62.お兄様、私をベットに連れ込んで、ナニをするつもりですか?
秋風が庭の草木を撫でながら、私とお兄様の頬を撫でて行く。
まだ運動後で火照っている身体には心地良いけど、何時までもこうしていては風邪を引いてしまう。
何より汗で張り付いた服や髪が、少しだけ不愉快さを私に与え続けてくる。
「……立てるか?」
「……ええ」
お兄様の言葉に応えて見せようと立ち上がってみせるが、……やはり疲労が足にまだ残っていたのか、よろけてしまう。
そん私を咄嗟に支えてくれたのは、私とは比べ物にならない程の大きな手と太い腕。
「……まだ無理そうだな。
まったく、おまえは頑張りすぎだ」
そう言ってお兄様は、私をその腕の中へと抱き上げる。
まるで小さな子を、その腕に乗せ抱えるように。
「部屋までいくぞ」
どきんっ
お兄様のその言葉に、心臓が跳ね上がる。
こうして抱えられている事が恥ずかしいと言うのもあるけど、それ以上に……。
『兄様に犯される覚悟もあると?』
『更に兄を傷付けたいのですか?』
お母様のそんな言葉が脳裏に過ったから。
でも……、それはあくまで可能性の話で、必ずしもそうなる訳ではない。
なにより、あれだけ優しかったお兄様がそんな真似をするとは思いたくない。
ならば、信じるしかない。
不安でも、怖くても、お兄様を信じるしか。
そして部屋へと辿り着き、私をベッドに連れて……。
「少し休んでから着替えてから来ればいい」
私を見もせずの、下のラウンジで待っていると言葉を残して部屋を出てゆく。
その事に、ホッとする自分が嫌になる。
だって、それはお兄様を信頼していなかった証に思えてしまうから。
ばんっ!
突然聞こえる音に、空へと一瞬飛び上がる。
少し離れた所から聞こえた何かの音。
扉を激しく閉めたような音でもない、もっと鈍く重い音。
ただ何かが倒れるような音でもなかった事に、安堵の息を吐く。
お兄様を待たせるのは申し訳ないけど、汗だけはしっかり拭かせてもらおう。
色々な意味で汗を掻いてしまったから。
「でも、あまりノンビリはしてられない…よね」
暖かな濡れ布巾で汗を拭き。
汗をしっかり含んだ服を下着ごと変える。
そこっ、間違っても勝負下着とか思わないように、そう言う気は欠片もないし、そもそもこの世界の下着は可愛くない。
少なくても私の知る限りはだけどね。
とにかく部屋着に変えた後は、髪を軽く梳いてから、カチューシャリボンで髪を押さえる。
見た目は可愛いけど、結構手抜きが出来るので、こう言う急ぐ時には便利。
「お兄様、お待たせしました」
私が下のラウンジに行くと、お兄様は椅子にどっかりと座りながらも、両腕を組んで天を高く仰いでいられた。
椅子の前には二人分のお茶とお菓子。
ゆっくりと息を吐きながら、お兄様の前に腰掛けるのだけど、正直、緊張している。
何を言われるか怖い。でも前に進まないといけない。
私もお兄様も、もう後ろを振り返る事はできないのだから。
「お考えが纏まりませんか?」
「……ちょっとな、……自分が情けなくてな」
「お兄様は情けなくは」
「自分で自分を心底情けないと思ったんだ、どう繕うがそれは変わらない。
こんな小さな妹をあんなに怯えさせるだなんて、情けないにも程があるとな」
「ぁ……」
お兄様の言葉に、自分が情けなくなる。
たぶん、先程の部屋までの道のりで、態度に出てしまっていたのだと。
ありもしない不安と怖さに、怯えてしまっていたのだと。
「……すまん、悪いのは俺だ、お前が気に止む必要はない
全く情けないよ、ありもしない不安に怯えていたんだからな。
……いや、正直に言えば、屋敷に戻ってくるまでは、まだ怯えていた。
