第四章 26:夢見る王女と叶える魔女
ユウトは苦しい胸の辺りを押さえるようにして何とか立ち上がり、王女の後を、顔を伏せつつゆっくりとした歩みで追いかけた。
心臓が鼓動する度に、何かに掴まれて押さえつけられるような感覚がまだある。
いつもの歩く速度で追いかけたいが、掴まれた感覚が邪魔になるし、王女に近づくことで感覚が増すのではないかと考えていた。しかし、王女は歩くのが速くはないが、今のユウトが遅いため、少しずつ距離が離されていく。
普通に歩くことすらままならないのに、王女を信用してもいいのか、と思っていた。
「信じないなら、信じなくてもいいから……」
そっけなく言い放つ王女の言葉は、ユウトの考えが聞こえたような一言で、思わず伏せ気味だった顔を上げた。
「僕のこと……知ってる……のかな?」
「少しだけ」
「……そっか……僕も少しだけ知ってるよ」
この世界に来る事になったきっかけの夢。そこで出会っている。そしてこの世界ではヴァイガル国の王女。それくらいしか知らない事を、少し、と表した。
「……そう。」
王女は興味なさそうに返事して先に先に歩く。石壁に響く二つの靴音は、苦しいユウトには不協和音のように聞こえて気分も悪くなる。
「……僕を連れて行く場所は……黙示録のところ……かな?」
「……ええ。そうよ」
「僕はこの国の人間じゃない……それでも……いいの?」
「ええ。いいわ」
ユウトは思い切って、全てを知る者のことを切り出した。
「黙示録は全てを知る者が近づいたら、大変な事が起こる……だったよね……」
「……そうね」
「僕が全てを知る者だったら……どうするの?」
王女は立ち止まり振り返ると、ユウトを指さし
「……あなたが全てを知る者……でしょう?」
と、何を今更と言わんばかりに確信している強い視線でユウトを見る。
事実を突きつけられて、ユウトの胸の奥で蠢く王女を殺してしまいたい殺意が溢れそうになる。
ユウトの心臓を打ち鳴らすのは王女を殺してしまいたいと悪魔の囁きで、ユウト自身が気を抜くと深緑の右腕が勝手に動きそうで堪える。
だが、王女の目線が、ユウトを狂わせる。人が人で無くなるような、ただの獣になりそうな衝動がユウトを襲う。
負けたら、王女を粉々になるまで右腕が勝手に叩き潰してしまいそうで、震えるほどに右手で拳を握る。
ユウトの苦しみなど関係なく王女は、苦しむユウトには近寄らずに、冷たい言葉を投げかける。
「あなたが私を殺したい理由はわかるの。でも、それは今じゃない。無駄になるから。私が私である今、あなたには黙示録に向かう必要があるの。だから来て。」
「……無茶、言わないでよ……」
右腕が反射的に、王女の目を狙って動きそうになるのを堪える。王女もそれ以上は何も言わず、苦しむユウトを置いて歩き出した。
王女について歩き続けると、十字路で止まると、のろりとついてくるユウトを待った。
心臓を掴まれた苦しみと、いつでも暴れ出しそうな右腕を抑えながら歩き、額からは次々と玉のような汗が浮かんでは流れて行く。
王女は十字路の左側を指差す。
「この先に黙示録の部屋があるわ。あとはあなたが一人で行けばいいわ」
感謝を言いたいが、相変わらず息が荒くうまく喋ることもままならない。
その様子を王女は悲しそうに目を伏せた。
「私の本物に会ったのね……きっと彼女は私の事を受け入れられないはず……」
ユウトは息苦しさで声が張れないが、腹から力を入れて端的に「本物って……誰のことだよ……」と聞き返す。
「……魔女カリューダよ」
「……えっ――」
「やっと、貴方に伝えられる日が来たのね……長かったわ……神殿の中にいてよかった……」
「ちょちょっと待ってよ……君が何を言っているのか……」
王女が何を言っているのか理解に時間がかかった。王女は呆然と目を丸くして自分を見ていたユウトのことは構わず続けた。
「私はカリューダを模して造られた生き物……プラトリカの海から生み出されたカリューダのような見た目の生き物よ。人間じゃない。」
「……何を言ってるんだよ……意味がわからないよ……」
「……私はここまで生きて、知識を積み重ねてきた。私が生み出された理由と意義……貴方に伝えることができる。」
「ちょっと待ってよ! 君が魔女カリューダ? 何を言ってるんだよ……」
「……私は、魔女カリューダの体を使って生み出された人。プラトリカの海から永遠と生み出されるの。この国の王女はずっとわたし。生まれて、育ち学び、死ぬ。これを繰り返すだけの人なの。」
五百年前に死んだ魔女カリューダの姿がここにある。そんな馬鹿げた話があるはずがないとユウトは自分にに問うたが、死者が甦った例があった。
殺してしまったエオガーデがプラトリカの海から生み出され、大人数でユウトたちの前に立ちはだかった過去の記憶がある。
プラトリカの海があるなら、魔女カリューダだって、マナの器と言われる魂の聖杯の有無まではわからないが、肉体が別の魂、別の人格で現存していても不思議ではない。
