173.頑張っている人達に、美味しい食事を提供したいです。
「そう言う訳で、自分の時間をもっと取りたいので、丸投げしますから、後は宜しくお願いします」
「……は、はぁ?」
ヨハンさんと一緒に部屋に入るなりの私の懇願に、目の前の女性が戸惑いの声を上げる。
碧い瞳を大きく見開き、貴族には珍しく背中に届くか届かないくらいの長さの薄い黄色の髪を、ゆっくりと横に振りながら、助けを求めるように隣に立つ男性を見上げる。
「ああ、気にしないで、お嬢さんの一種の病気ですから。
はい、お嬢さんもう一度やり直しを」
あとヨハンさん、そんなワザとらしく溜息を吐かなくても、ちゃんとやりますよ、ちゃんと。
あと、なにか私の取り扱いに慣れてきてませんか?
「ユゥーリィと申します。
今回は無理を言って、御力を御借りできると聞き、歓喜のあまり少しばかり、お恥ずかしい所をお見せいたしました」
笑みを浮かべカーテシーを決めながら、挨拶のやり直し。
これで問題ないですよね。
「ルチニア・メルローズです。
どうかよろしくお願いします」
だと言うのにメルローズさん、やや顔を引きつらせながら、戸惑うように挨拶を返してくる。
そりゃあ、私みたいに十歳も年下の子の研究を引き継ぐなんて、普通は戸惑うよね。
しかも会ってみたら、見た目はもっと小さい訳ですから尚更だと思う。
おまけに私の場合、この世界では嫌厭されやすい色なしだから、戸惑わない方おかしいとさえ言える。
でもまぁ、その辺りは気にしていても仕方ない。
年齢は放っておいても上がるから、そのうち違和感もなくなると思うし、慣れてくれると思う。
「それにしてもドルク様のお屋敷のある敷地の一角に、こんな広いお部屋お借りしてよかったのですか?」
「機密保持もありますし、元々は倉庫でしたので問題ないそうです」
機密保持って、ただのフリーズドライ食品の開発ですよ。
建物の外に、警備の兵まで立たせて軍事開発じゃないですから、少し大袈裟だと思うんですけど。
でも、たしかに中途半端な物が漏れて、カビたり腐敗して食中毒なんて真似は防ぎたいですよね。
研究室になる元倉庫には、既に竃や調理台などの台所設備のほかに、棚や机など研究に必要な物が運び込まれている。
確か説明では、地下に氷室になる保管庫もあるとか。
とりあえず作業しやすような空いている場所に、収納の魔法から、大小の繭型の真空室を取り出し設置する。
大きいのは百人分ほどのスープが、小さいのは最大で十人分ほどまでのスープが調理できる物で、小さい物は使いやすいようにテーブル付きです。
もっと大きな物も作れるけど、とりあえず今はこれで十分。
あとは作業台の上に、サンプルで作ったフリーズドライのスープやお粥、他にも野菜や果物。
そしてレシピや仕様書や計画書等。
「メルローズさん、此方でやってもらいたい事を説明したいと思います」
「は、はい」
かたっ。
かたっ。
私の言葉に、右脚をやや引きずるように歩いてくる彼女に、敢えて気がつかないように迎える。
魔物が跋扈するこの世界で、歳若い魔導士がこう言う仕事をするのは、前線で戦える程の魔力がない者か、前線で戦えなくなった者がほとんど。
彼女の場合は、右足の膝から下を魔物にやられたらしい。
直ぐに治癒魔術師に治療を受けられれば、足を再生させる事もできただろうけど、あいにくと彼女がいた部隊は、その時は偶々治癒術師は同行しておらず。
疲弊した部隊では撤退もままならず、教会へ行った時には既に再生できなくなっていたと、ヨハンさんから事前に聞かされている。
「実際に口にして戴いた方が、早いと思いますので、まずは此れをどうぞ」
木の器にコロンと音を立てながら、放り込まれたフリーズドライのブロック。
其処へお湯を注いでサジで軽く混ぜてから彼女へ差し出す。
その様子に目を丸くして、先ほどまで固形でしかなかった物が、暖かなミネストローネへと変貌した事に驚く。
まるで信じられないように、熱々のスープを口に運び。
「あつっ」
だよね。
流石に少し冷まさないと、熱くて当然だと思うと同時に、少しだけおっちょこちょいな所がある彼女に笑みを浮かべる。
ええ、だって恥ずかしそうに取り繕う彼女の姿が可愛いんですもの。
あと、フーフーして冷ましながら飲む姿もね。まるで小動物を彷彿させる。
もしこれを狙ってやっているとしたら、ある意味恐ろしいお姉様だと思う。