いい加減に逃げ回っていた事に腹が立って、ユゥーリィに文句の一つでもぶつけてやろうと馬鹿な考えが浮かんでいたさ」
独白するかのように、自分の中の何かを吐き出すように言うお兄様の言葉を、私は黙って大人しく聞く事にする。
だって、それはお兄様の苦しみだから。
せめてそれくらいは、黙って受け止めなければと。
元を辿れば、私が招いた事なんだから。
「だと言うのに来てみれば、息絶え絶えで地面に仰向けになっている情けない姿。
まるで、ひっくり返った蛙みたいにな」
ひ、……ひっくり返った蛙、……ええ、黙って聞きます。
例えるにしても酷いと思いつつ、黙って聞きますよ。
「一緒に踊っていた子は、平気な顔をしていたのにな。
それで思ったよ、何を俺は怖がっていたんだろうとな。
いくらユゥーリィが、魔法を使おうが……。
どんどんと凄い商品を産み出そうが……。
身体の弱い妹なんだと。
守るべき妹なんだと。
大切な家族なのになって」
「……お兄様」
「いかに自分が情けない事をして、くだらない嫉妬に捉われていたかと思うと、我ながら情けなさすぎてもう、訳が分からなくてな。
一度落ち着いてユゥーリィと話してみいようと思ったんだが、よっぽど俺は今まで醜く嫉妬に狂った目をお前に向けていたんだろうな」
「いえ、そんな事は」
「無理しなくてもいい。
以前はあんなに懐いてくれたお前が、あんなに顔を青くさせて怯えさせていたのだ、言い訳はしない」
えー……と、…それは、……その。
どうしよう?
流石に何に怯えていたとは言いにくい。
かと言って、こんな勘違いで、お兄様を自己嫌悪の海に沈めておきたくない。
「……その、お母様がお兄様に気をつけるようにと。
……えーと、怒りません?」
一応、保険は掛けました。
そしてゆっくりと、何に怯えていたか、そうなった経緯をお兄様に説明する。
「す、すっ、する訳がないだろっ!!」
ええ、怒鳴られました。
分かります。
正当な怒りだと思います。
でも、私としても疑いたくて疑った訳では。
「すいません。すいません」
ええ、平謝りするしかないです。
私だって、前世の時に妹にそう疑われたら、絶対に怒りたくなる。
それが分かるから、ただ平謝りするしかないんだけど。
「……何度も済まないが、ユゥーリィが悪い訳ではない。
はぁぁぁぁ……、母上には一度ゆっくり話をするとして」
それにしてもお兄様、随分と盛大な溜め息ですね。
気持ちは分かります、私もお母様と話をしたいですから。
「疑われる身としては怒りが湧くが、母上の言う事も分かる話だ。
そう言う事例が全くない話ではないし、俺がそれだけ不安定な状態に見えたと言う事なのだろう。
……が、腹が立つ事には変わらんな」
私も腹が立ちます。
ええ、お兄様の言うとおり、そう言う事がないとは言えない世の中だと分かっている。
けど、疑わされたり、色々と怯えてしまったりした分、腹が立ちます。
「それにしても、いつの間にかユゥーリィも、そう言う事が分かる年頃になっていたんだなぁ」
「……お兄様、本人を前に言う事ですか?」
ええ、幾ら何でもデリカシィーがない言葉ですよ。
何よりオヤジくさいです。
とりあえず謝罪の言葉が聞けたので、それ以上は言いません。
それだって、私が不要な不安を抱いたのが原因だから。
「ここまで長かったが、少し話をしようか」
「ええ」
「単刀直入に聞くが、ユゥーリィは当主になりたいと思うのか?」
「いいえ、欠片も思いません。
私にとってシンフェリア家の当主は、アルフィーお兄様がなるものと子供の頃から思っていましたし、今もそれは変わりません」
ええ、きっぱりはっきりと。
正直、いらないと。
お父様達やお兄様夫妻を敵に回したり不幸にしてまで、欲しい物ではないと。
