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第92話 撤退

 ミレーヌとの会談の翌々日、ブローリ公爵は「持病の悪化」を理由に撤退を宣言し、自身の兵を連れて自領へと戻った。指揮官と主力部隊を失った北方面軍では、たちまち動揺が広がった。最大貴族である公爵が撤退したという事実は、この戦いを続ける意義が無いことを意味した。ほとんどの貴族が、ブローリ公爵を見習うかのように、兵を率いて領地へと引き上げていった。


「王命を無視して撤退するとは、どういうことだ!」


 それを聞いたラクール子爵が叫んだ。王太子昵懇の貴族十家、兵二千名程度が、未だに要塞都市ガレルッオと相対していた。


「しかし、我々だけでは戦うことはできません。もはやここまでかと。我々も撤退すべきでしょう」


 残った貴族たちが口々にラクール子爵を諫め、翌日の撤退が決まった。

 翌日、撤退準備を始めた途端、城壁の上から銃声が轟き、残った貴族の兵が倒れた。その音は、彼らが安全圏にいるという幻想を打ち砕いたのだった。ラクール子爵が慌ててガレルッオを見ると、土塁の上には、数多の銃撃兵が整然と銃口を構えていた。

「あいつら、城の外に出たのか! 今が好機だ! 皆、総攻撃だ!」


 と剣を抜き城に向かって進みだした瞬間、城壁の銃口が火を噴いた。二度目の銃声が轟き、ラクール子爵の体が激しくのけぞる。彼は何が起こったのか理解する間もなく、全身を撃ち抜かれ絶命した。

 残った貴族たちの将兵は、もはや統制を失い、武器を捨てて逃げ惑った。すると、両脇からテジ第一部隊長などが率いる兵四千が、彼らの行く手を塞ぐように攻めかかった。これは、ミレーヌが残った貴族を殲滅するために、事前に指示した包囲作戦の一環だった。結果、彼らはわずかな兵を除いて、生きて領地に戻ることはできなかった。


◇◆◇◆


 ブローリ公爵が撤退してから四日後、ドガ将軍はその報を聞き、思わず耳を疑った。彼の顔色は一瞬で青ざめ、内心の動揺が隠せない。


(やはり、貴族どもは信頼できない。ジュノイーも、もしかしたら敵なのかも……。それに、このままだと自分が王太子に叱責されてしまう……)


 ドガ将軍は、王太子の激昂する顔を脳裏に描き、戦場にとどまることの危険性を悟った。彼は自己保身を最優先し、万一に備えてジュノイー侯爵に総攻撃を命じた直後、本軍は撤退すると宣言した。


 ジュノイー侯爵も、ブローリ公爵が撤退したとの報告を事前に受けていた。彼は、いかにしてその撤退に同調するかを思案している最中、ドガ将軍から総攻撃の命が届いた。侯爵は伝令に「承知した」と伝えたが、その顔には深い諦めが浮かんでいた。


 ドガ将軍の命令は、自分の目を敵に向けるためのものであることは明白だった。彼は保身のために撤退するに違いないと思った侯爵は、静かにペンを取り、すぐにセリアへ書簡を書き始めた。

 そして、書簡を付けた伝書鳩は、王都へ向けて飛び立っていった。


◇◆◇◆


 二十日後、ドガ将軍が率いる王軍は王都に戻った。王太子から報告せよとの命があり、ドガ将軍は、謁見の間に赴き、王太子の前で跪いて報告する。


「タレーラン侯爵の命令無視など貴族達の勝手な振る舞いや、ジュノイー侯爵の稚拙な指揮のせいで、貴族たちに大きな損害をうけました。さらに、ブローリ公爵の病気を理由とした離脱により、もはや戦線を維持することはできなくなりました。貴族たちに不穏な気配があり、離反する可能性があったので、やむなく撤退を決断し、兵を損ねることなく無事に帰還しました」


 ドガ将軍の報告は、体裁を整え、責任のすべてを貴族側に押しつけるものだった。それを聞いたエドワード王太子は、顔を蒼白にしたまま、立ち上がった。


「もうよい。貴様が裏切っていることはすでに先刻承知だ。衛兵、奴を投獄せよ」


 王太子は、怒りに任せてドガ将軍に指を突きつけ、命令した。実は、ドガ将軍が王都に到着する前、セリアは王太子に囁いていた。「ドガ将軍はミレーヌと通じており、貴族の裏切りを口実に、指揮した兵を用いて、反逆の準備を進めている。その証拠に兵を損ねることなく帰還したことを誇らしげに報告するはず」と巧妙に讒訴していたのだ。エドワードの耳には、妻の言葉だけが真実として響いていた。


◇◆◇◆


 時は十六日前に遡る。ドガ将軍が命じた城壁都市ロサークの総攻撃を無視したジュノイー侯爵は、本軍の撤退の報告を受けた。娘の言うとおり、この戦いは無駄な戦いであった。それを終わらすために、各員に撤退準備をするように命じる。三日後、東方面軍は一切の混乱なく、規律正しく撤退していく。それを城壁から見ていたジャックは、敵の撤退行動が完璧であり、追撃する隙がないと判断した。

 この侯爵の撤退について、特に東方面軍に参加した貴族たちは、撤退時に、一兵も損なうことなく領地に戻れたことを高く評価した。彼らは、愚かな王太子の命令よりも、自分たちの安全を優先した侯爵に、密かに信望を寄せ始めていた。


 こうして、ミレーヌが予め描いた策によって、この大規模な軍事衝突は収束を迎えた。終戦協定は結ばれず形式上は公爵家とカッツー王国との戦争状態は続いていたが、そんな協定など当事者同士は必要とはしていなかった。


 最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
セリアも本当に頭が良いな。 この時代の人間だけだったら天下を取れただろうに。
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