だって、この可愛い仕草で元人妻の子持ちですよ。反則です。
あっ、でもミレニアお姉様なら、きっと今も可愛いままだと思いますけどね。
「お、おいしい」
うん、流石はヨハンさんが選んできてくれた人だと思う。
美味しい物を素直に美味しいと口にできる人って、基本的に素直で良い人が多いんですよね。
なにせ私がそうですから。
と、冗談は置いておいて、能力は私が出した条件を満たしているでしょうから、単純にこの人とは、なんとかやれると言う直感です。
「こんな美味しい物が、あんな一瞬で」
「本当は鍋で軽く煮込んだ方が、味がいっそう馴染むのですが、それよりも此方を持ってみてください」
「……か、軽い」
先ほどのフリーズドライのブロックを十個まとめて持たせて見せると、その軽さに驚く。
「水気さえ気を付ければ、常温保管が可能です。
また野菜を多く使っておけば、野菜不足で遠征中に体調を崩す人間も減らせると思います」
フリーズドライだけでは食物繊維や、ビタミンの不足は補いきれないけど、それでも以前の野菜がほぼ無いスープは、これよりも栄養価の少ない普通の乾燥野菜を使ったもの。
此れだけでも、隊員の方々の健康状態は、だいぶ改善されると思う。
「なにより暖かくて美味しい飲み物は、魔物の討伐で疲れた身体と心を、少しばかり癒してくれると思いますから」
「こ、こんなものっ! 私の時にはなかったのにっ!」
彼女の碧い瞳の奥に灯る昏い輝き。
それも当然だろう。彼女の所属していた部隊の撤退が遅れた原因の一つが、重い荷物が原因らしい。
馬が魔物にやられ、人の手で重い糧食を含めた荷物を持っての撤退だったと。
だけど重くても、人は御飯がなければ動けないし、食料があるからこそ、ある程度安心して動ける。
そしてその食料の重さが、ある意味彼女の右足を奪い将来を奪ったとも言える。
それを考えれば彼女の怒りは、もっともかもしれない。
でもだからこそ、この研究には相応しい人材と言える。
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【ルチニア・メルローズ】視点:
今日も朝から気分が重い。
長かった砂漠色の髪を、思い切って肩口で揃えたため、実際には軽くなったはずなのに、どうにも心の中までは軽くはしてくれなかった。
ずっと大切にしてきた髪だと言うのにね。
「ふぅ……、それもそうよね」
窓際に置かれた机の上、其処にはヨレヨレになった二通の手紙が置かれている。
既に半年前に手元に届けられ、何度も何度も間違いではないかと読み返し、その度に絶望を味わった。
『当家と貴女との婚姻を解消する事にする。
子供は当家で責任持って育てるので、安心して療養をしてほしい。
また、子供に不安を与えるため面会は御遠慮願いたい。母親が二人いたらおかしいだろうからね』
『娘よ、先方から婚姻の解消の話が行って悲観に暮れている所に申し訳ないが、お前の部屋はもうない。
既に歳を取り、子供を生み、更には栄誉と言えど、負傷を負ったお前は、我が家にいるだけで負担なのだ。
社交界の度に聞かれたりと噂の種になるし、周りの視線もある。
なにより後継である息子夫婦に、小姑であるお前に対して、気を使わせるのも申し訳ない。
家は用意する。生活費は退役金と、負傷者年金。あと僅かながらだが貴族年金でなんとかなるだろう』
実際はもっと硬い文章ではあるけど、そう言った内容を前に、私が何をしたと言うのだと、天に呪いの言葉を吐きそうになった。
実際、天どころか、元夫やその家族、そして父に向かって吐いたけどね。
お陰様で、住み慣れた領地から遠く離れたこのコンフォート領に強引に転居させられる羽目になった。
流石に、この足であの遠い土地まで、怨嗟の声を叩き付けに行く気力と体力はない。
「……本当、毎朝、目が覚める度に、あれは悪夢じゃないかと思ってしまう。
いい加減に現実を受け入れないといけないのにね」
回復不能な怪我を負った魔導士は、基本的にはお払い箱。
文官としての才がそれなりにあれば、配属を変えて残れはしただろうけど、そんな才能は私にはないし、片足を失った私では雑用としても使えない。
当然ながら公式の場に出る事など尚更出来ないこと。
冷静に考えれば、父達の判断はある意味当然の事だとは思う。