だいたい、基本ボッチの私に誰が付いてくるんですか。
領地の運営と言うのは人と人の繋がりなんです。
私の限られた人間関係で何が出来ると言うのか。
「だが、ユゥーリィには確かな実績がある。
それに付いて行きたいと思う者もそれなりにな」
「実績と言われても、いまいち実感はないですけどね。
その実績も所詮はにわか景気ですし、ネタも出し尽くしています。
お兄様、私にとってその実績は、この地に残す置き土産でしかないんです。
お父様とお兄様がやられている、この土地を更に恵まれた土地にするための手助けとして」
子供の頃から病弱だった私は、何もこの家に貢献していない。
好きにさせてもらった上、甘えてばかりいる。
でも、私は貴族の家に生まれた娘としての義務を為す気はない。
お姉様の言う、家に貴族の娘として育ててもらった恩を、何も返す事が何も出来ない。
だからこその置き土産。
当初とは予定がズレてしまったけどね。
「……そうか」
「それに、馬鹿な事を言っている人はいますけど、私はお兄様の方がよほど当主に相応しいと思っています。実績だのを無視したとしてもです。
お兄様、私は諦めた人間ですよ。
いくら生まれつきの病気が原因だとは言え、領民に混じる事も、そのために学ぶ事も、力を尽くす事を諦めた人間です。
でもお兄様は違います。
領民達と混じり、時には学びながらも導き、そして地道な努力を続けられている。
こう言う考えは夢を見ていると思われるかもしれませんが、私は当主、いえ、領主たる人間は最後の最後まで、その身体を張れる人間だと思っています。
お父様がこの夏に王都でその身体を張ったように。
そしてお兄様も、身体を張られているじゃないですか」
一息に自分の中にある想いを口にする。
私はこのシンフェリアの領主には相応しくないと。
病気を理由に、自分だけの世界にいた私には。
そしてその間もお父様やお兄様達は、ずっと努力し続けてきた。
この領地に住む人達を、少しでも豊かにするために。
飢えずに済む土地にするために。
一緒にお仕事が出来なくても、帳簿を見ればお兄様がやられている事ぐらいは見当がつきます。
背を向けてきた私に、そんな重荷は背負えないと。
絶えず前を見て、領民達と共に歩み続けてきたお兄様こそ相応しいと。
「はぁぁぁぁ……本当に情けなくなる。
こんな小さな妹にそんな事まで考えさせるだなんて。
そして諭させられるだなんて」
何か憑物が落ちたかのような深い溜息の後に、お兄様は乾いた笑いをしながら自嘲の言葉を吐く。
でも、お兄様の瞳の奥には安堵したような、それでいて情けないような、不思議な感情が入り混じった瞳をしていられる。
まだ、色々と考えが、まとめ切れないのだと思います。
それでも、たぶん私の想いは届いたのだと信じたい。
「あのう小さいと言われましても、もう直ぐ十二になるんですが」
「あぁそうだな。
だが、まだ十一だ。
……見た目は十歳ぐらい、いや九歳ぐらい?」
「酷いですお兄様、気にしているんですから」
「そうだな酷い兄だよな。
お前がこんなに頑張って家の事を考えていたのにな」
別に酷くはない、酷いのは私だ。
お兄様が地道にやり続けている、土地の選定と開拓。
本来の力でもってすれば、私なら魔法で短期で出来てしまう。
お兄様の努力を嘲笑うかのように、簡単に出来てしまう。
領民のために出来る事を、私は自分勝手な考えで、それをしないのだから、酷い以外の何者でもないと思う。
でもそれを口にする訳にもいかないし、今更、バレる訳にはいかない。
だから……。
「酷いのは私です。お兄様。
お兄様が、私に口には言えない様な、ふしだらな事をするかもと怯えてしまったのですから」
「……そうだな。
