていなかったけど、お父様の言葉で少しだけ思い出した。
と言うか記憶から消していた。
だって、あの人いきなり人の手の甲にキスしてきましたからね。
ええ、手袋越しでも気持ち悪くて鳥肌物でしたよ。
一応、貴族の男性の嗜みの一つという事で学んでいたので、右手を振るわずにすみましたけど、反射的に身体強化の魔法を掛けてしまった程です。
確か、手の甲へのキス以外では、比較的爽やかなイメージではあったけど、特徴的だったのが、熊かと思えるほどの筋肉質な体格で、確かアルフィーお兄様ぐらいだったから、多分二十代半ば近くだと思う。
「……年の差婚にしたって、普通は貴女ぐらいの歳の子を選ばないわよ。
しかも面識があってと言う事は、確信犯以外の何者でもないし。
それで、家としては断れないから、仕方なく家を出たと言う訳か。
……貴女にこう言ったら悪いけど、貴女の家もおかしくない?」
「いえ、お父様も苦渋の決断だったと思います。
それに私の背中を押してくれたのも、お父様ですから」
「……そう、貴女がそう言うならそうなのね。
悪かったわ、貴女の家の事を悪く言ってしまって」
「家には、むしろ私が家を出た事で迷惑を掛けてしまっているでしょうから、申し訳なくて」
「……小母さんも愚痴を言っていたけど、貴族って本当に大変なのね。
そう言う事なら力になるけど、こう言ったらなんだけど、貴女は家を出て正解よ。
少なくともそんな下衆野郎の所に嫁入りするより、よっぽどね」
ライラさんはそう言ってくれるけど。
実際には家族と親友、そして生活基盤や多くの知り合いを失う上、多くの人に多大な迷惑を掛けてしまう事を天秤に架けなければならないのだけど、たぶん多くの貴族の女性はそんな選択を選ばない。
私の選択など、きっと彼女達からしたら、唯の我が儘にしか映らないと思う。
「だって、そうでなければ。
今頃、その熊みたいな奴に抱かれていた訳でしょ」
ぞぞぞぞぞぞつ!
ライラさんの言葉に血の気が引く。
思い出した! 私があの人を忘れていたと言うか、記憶から消していた理由がっ。
だってあの時、あの人の前があり得ないほど膨らんでいた。
ええ、身長と体格の差のせいで目の前にあるそれは、嫌でも目に入ってしまっていて。
目の前からフェードアウトするなり、必死に記憶からフェードアウトさせたんだった。
無理っ、無理っ、無理っ、無理っ!
ただでさえ男なんて無理なのに、あんな馬、…じゃなくて熊みたいな奴の相手なんて絶対に無理っ!
あんなモノを私に……、無理、体格が違いすぎます。
串刺し刑です、ドラキュラです、間違いなく死んでしまいますっ!
そもそも、そんな事態になる事すら無理です!
「ちょっと、大丈夫! 顔、真っ青よ。
……こんな震えて。 ゆうちゃん! 返事して!」
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
「……すみません、……ちょっと取り乱しちゃって」
「……いや、私が悪かったわ」
正直、トラウマものです。
タイガーホースです。
速攻で忘れたいです。
まだ怖気で小さく震える体を片手で抱きしめながら、煎れ直してもらった紅茶で少しでも身体を温めようと、ゆっくりと口にしてゆく。
ええ、本気で怖かったです。
前世で男の記憶を持つ私が、唯でさえ男に抱かれるだなんて冗談じゃないと思っているのに、よりにもよって、あんな規格外の馬熊男の相手に想像するぐらいなら、竜種と戦えと言われた方が千倍マシだと言えます!
本番? もっと無理です!
それぐらいなら、神や魔王を敵にした方がマシです!