私が散々稼いだお金は何処に消えたと言いたいけど、それでも幸いな事に、負傷兵への見舞金と退役年金、それと貴族年金のおかげで、質素で倹約さえしてれいばそれなりに生活はできる。
もっとも、その考えは二ヶ月もしないうちに失せたけどね。
日がな一日何もしない日々、あれは駄目ね、人間としておかしくなるし、嫌な考えばかり浮かんでしまう。
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「早いわね」
「ええ、単純作業に夢中になっていると嫌な事を忘れますから」
「そのうち、それが普通になるわよ」
「ありがとうございます」
運が良い事に、こんな私でもできるお仕事にはありつけた。
服飾工房の片隅で、下着やドレスなどに、只管滑り止めのテープを魔力で貼る仕事だけど、山とある未加工品の前には、やらなければと言う使命感が沸々と自然に沸き、本当に嫌な事を忘れられる。
しかも従業員価格で、この胸の重さから解放してくれる下着を購入できる特典付き。
そのあまりの開放感と動きやすさから、見知らぬ開発者に、なんでもっと早く作ってくれなかったのかと、心の中で怨嗟の声を吐いてしまうほど。
我ながら、その文句は理不尽だとは思うけどね。
「お先に失礼します」
と言っても、働くのは魔力が少なくなるお昼過ぎまで。
魔導士である私は、短時間で普通の人の数十倍の量をこなせるのもあって、割りの良いこの仕事のおかげで、遅めの昼のお茶がわりに、甘い物を帰り道に買って帰るなんて事も余裕でできる。
その分、最近はお腹周りが少し気になってきたので、夕食は少なめにしようと心に誓う。
家事に関しては、五日に一度家政婦を頼んであるし、食事も買ってきたりと、家や部隊に居た頃より楽をさせてもらっているのは、独り身の気楽さだと言える。
最近は嵌まっている本の真似をして、筆を執っていたりするけど、誰かに見せたりする気はない。
あくまで自分の中で楽しむだけの話だし、どうしてもあの本を書いた著者程の文才が、自分には見出せない事に気が付いてしまったから。
とりあえず部屋に飾ってある本の挿絵の写し絵は、私の宝物の一つだったりする。
以前は流石に元夫や家族の目もあって飾れなかったけど、今なら堂々と飾れるからね。
ええ、右足と共に家族を失った私の癒しです。
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そんなある日、私の所に魔導士として雇用したいと話が来た。
碌に動けない私になんの冗談かと思っていたら、どうやらある魔導具師の助手的なお仕事らしい。
生憎と私は魔導士ではあっても、魔導具師ではない。
無理だからと断ろうと思たのだけど、今、必要としているのは魔導具師ではなく、私みたいな退役魔導士。
この仕事が上手くいけば、前線に立てなくなった魔導士にもできる仕事が増えるため、私みたいに怪我が元で、放り出される人が減るかもしれないと言われれば断りにくい。
想像していたよりも厳しい機密保持などの規約書にサインを求められた時には、少しばかり早まったかと思ったけど、今更私に失うものはないと半分ヤケクソ気味にペンを走らせる。
そうして共に仕事をする相手の情報だけを与えられて、初めての打ち合わせは、我ながら最低だったと言わざるえない。
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「どうでした、彼女の第一印象は?」
自己嫌悪に浸っている私に、そう声をかけてくるのは、私にこの仕事を持ち掛けてきた男性。
アルフォンス・レギット。
このコンフォード領に居を構えるレギット法衣伯爵家の当主の弟で、コンフォード領を治める領主が保つ此の商会を取りまとめる人間の内の一人だけど、随分と意地悪な質問だと思う。
「見ていたなら分かるでしょ、先程の私の最低な言動を」
あんな小さな子に理不尽に当たってしまった。
彼女のせいでは決してないと分かっているのに、それでも口に出てしまった感情と言葉。
必死に忘れようとしていたものが、もしあの時にあればと思ってしまう。
運ばれた神殿の神官に、もう一日早ければと言われた悔しさと絶望が、……なによりそれが原因で、愛した夫と我が子を奪われた悲しみと怒りと憎しみが、心の奥底から止めようと思う間もなく湧き上がってきてしまった。