この兄をそんなふうに疑うだなんて、酷い妹だ。
そう言う訳で酷い兄妹同士、不名誉で猥らな酷い嫌疑をかけた母上に、陳情を申し上げに行くのはどうかと思っているのだが」
「良いですね。
ぜひとも御一緒させてください」
ええ、まだまだ問題は残っているし、私の置かれた状況そのものは何ら変わりがない。
それでも、長いと思っていた暗いトンネルにも、少しだけ出口の明かりが見えてきた気がする。
「ユゥーリィ、情けない兄で済まなかったな。
これからも領民のために、そしてそのお前のその想いと期待に応えるためにも、頑張り続けてみせる」
「お兄様。
私お兄様を情けないと思った事は、一度たりともないですよ。
呆れた事が何度もありますけど」
「……それはそれで酷い気がするんだが」
「気のせいです。
………お兄様、その手は?」
そこで初めて気がつく。
組んでいた両腕を解いたお兄様の右手が、酷く腫れている事に。
赤や青や黒が混じった腫れ方に、眉を顰めてしまう。
「……これは、まぁ天罰みたいなものだ。
自分が許せなくて、ついな」
「お兄様、少しばかりお静かに」
これだけ酷い状態なら、きっと骨にまで影響しているはず。
何故こんな事になってしまっているかはともかくとして、今はお兄様のこの痛みをなんとかしてあげたい。
そして今の私ならば、それが出来るだけの力がある。
だからお兄様の右手をそっと引き寄せる。
少しでも楽になる様、少しでも早く治る様に。
幼い頃より、私を守り続けてきたお兄様の手が早く元の手に戻る様に。
「治癒魔法」
祈りを込めて、力ある言葉を放つ。
この世界の魔法は想像の産物。
そして言葉は、その想像を確かなものへとする道導であり、祈り。
ただ、ただ、治って欲しいと願う祈りの言葉を。
そしてその祈りが届いたのかの様に、お兄様の腫れ上がった右手は、時間を巻き戻すかの様に、元へと戻ってゆく。
「……今のは」
「……すみませんお兄様。
またお兄様を不安にさせてしまったかもしれませんが、私にはそう言う気はありません。
それだけは信じてください」
お兄様の驚き戸惑う声に、私は自分がやってしまった事に気がつく。
教会が持つ奇跡の力。【聖】属性魔法の代表でもある治癒の魔法。
魔法使いの中でも、その力を振るう者がいない訳ではないけど、そもそも魔法使いそのものが少ないため、治癒魔法イコール教会の持つ奇跡の力と世間では認識されている。
協会で修行を積めば、魔法の使えない魔力の低い者でも使えるようになる魔法だと知られてはいる。
それだけにその力を持つ者は、世間から尊敬され畏怖される存在になりやすい。
その力を、お兄様の目の前で使ってしまった。
せっかくトンネルを抜けようとした時に、私は自らその機会を手放してしまったかもしれないと。
ただ、誤魔化すかの様に、それでも、言葉で伝えるしかなくて。
そんな私にお兄様は、治ったばかりの右手で頭を思いっきり掻き毟り。
「ああーーっもう、そんな泣きそうな顔して言うなっ。
俺が泣かせているみたいだろうがっ。
あぁ、いや、その通りなんだがな。
大丈夫だ、少なくても、ユゥーリィの一生懸命さは伝わったから、なっ」
どうやら、私は随分とお兄様を困らせる様な顔をしていたらしい。
お兄様を困らせてしまって申し訳ないと思いつつも、ただ私の言葉は届いたと言ってくれた事は嬉しく感じてしまう。
「はぁぁ……、本当に自分が情けなくなる。
こうなったら、半分は母上が悪い事にしてやる」
そう言うお兄様に、やっぱり兄妹なんだなぁと、兄弟の絆を感じてしまう。
ええ、私もお母様に半分くらいは、責任があると思っていますから。
無論、それが八つ当たりと分かっていて、敢えて実行しようとする辺りが特に。




