104.郷愁の想いと馬の背に揺られながら、静かに眠ります。
シンフェリア領に隣接するドンターク領、その最北端にある村。
名前すらない小さな村を南北へと結ぶ小さな街道沿いにある村で、リズドの街で借りてきた馬ごと空間移動してきたコッフェルさんは、私の書いた地図と手紙を持って此処を立ってからは半日以上も経っている。
本来であれば、もう少し大きな街道が西に行けばあるけど、そこより此方の方が少しだけ近い場所に位置している。
時間にして数時間程度の差ではあるけど、此方の街道の方が、嘗ての私の猟場の一つに近い事もあって、マーキングの魔法も残してあった場所。
シンフェリア領内にあったマーキングの魔法は、家を出た時に殆ど消したし、この地域で残してあるのは主要な街の近くのみ。
だから此処は、私の中にある惨めな未練と想いの跡でしかない。
それが今回は偶々役に立っただけ。
この付近では、もうシンフェリア領内にしか残されていないから。
もし此処が使えず、使わざるを得なかったのなら、私は再び泣き崩れていた羽目になっていたかもしれない。
自分に負けて、自分の想いに潰されて、何も望む事すらないできない一生を送っていたかもしれない。
そんな確信めいた予感が、私の中にある。
だから、コッフェルさんは町の近くまでどうだ? とは誘ってくれたけど、……私にとって此処までが自分で許せる限界の場所。
此処で、近くにある名前すらない村で待つと言って、無理やり作った笑顔でもって、あの人を見送った。
「ふふっ、あんな小さな村に待つ場所なんてないのにね。
本当、どうかしているわ」
かと言って一度リズドの街に戻る気もない。
少しでも長く、故郷に近い空気を味わっていたい。
そんなみっともない未練が、今の私の足を止めてしまっている。
暦の上ではもう春で、リズドの街では暖かいと言っても、五百キロ近くも北に位置し高度も高いこの辺りは、まだ肌寒い空気に包まれていると言うのに。
それはそうだろう、シンフェリア領では、まだ雪が降る事もある季節だもの、寒くて当たり前だ。
そしてつい半年前までは、当たり前に吸っていた空気。
「……本当、我ながら嫌になる程未練がましいわね」
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沈みかけた陽が遠い山々を赤く染めながら、沈んでゆく光景。
輝く星空と月が手の届きそうと思えるほど、近くに見える夜空。
時折見える流星に、少しだけ心が安らぎを覚えてしまう。
吐き出す息が白く溶けてゆく朝靄の中で、魔法で煎れた暖かいお茶でもって身体を温める。
凍える身体とは裏腹に、あの屋敷で過ごしていた時に、朝起きて吸い込んだ時の空気と似ていると、心が温まっている自分がおかしく感じてしまい、思わず笑みを浮かべてしまうのだから、私はコッフェルさんの言う通りヘンテコな人間なのかもしれない。
そして冷えた身体を温める様に陽が高く昇り、その春の日差しの心地良さに身を任せてしまう。
そういえば、いつもの日課をサボったのは、寝込んでいた時以外を除けば、今回が初めてかもしれないと気付き、リズドの街に戻ったら、頑張って取り戻さないとと心に決める。
そうして再び陽が傾きかけた頃、ようやく待ち人が戻ってくる。
「おう嬢ちゃん、出迎えてくれたのか。
わざわざすまねえ……嬢ちゃんオメエ」
どうやら、意気揚々としているところと、馬に積んだ荷物からして、コッフェルさんは首尾良く目的の物を手に入れられたようだ。
ついでに気がつかなくても良い事に、気づいてくれるのだから困る。
男なら此処は、黙って気がつかない振りをしてもらいたいものです。
かと言って前世の自分がそれが出来たかと言うと、出来たとは言えないので文句も言えないから余計に困る。
まぁ本当に困っているのは、目の前のコッフェルさんでしょうけど。
でも、聞いてあげません。
私は自分勝手な人間ですから。
「さぁ、帰りましょうか。
此処は、私にはもう用の無い場所ですから」
そう言って、此処に刻んだマーキング魔法も消し去る。
もう、二度と此処に跳ぶ事はないからと、コッフェルさんとも今回限りと言う約束だから。
もう……私には必要がないのだから。
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空間移動から出たのは少しだけ深い森の中、此処からならコッフェルさんと私を乗せた馬で歩いても、リズド街まで一刻ほど。
街に着いたら、少しコッフェルさんの家の一室を貸してもらおう。
このままライラさんの待つ家に戻ったら、流石にバレてしまうだろうから、身綺麗にして少しだけ眠りたい。
さすがに十二歳の身体では、完全な徹夜は厳しいみたいで、正直、今にも目蓋が落ちそうです。
そう言う訳で、少しばかり部屋を貸してくださいね。
なのに背中越しに聞こえてきた声は、
「却下だっ。
俺が街に戻ったらまず最初やるのは、このままオメエさんの部屋に放り込り込む事だ」
「むぅ、酷いです。
協力したんですから、それくらいの我が儘くらい聞いてください」
「聞ける願いと聞けねえ願いがあるんだよっ。
今のオメエさんに一番必要なのは一刻も早く安心して眠る事だ。
ったく、酷え顔してやがる癖に」
「顔が酷いのは昔からです。
このまま戻ったらライラさんに何を言われるか」
