第95話 契約書
ペシオ伯爵は、機嫌が良かった。先日ようやく二百年前の巨匠、アダラール・ラコルデールの絵が手に入ったからだ。彼の絵画収集癖は国内随一と言われ、絵画専用の館を用意し掃除以外は自分しか立ち入れないようにしてある。そんな伯爵は、自分の領地経営には興味なく家令に任せっきりであった。
執務室でラコルデールの絵を眺めながら恍惚の人になっている伯爵。館のどこに飾ろうか思い描いている最中、邪魔する者が現れた。家令であった。
「申し訳ございません。急ぎご相談したい件がありまして」
「私は、忙しい。後にしろ」
「それですと、わが家は破産いたします」
「どういうことだ!」
家令が説明するには、十か月前にラコルデールの絵が手に入るとの話を持ちかけた商人がいた。伯爵は是非とも手に入れろとの指示もあり、財政的に厳しいこともあってすんなり購入できる状況ではなかった。商人に相談したところ、絵の代金として銀貨三万枚を借財する契約を結んだ。契約書一枚で、絵だけは手に入れることができたのであった。その十か月後の今日から、元本と利子の返済が始まるのだが、用立てできないため、商人が伯爵と直接話したいと言っているとのことだった。
「そんな借財は、聞いてないぞ」
「いえ、お伝えしました。万事任せると」
そんなことを言ったかもしれないが、絵が手に入ることに心を奪われていた彼は、正直言って契約などどうでもいいことであった。
「それで用立てできなとはどういう事だ!」
「はい、元々当家の財政状況は厳しいうえに、先日の出兵により戦費が予想以上に膨らんだため返済できる資金がありません。それに」
「それに?」
「契約書の最後の文章をご覧ください」
そこには、このように記載されていた。
『本契約に基づき行う返済は、返済日においてグラッセ公爵家が発行している銀貨をもって行う。また、返済に用いられる銀貨は、返済日に発行されている純度および重量を基準とするものとする』
「これがどうした」
大した問題ではないと思った伯爵の言葉に、家令が一層深刻な顔で答えた。
「契約上は新銀貨で支払う必要があります」
経済に疎い伯爵でも、ミレーヌが発行した新銀貨という言葉は知っていた。
「そういえば、新銀貨一枚は旧銀貨二枚と交換すると言っていたな」
「そのとおりです。グラッセ公爵家の銀貨は家中集めれば二百枚程度は集められるかもしれませんが、すべて旧来の銀貨です。先日当家は、公爵家に攻め入ったこともあって、交換には応じてもらえません。それに」
「それにとは?」
「新銀貨で支払う必要があるということは、借金が二倍になったということになります」
そう、ミレーヌがラウールに指示した狡猾な契約書の狙いはここにあった。伯爵が借りた当時の旧銀貨は、現在発行されている新銀貨の半分の価値しかない。公爵家は旧銀貨二枚で新銀貨一枚としか交換しないと定めているからだ。契約の通り、返済には返済日の新銀貨が必要となるため、伯爵の負債は、知らぬ間に二倍に膨れ上がっていたのであった。
「なぜ気が付かなった!」
「契約当時、新銀貨を発行することなど誰も知りえません。返済が一度でも滞れば担保になっている土地を差し出す必要があります。お怒りはごもっともですが、まずは商人とお会いいただき、支払いの猶予を依頼していただけますか」
家令のいわば強制的な依頼に、逆らうことができず、伯爵はやむを得ず、その商人と会うことになった。応接室に座っていた中年の商人は、恐縮しながら伯爵に挨拶した。
「ラウールと申します」
「ソアン・ペシオだ」
「それで伯爵、先ほど家令様にお伝えしたのですが、契約どおりお返しいただけないのであれば、この土地を頂くことになります。よろしいでしょうか?」
その物言いに憤慨した伯爵は声を荒げた。
「貴様、商人ごときが伯爵に立ち退けというのか!」
「契約は絶対でございますので」
「生きて帰れないと言ったらどうするのだ」
脅し文句にラウールは動じることなく、返答した。
「そうですか。やむを得ないですね。私は商人の身ですが、グラッセ公爵家の財務担当も拝命しています。私を殺した場合は、グラッセ公爵家が直接討伐に乗り出すと思いますがそれでもよろしいでしょうか?」
そんなことを聞いていない伯爵は驚いた。
「お前、ミレーヌの家臣なのか!」
「まあ、独立部隊というか、なんというか。比較的自由にさせていただいてます。この後ミレーヌ様にいろいろご報告しないといけませんので、ついでに話しておきます。伯爵が契約を守れなかったと」
「待て! それだけは待ってくれ」
立場が逆転したことを思い知った伯爵は、ラウールに懇願した。
「必ず返すから、返済を猶予してほしい」
「商人は信用第一ですので約束を反故することはできませんし……あ、どうでしょうか? ミレーヌ様をお頼りになってはいかがでしょうか? もしかしたら相談にのっていただけるかもしれません。ちょうどこれからミレーヌ様の元へ行きますので私と一緒にいかがですか?」
拒否することができない伯爵はラウールとともにミレーヌの元へ行くこととなった。馬車を走らせミレーヌの館に着いたのはその日の夜であった。応接室に通された伯爵に、銀髪の公爵令嬢が相対した。
「ようこそ、ソアン・ペシオ伯爵。ラウールから少し聞きましたが、相談ごとがおありとか」
伯爵は時間的猶予がないことから、契約に基づき返済はしたいが、新銀貨も資金も持たない現状を、洗いざらいミレーヌに伝えた。
「そうですか……伯爵も大変ですね。一つ提案があるのですがお聞きになりますか?」
「ぜひお聞かせ願いたい」
ミレーヌが言うには、借財は私が立て替えても良いが、条件があるとのこと。それは、領地の徴税権をグラッセ公爵家に譲り渡すか、もしくは、領地をグラッセ公爵家に譲り渡すこと。この場合は、年金を支給するとのことであった。
「それは、ご無体な」
「前者は契約とあまりかわりませんし、そもそも生活できませんね。後者なら年金が貰えるので悪い話でないと思いますが」
「いくらいただけるのでしょうか?」
「年間金貨四百枚。ただし支払いは時価換算した銀貨で」
煩わしい領地経営などせずに、年間、金貨四百枚貰えるのであれば、今まで以上に裕福な生活ができる。経営が苦しい貴族としては魅力的な提案であった。
「いつまでにご回答すれば」
ミレーヌは徐に、応接室の壁に設置してあった時計を見た。
「あと、一時間半で今日が終わりますね。私もそろそろ休みたいのですが」
「わ、わかりました! これからはミレーヌ様を主と仰ぎます」
「それでしたら、これにサインを」
ミレーヌは予め用意してあった書類を伯爵に渡した。あまりにも手際が良すぎて騙されているような気持ちになったが、背に腹は代えられない。伯爵は書類にサインし、ミレーヌに隷属することとなった。ちなみに、伯爵がミレーヌに隷属したことを記載した手紙が、カッツー王国の主だった貴族に対して、翌日送られたことを、彼は知らなかった。
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