第106話 金と紙
ミレーヌの執務室。テーブルの上には、最新の王都情勢が記された報告書が広げられていた。ミレーヌは、優雅にアールグレイを啜る。向かいには、レベッカとラウールが静かに座っていた。
「王家はついに、今までの金貨の純度を三分の一に引き下げた新しい金貨と、少額決済用の小金貨の発行を開始しました」
ラウールは、報告の重要性に反して、低い声で言った。彼の顔には、戦争というよりも、巨大な商談の成功を確信した商人の満足感が浮かんでいる。
「今後、王家の発行する金貨は、もはや誰も受け取らない状況になるかと。さらに王都の物価は、今後跳ね上がるでしょう。それによって、市民の怨嗟の声は城壁の外まで届くと思います」
レベッカは、主人の冷徹な瞳を見つめた。ラウールの推測を聞きながら彼女の心は、この状況がミレーヌの計画通りに進んでいることへの安堵で満たされていた。
「良いころ合いだと思わない?」
ミレーヌは、優雅にティーカップを置いた。その音は、室内の静寂を切り裂く、乾いた号令のようだ。
「はい。完璧なタイミングです」
レベッカが即座に答える。
「じゃあ、手筈通り進めて」
「承知しました」
レベッカとラウールが執務室を出ると、ミレーヌの口元には冷たい笑みが浮かんだ。
◇◆◇◆
その三日後、王都の大通りに、グラッセ公爵家の布告文が張り出された。
「グラッセ公爵家は、金貨と交換可能な紙幣を発行する。交換比率は、王家が改鋳する前の旧金貨一枚を基準とする」
布告を見た商人の間では、すぐに議論が起こった。彼らは、ミレーヌが導入した信用手形を数年使っていたため、紙が価値を持つ概念には慣れていた。しかし、公爵家発行の「紙幣」が、本当に王家の金貨と同じ、あるいはそれ以上の価値を持つのか、懐疑的だった。
そもそも、グラッセ公爵領の領民は、王家の金貨自体を元々信用していなかった。彼らが信じるのは、煩雑な税制を廃し、生活を安定させたミレーヌの統治だけだ。
こうした中、このような布告がでた。自分たちの生活を向上させた領主ミレーヌは、嘘をつく訳がないと思う反面、単なる紙が金に代わるのかどうか。そもそも金をミレーヌは持っているのか。など、人々は布告を見ながら噂しあっていた。
その布告と同時に、広場に新しく設けられた公爵家の交換所には、ミレーヌが用意した金塊の山や大量の金貨が眩い光を放っていた。その圧倒的な実物資産を前に、群衆は半信半疑で見守る中、ラウールの商会と繋がりのある、数名の主要な商人が動き出した。
一人の老齢の商人が、大量の紙幣を交換所に差し出すと、公爵家の担当官は、一切の躊躇なく、約束された金貨を彼に手渡した。
「おお! 公爵様の紙幣は、本当に金と交換できるぞ!」
その光景は、広場に静かな衝撃を与えた。商人の間には、長年の信用手形の使用経験から、すぐさま「紙幣は使える」という認識が広がる。なぜ老齢の商人が紙幣を既に持っているのか疑問に思う者がいたかもしれないが、その疑念を消し去るかのように、交換所にいたラウールが声を上げた。
「ミレーヌ様は嘘偽りは言わぬ。諸君、このようにいつでも金貨と交換できるぞ! この紙幣は、持ち運びにも便利だ!」
それを聞いた人々は頷きあった。それを見たラウールは言い放った
「ミレーヌ様はおっしゃった。この紙幣は、公爵領内のみならず、王都においても、真の価値を持つ貨幣として流通すると。どう思う諸君!」
「その通りだ! ミレーヌ様は、私たちには嘘を言わない!」
誰かが声高に言うと、皆がそのことを改めて認識した。確かにミレーヌは庶民に対して嘘偽りを言ったことがない。口々にミレーヌ様の紙幣ならば問題ないと言い合いながら、家に帰って金貨を取りに行く。王家の悪貨を売り払い、ミレーヌの紙幣を手に入れ始めようとするためだ。
数時間後、王家の悪貨を捨て、価値が保証されたミレーヌの紙幣を求めて、交換所には長蛇の列ができた。こうして、ミレーヌの「金本位制の紙幣」は、王家の経済的な信用が崩れたことを足場にして流通し始めたのである。王家が数百年かけて築いた貨幣の権威は、もはや形骸化していった。
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