第109話 ヴィスタ帝国
ヴィスタ帝国皇帝マテウス二世は、執務室で窓から差し込む午後の光を背に、書簡を広げていた。今年三十六歳になる彼の顔には、数年前に弟クリメンスとの皇位継承争いを制した者特有の、冷徹な知性が滲んでいる。
彼にとって、その争いの経緯は、今思い起こせば苦いものだった。前皇帝である父が七歳年下の弟クリメンスを溺愛し、皇位継承を覆そうとした。その最中、父の死去によって帝位が空席となったことで、帝国は二年にわたる激しい内乱に突入した。当初はクリメンスが優勢だったが、マテウス二世が帝国のカルニツァ金山を掌握し、傭兵団を雇い入れたことで形勢が逆転。弟クリメンスは戦死し、兄は玉座を得た。その記憶は、マテウス二世にとって、権力と安定の重みを常に意識させるトラウマとなっていた。
「それで、お前はどう見る?」
マテウス二世が問うた相手は、宰相のヘルベルト・マルテンシュタイン。皇帝が皇太子時代から仕える股肱の臣であり、帝国随一の現実主義者だ。
「現状、カッツー王国は実質三分しています。侵攻するなら絶好の機会と存じます」
宰相の言葉は、感情を排した冷徹な分析だった。
「手を結べば、グラッセ公爵領を切り取り次第か。その程度の餌で余を釣るとはな。よほど窮しているのだろ」
書簡は、カッツー王国摂政のセリアからのものであった。同盟を結んだうえで、グラッセ領への侵攻、さらに占領した領地は帝国のものとして構わないと記載されている。
「しかし、カッツー王国摂政にはよからぬ噂もございます。王太子を傀儡とし、王の病を利用して実権を握ったと」
マルテンシュタインは、セリアの策謀を冷静に指摘した。
「確かにな。その皇太子が国王になり、行方不明に。その不在にかこつけて実権を握った女。不審な点も多々あるし、話に乗るのは危険だ」
皇帝は静かに腕を組んだ。彼の国にとって、隣国の不安定な政権は常に脅威となる。
「では、お断りになりますか?」
「いや。侵攻する」
マルテンシュタインは、わずかに目を見開いた。皇帝の即断に、彼は確固たる理由があることを察した。
「失礼ながら、あの女は本当に約束を守るでしょうか?」
皇帝は低く笑った。その笑みには、勝利を確信した策士の冷徹さが宿っている。
「守らなくても構わぬ。まずはセリアとともにミレーヌを打倒し、そして、ブローリ公爵領に攻め入り、最後にセリアを滅ぼせば、カッツー王国すべてが手に入る。そう思わないか?」
「御意。カッツー王国を我が国の勢力圏に加える、最高の好機です」
マルテンシュタインは深く頭を下げた。皇帝の目には、カッツー王国がヴィスタ帝国の勢力圏に組み込まれる未来が映っていた。
こうして、ヴィスタ帝国の出兵は決まった。総兵力の三分の二の帝国軍十五万となる大規模出兵であり、皇帝自ら指揮する親征であった。彼の目的は、セリアの約束の履行ではない。カッツー王国という広大な領地を、自らの支配下に置くことにあった。
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