「じゃあ、これからの話しましょうか。
私の所に来たと言う事は、この街を拠点に生活してゆくつもりなのよね?」
「ええ、最初からそのつもりで、この街に顔を出してましたから」
「ふ〜〜ん、いつかは家を出るつもりではいたんだ。
まあいいわ、ちなみに私に断られたら、どうするつもりだったの?」
本当は、成人後に来るつもりだったから、色々と準備不足になってしまったけど、このリズドの街に新たに居を構えようとしたら、いくつか条件がある。
まずは成人している事。
他にも保証人になる人間がいる事。
この辺りは、親や親戚、知人や雇主とかある程度融通が効くらしい。
他にも税金や諸経費を納められるだけの経済力があるかなど。
それ等が無くても、どこの街にも不法居住者という者はいるので、そこに混じるという手がもない訳ではないけど。
私は子供と言う以前に髪や肌の色など、色々と目立ちすぎるから、心無い人達からは絶好のカモにしかならないと思う。
無論、その時は迎え撃つ気ではあるけど、わざわざ問題が起きると分かっていて、それを選択する程の意味はない。
ただの子供ならともかく、私の場合……。
「たぶん適当に洞穴か廃坑跡・」
「よーく、私のところに来てくれたわ」
言い切る前に、言葉を被せられた上、何故か肩を掴まれ固定されてしまう。
なんと言うか、逃さないと言わんばかりの気迫でもって。
「とりあえず、街に居住するための保証人とかは私がするし、住む所もなんとかするから、それまではウチにいなさい」
「あ、ありがとうございます。
でもいいんですか? 私みたいな、後ろ盾を失った人間を」
「いいのよ、逆に言えば、なんの後腐れもない人間って事でしょ。
それにね、ゆうちゃんみたいな子を放って置けないって言うのもあるけど、ちゃんと私にだって考えがあるのよ」
本当にありがたいばかりの言葉だと思う。
何やら部屋の片隅にある本の山を、さらに別の山に重ね出したところを見ると、おそらくあそこが私の寝る場所になるんだろうなと思いつつも、別に寝るには十分なのでなんら不満はない。
前世で研究所の床の上で仮眠を取っていた事を思えば、よっぽど恵まれている。
「とりあえず此処に机置くから好きに使って、寝る場所は上にお客さん用というか父が泊まりに来た時用の部屋があるから。
そっちは本気で寝るだけのスペースしかなくて申し訳ないけどね」
「いえ、とてもありがたいです。
それに私、身体が小さいですから、大抵は余裕の大きさになってしまうので」
それもそうねと言ってから、何か二階に上がっていったと思ったら、大きな物……、あっ、机を運ぶとか言いていたから。
「あっ、持ちますから」
「わっ! か、軽いと言うか、一人で持てちゃうんだ」
「ええ、魔法の力を借りてですけどね」
「そう言えば、そうだったわね。
あの重い本の束も持ってきてたなら、余裕よね」
どうやら私が魔法を使う事にまだ慣れていないようで、目を丸くされています。
「それで、これを持って来たのは、貴女の作業用って事で」
「何かお手伝いできる事があるんですか?」
「お手伝いと言うか、以前に見せてくれた奴、家を出たなら頼めるわよね?」
ライラさんの言っているのは、魔導具のトレース台の事。
確かに家に気を使う必要はない身とは言え、どうだろうと思う。
すでに硝子細工の事は、商品発表を終えているので問題はないでしょうけど。
その依頼を受けるには、それ以前の問題があって。
「すいません。ちょっと材料を手に入れる当てが。
その……、実家の商会関連の工房なので、今の私からはちょっと」
「そっかー、確かにね。
でもそれなら書籍ギルドから注文させれば問題ないわ」
「いえ、たぶん私からの注文だと気付かれてしまいますから、断られる可能性もありますし、……私の居場所を知られるのも、色々と問題を呼び寄せかねないので」
うん、皆んなに迷惑かけたし、これ以上迷惑を掛ける訳にはいかない。
それに、もし変態熊……失礼、フェルガルド伯爵家が私を探していたら、ライラさんにも迷惑を掛けてしまう。
「そう、分かったわ、とは言わないわよ。
それくらいなら多分なんとかなるわ、書籍ギルドを舐めないでよ。
引き篭もりの巣窟と呼ばれているけど、伊達に独立ギルドをやってないから。
ゆうちゃんは、必要な物とその仕様書だけを書いてくれれば良いわ。
後の事はギルドの方で、なんとかしてもらうから」
はぁ、お世話になるし、そこまで言うのであれば仕方ないと承諾するけど、本当に大丈夫なのだろうか。
「実はね、例のトレース台の事をギルド本部だけでなく、彼方此方の支部にも知られちゃって、嘆願書の雨霰だったのよ。
三年後にこう言う物が頼めるようになるから、その時はお力添えをって言うのと、それまでは内密にと手紙を書いたのに、馬鹿が洩らしたらしくて、ご覧の有様なのよ」
なんと言うか、申し訳ないと言うか。
この部屋の惨状の半分は、私が原因と言う事らしい。
「いいのよ、ゆうちゃんが、そんな申し訳なさそうな顔しなくても。
全部、馬鹿が悪いんだから。
ギルド長からも謝罪の手紙と、鎮あ、違った収拾に動いてくれるて言ってきたし」
今、鎮圧って言おうとしましたよね?
何故、そんな物騒な言葉が書籍ギルドから?
え? 深く突っ込んじゃ駄目と。
真面目に生きていたら、なんら心配する事のないギルドだから、気にするだけ無駄と。
十二分に怖いんですけど!
「とにかく、この仕事が上手くいったら、ギルドが後ろ盾になってくれるわ。
なにせ、時期が来たら全面協力すると言ってきているもの」
確かに、貴族や教会も下手に手出しできないという、書籍ギルドが後ろ盾になってくれるのなら、これほど頼もしいものはないけど。
そこまで上手く行くとは、正直思っていない。
それでも利用し利用される信頼が多少なりとも築ければ、この先なんとかやっていけるかもしれない希望が湧いてくる。
準備不足で家を出る事になった私には、それだけでもありがたい話には違いない。
「じゃあ、さくって書いちゃいますね」