「貴女の持つ感情は当然の感情でしょう、実際に口にするかしないかは別としてですが」
性格が悪い。
実際に口にした私への当てつけだろう、性格が悪いと思うけど、口にしてしまった私に、目の前の男を責める資格は無い。
そんな事は、やらかした私が一番分かっているもの。
「だがお嬢さんは貴女を受け入れ、仕事の詳細を話し、仕事を任せた。
言っておくが、貴女が口にした事や感情が、理解できていないなんて思わないように。
見た目こそ幼いが、中身は別だと説明したはずだ」
たしかに実年齢より幼い見た目はしていたし、最初の言動はそれこそ年相応とも言えたけど、仕事の説明や当たり前のように見せられた魔法、そして私の八つ当たりさえ彼女は当然のように受け入れた上で、私に大切な仕事を任せた。
私こそが適任だと。
「正直、意味不明で気持ち悪かったです」
表面的な言動こそ年相応だけど、普通は感情交じりにあんな事を言われたら、ああも落ち着いていられないだろうし、あんな答えが返ってくる事は十代ではありえない。
おまけにその後も、動揺した様子を少しも見せずに仕事の話を続けるなんて事、二十代半ば近くの私でさえ、あそこ迄は無理と言える。
あと、あの子の魔法の使い方は絶対に変だし、ありえない魔力制御力をしている。
どこをどうやったら、あんな魔法の使い方ができて、そんな発想になるのか。
「魔導士としてはどう感じた?」
「……」
首を横に振るしかない。
魔法の使い方を無視しても、分からないと言うのが素直な感想だと言える。
目の前で魔法を使っていながら、そこに在る魔力から相手の実力が読めない。
其れこそ魔法を使っていなければ、魔導士だと分からないほどに、何故か彼女からは魔力の波を感じない。
「ふむ、やはりそうか。
それで今一度聞かせてもらうが、この仕事を受けるかどうか聞かせてもらおう。
やる気のない者など、いても無駄だからな」
「やります」
即答する。
おそらく断ればしばらくは拘束されるだろうし、無事に解放されても監視が付くだろうことは容易に想像がつく。
そんな状況では、ハッキリ言って選択肢など無いに等しい。
ならば自分から飛び込んだ方が余程良いと言うもの。
給金もかなり良いし、此れが製品化されれば割り当て金も貰えるという破格な仕事だと言うのもあるけど。
私みたいな、悔しい想いをする人間を出すのは、もうたくさんだ。
「ふむ、判断の速さは報告通り、流石は【撲殺女神】の二つ名は伊達ではないか。
ならば一応は忠告しておくが、あのお嬢さんには気を付けておく事だ。
基本的に甘く優しいお嬢さんだが、敵と見做した者には容赦しない。
多少の口論や喧嘩は構わぬが、裏切らぬ事だ」
「流石に侯爵様の家臣や兵を、敵に回す度胸も力もありません。
後、その二つ名はやめてください、物凄く不本意なものですから」
此の商会の役員の殆どは、コンフォード侯爵様の家臣だし、彼等は侯爵様から必要に応じて兵を動かす権限を貰っている。
私など裏切ればあっと言う間に居所を掴まれて、存在を消されるに決まっている。
その分、味方には寛容な貴族としては有名ではあるけど、それは己が分を弁えればの話。
だいたい、毎回思うけど、撲殺ってなによと言いたい。
素手で殴り倒した事は何度もあるけど、人間を相手に殴り殺した事など一度たりとて無い。
ただ戦友から、穏やかな笑みを浮かべながら相手を殴り飛ばす姿は、本気で怖いと言われた事はあるけどね。
「意味は違うが、今はそれで構わぬ。
ならば君は今日から我らが同胞、心より歓迎しよう」
そう言って棚に置いてある箱から、瓶と二つのグラスを取り出してくる。
最近、貴族の中で流行っているとされる、硝子のコップ。
綺麗ではあるけど、流石に普段使い用には高くて手が届かないし、祝い事をする家族も友達もいない。
あと、おつまみなのだろう、茘枝ぐらいの大きさの薄茶色の塊、……見た事もない食べ物ね。
敢えて似ていると言えば燻製チーズだろうけど、明らかに違いがある。
「君の此れからの活躍と、胃の健康を願って乾杯」
「え? 胃? あっ、いえ、とにかく頑張ります」
なにやら不穏当な言葉が聞こえたけど、所詮子爵家の三女でしかない私に、今、それを聞き返す度胸はない。
とにかく綺麗な模様が刻まれたグラスの中の赤ワインを……あれ? 甘い香り?