「んなもん俺がライラの奴に幾らでも叱られておくから、安心して眠りやがれ。
だいたいそう言う意味で言ったんじゃねえ。
オメエさんは誰がどう見ても、将来美人になる顔立ちだろうが」
「あれ? コッフェルさん幼女愛好・」
「馬から突き落とすぞ」
「酷い、こんなか弱い少女を馬から突き落とそうだなんて、せめて最後まで言わせてください」
「人聞きの悪い事なんぞ最後まで聞いていられるか、だいたいか弱い少女は普通あんなところで一晩過ごさねえぞ。
まったく、無事だったから良いものを」
誤解がある様だけど、別に一晩中あそこに突っ立っていた訳では無い。
時折、街道沿いの森の中に入ってましたよ。
ええ、乙女の秘密がありますからね。
生理現象だから、こればかりはどうしようもないです。
それと狼や野犬ぐらいなら、何頭囲まれようとも平気ですよ。
これで、しばらくあの村は平和でしょうね。
ええ、人がせっかく感傷に浸っているのを邪魔してくれたので、容赦なく狩っちゃいました。
はい、一匹も逃しませんでした。
狼は毛皮に、野犬は食肉用に、いいお小遣い稼ぎもできました。
「……無用な心配だったか」
「ええ、無用です。
これでも、魔法さえ使えれば普通の人よりは、強い自信があります」
「色々と突っ込みってえが、まぁいい。
それよりも、連中だいぶオメエさんを心配してたぜ。
一晩中質問攻めにあうかと思ったぐれえだ。
……まぁ嬢ちゃんとの約束通り、余計な事は言わねえように適当にあしらっておいたがな。
嬢ちゃんとしては、まだ居場所を知られたくねえだろうしな」
「すみません、無理なお願いをして」
「いや俺の方が無理な願いを聞いて貰ったんだ、これくれえの事は訳はねえ。
と言っても流石に鬱陶しかったし、話を進めたかったから、奥の手を使わせて貰ったがな」
「奥の手ですか?」
「ああ、奥の手だ。
嬢ちゃんにも一応話しておくが、あまり不用意に俺の名前は使うな。
厄介事を引き寄せかねねえ」
そう言って背中越しに見せてくれたのは、一つの首飾り。
昔、コッフェルさんが国のある組織に所属していた頃の身分証明で、引退後にもそれ用の物が渡され、ある程度の効果がある代物らしい。
私は良くは知らないけど、これを見せれば、貴族やそれに属する商会などは、詳しい事は問わず協力する義務があるらしく、今回も私の居場所を知ろうとする人達をこれで黙らせたとか。
一応は身元証明に私の首飾りをお貸ししていたけど、それだけに余計に追及が激しかったらしいので、奥の手を使わざる得なかったとの事。
それはともかくとして、コッフェルさんは、それなりに業界では有名人らしく、その事で私が巻き込まれないかと心配らしい。
ただその反面、身を守るためや本当に必要と思ったなら、幾らでも使えと言ってくれるあたり漢らしいです。ダンディです。白いお髭がお似合いです。刻んだ皺の数だけ頼れるお爺様と言った感じです。
「まぁ今後の取引もあるから、嬢ちゃんの居場所を隠し通せるのも数年が限度だろうがな」
「数年あれば十分です。
それにそれだけあったら、私の事なんて忘れているかもしれませんし」
「……馬鹿な事を言ってるんじゃねえ。オメエは忘れられるのか?」
「……」
「そんなものだ。
本気で付き合った人間は、そう簡単には忘れられねえものさ。
あと何時か嬢ちゃんと一緒に店に来てた子から、伝言を預かってきた。
あとの連中のは全部断ったがな。
まったく次の荷物と一緒に手紙で送れってんだ。
大事なもんを、俺みてえな胡散臭え奴に預けようとするなってんだ」
コッフェルさんの口から紡がれた彼女の話に、体が強張るのが自分でも分かる。
一日たりとて忘れた事のない彼女の存在に……。
そして今も胸の上にある彼女との絆の証に……。
どうしても勝手にしてしまう嫌な想像に……。
「……なんて言ってました?」
「まぁ、嬢ちゃんが大人しく部屋で寝て起きたらな」
「ずっ、狡いですっ!」
ええ、流石に文句を言います。
全力で抗議します。
断固として前言撤回を要求します。
私の心の中の葛藤は何だったのかと文句を言いたいです。
え? 頭上に浮いている奴ですか?
そんなの交渉材料に決まっているじゃないですか。
こうして魔力を絞る事なく火炎魔法を作るのは、数年振りかもしれません。
顔には出しませんが、正直、自分でも出現した火炎の大きさに驚いているぐらいです。
これならコッフェルさんのお店兼住居ぐらいなら、一瞬で燃やし尽くす自信はありますよ。
あっ、街に近いから、騒ぎになるかもしれないから止めろと。
それもそうですね、どうせ脅しと分かっている脅しなど、何の意味もないですからね。
一応は八つ当たりはできたので、少しだけスッキリしました。
「まったく酷い奥の手です。
脅しですっ。脅迫ですっ」
「……それは俺の台詞だってんだ」
しょうがない。
エリシィーの伝言は凄く気にはなるけど、大人しくコッフェルさんの言う事を聞く事にする。
いくら何でも、こんな事をしてしまう辺り、きっと私は私が思っている以上に疲れているのだと思う。
そう言う訳で、寝ますからあとお願いしますね。
ええ、こうして凭れ掛かれれば、馬の上でだって眠れます。
別に先程の件で騒ぎになったら、知らん振りするためとかではないですよ。
そろそろ眠気が限界なので眠るだけです。
ええ……、彼女との楽しい想い出に浸って、静かに眠るだけです。