これ、ワインじゃない。
と、とにかく今は飲まないと、此処で飲まないのは流石に拙いからね。
今、目の前の男は同胞と言った、この杯を断ると言う事は、それを断ると言っているのと同義だし、口にするのを迷うという事は、それを迷うという事。
「…ぉ、おいしい。
……これって蜂蜜酒…ですよね?」
香り的に間違いなく蜂蜜酒だと思うのだけど、正直自信がない。
口にした芳醇な香りと、甘い香りに騙されそうになるけど辛口の味の酒は、今まで飲んだ事も聞いた事もない物だから。
戸惑う私に、器ごと差し出されるツマミ。
それを一つ掴むと、目の前の男は、自分も摘まんで口の中に放り込む。
まるで、それを私にもしろと言わんばかりに。
その仕草に私は、これが儀式だと気が付く。
血の盟約の盃。
私が裏切らない限りは、相手も裏切らないし庇護し力を貸すと言う。
だけど逆に裏切れば、家族ごと殺されようとも文句は言えない
普通は、血に見立てた赤ワインと、庇護と力を表したパンでやるものだけど、意味合いは一緒だろう。
上位貴族に関わるのは厄介ではあるけど、元夫の家や実家と言う後ろ盾を失っているも同然の私にとっては、ありがたい話ではある。
なにより、この場合の当てはまる家族に、私の元家族は含まれないのだから。
「んっ!」
なんて濃厚な。
チーズよりも濃厚な味わいなのに、さわやかな甘みが口の中に広がっていく。
食べた感触としては確かにチーズの燻製に近いけど、味は別物と言っていい、なにより自然と二口目が欲しくなる。
「紅皇蜂の蜂蜜と幼虫」
「…ぇ?」
「今、我々が口にしたものだ」
ま、まって、紅皇蜂って、あの戦災級の魔物の紅皇蜂よね?
単体では人災級と言われているけど、大抵は数匹で行動しているため下手に攻撃を掛ければ群れで攻撃されるし、逆に襲われて肉塊へとされ巣に運ばれる。
紅皇蜂の成虫の餌として。
確かに蜂蜜は廃棄された巣から採られる事はあるけど、幼虫って余程廃棄されたばかりの巣でもない限り手に入る事はない珍品中の珍品。
こんな場所で食べられるような物ではないはずだし、決してこんな無造作に出てくるような物ではない。
「実はこんな物を何十本も貰っているし、幼虫に関しては二匹分と気軽に贈られたが、その一匹分の大きさが大きさでな。
正直、騒ぎになりかねんから、市場に流すに流せん代物だ。
闇で売買するよりは、信頼できる者相手に贈答用にするか、こうして個人で楽しむ方がよっぽど有意義でな」
力を見せるための価値としては、十分過ぎるどころか、私みたいな半貴族落ちした人間にはお釣りが来る。
多分、これ一杯と一口で銀貨数枚の価値があるかもしれない。
それが山ほど、……市場が混乱しそうね。
と言うか貰ったって、こんなとんでもない物を誰に?
「さてと、乾杯を終えたところで、もう少し仕事の話をしようか」
疑問に思っているのも構わず男は続ける。
……血の盟約で逃げ道を絶った後での話。
此方が混乱するのを見越してだろうけど、十中八九、碌でもない話よね?
「別に身構える必要はない、仕事の内容は今まで説明した通りお嬢さんの仕事の手助けで、そこは変わらないし、それ以外を頼む気も無い。
ただ、認識に齟齬があるといけないと思ってね」
「齟齬?」
「竜を扱うように扱えと言うのは、彼女をよく知る大先輩の言葉であり、私の彼女への認識でもある」
この時は意味が分からなかった男の言葉。
その意味の一端は、早くも十日後に知る事になったのは、この時の私に知る由もない事だった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
「沢蟹のスープと言って、深赤王河蟹や深緑王河蟹を獲って来ないでくださいっ!」
「でも、美味しいですよ」
「手に入りやすい物でお願いします!」
「大丈夫です。
繁殖地を見つけましたので、獲りすぎなければ、定期的に手に入りますから」
「ごく、ごく普通のものでお願いしますっ!」