むしろ、そう考えられなかったのは盲点だったかも知れない。
しかし、そんな話はエミグランから聞いたこともなく、魔女カリューダは過去に死んで、生きているはずがないと思い込んでいた。
カリューダは大災と渾名された魔女だ。そしてこの世界では肉体と魂の器とされる聖杯が存在する。
つまり、王女がカリューダの肉体なら、カリューダの聖杯があれば、魔女カリューダが現代に蘇る事になる。
「聖杯があれば……魔女カリューダが甦らせることができるって事……だよね」
王女は頷く。そして補足した。
「厳密には、カリューダの記憶のないカリューダに近しい人間が誕生する。けれど、彼女の力は想像を絶するほどの巨大な力……例え半分の力しか戻らなくても、地上にいる誰も彼女には敵わないかも知れない。」
ユウトは、廃村のエオガーデたちのことを思い出していた。エオガーデはユウトが完全に頭部だけにしてしまったが、その頭部はヴァイガル国に回収されて、アルトゥロがプラトリカの海でエオガーデに模した人を生み出していた。それも大量に。
あの数を生み出せるのなら、魔女カリューダが何十人も生み出せる事になり、この世界にいないはずの魔女が突然現れる事になる。それもアルトゥロの意のままに動く大災の魔女が。
「……まずいよ……まずいじゃないか! アルトゥロはプラトリカの海が使える存在なんだろ?!」
事の重大さを理解し始めたユウトに、王女はまた頷いた。
「そう。私はアルトゥロがプラトリカの海から生み出し続ける四十六番目の王女。ずっとこの国の王女で、プラトリカの海からの使者……私はアルトゥロに逆らうことはできない。彼の目的の一つは、私の体とカリューダの聖杯を使って、生み出す核を作り出す事。肉体と聖杯が揃うと、プラトリカの海から、肉体も魂もカリューダそのものが生み出せる。」
「止める方法は?!」
「カリューダの聖杯をアルトゥロに渡さない事……でもそれは大丈夫だと思う。」
「なんでだよ! 手に入れたらおしまいじゃないか?!」
「多分、それはできなかったんだと思う。」
「意味がわからないよ!! 万が一でも手に入れたら……!」
「あなたが聖杯を持っているから。だから手に入れることはないわ。」
「………………えっ?」
「あなたのその右腕……深緑のマナ……カリューダそのもの。あなたはカリューダの聖杯を受け継いだ者よ。」
――僕が……カリューダの聖杯を受け継いだ??
何を言っているのか全く理解できなかったユウトに説くように続けた。
「深緑のマナは、カリューダの代名詞……密度の濃いマナで数々の奇跡を生み出した象徴の色。決して人々……いえ、世界中の誰もが到達し得なかった頂点に立つマナの使い手……それが魔女カリューダ。あなたがそれを使えるのは、聖杯の継承者だから……」
「ちょっと待てよ!!」
ユウトはつらつらと話し続ける王女に憤り、大声で止めた。
「……意味がわかんないよ……僕が、魔女カリューダの聖杯の継承者? ハハハ……冗談でしょ?」
「冗談なんかじゃないわ。あなたのその右腕は、五百年前にカリューダが生み出した世界救済の彼の汝の腕……その右腕こそが全てを知る者の証……つまり、聖杯の継承者の証よ」
ユウトは王女の言う事の半分も理解できなかった。ローシアたちが破壊を夢見たカリューダの遺物である黙示録。その生みの親であるカリューダは五百年前に亡くなり、そして今、肉体と魂の聖杯が向かい合っている。
感動の再会となるはずがなかった。
「僕の右腕が……カリューダの……」
王女はユウトの右腕をじっと見つめた。
「きっと……カリューダの魂は、私の存在が許せないのね……力が有り余るからこそ、死者として眠ることすら許されず、五百年経った今も、その名前は悪名しか残されていない……」
ユウトは、王女を見ただけで怒りに全身が支配される感覚が、この右腕の生みの親であるカリューダの気持ちだと思うと可哀想に思えてきたが、これまでユウトを苦しめてきた心臓を掴む感覚が、まるで王女の話を黙って聞けと言わんばかりに、いつの間にか消えていた。
思考が今の状況に集中できて、王女の言う事に気がかりがあった。
「……僕はキミの話が嘘とは思えない。でも、本当だとも思えないよ」
「……そうね。あなたの立場なら、わたしもそう思ったかも知れない。でも本当なのよ」
嘘を言っているように見えなかった。
「カリューダのことに詳しいんだね……」
「……元々は私がカリューダの体だから。それに、プラトリカの海の私達は、これまでの記憶を共有しているの。」
「昔の王女の記憶も……って事?」
「ええ。だから少なくとも、カリューダが亡くなってからの記憶はあるの」
話せば疑問しかわかなくなっていた。
「カリューダが亡くなってから少ししてプラトリカの海で君が生まれたのなら、最初に誰が君を生み出したのかな……アルトゥロは誰から引き継いだんだろう」
王女は眉をひそめて言った。
「……もちろんアルトゥロよ 彼はこの国に五百年はいる。人間を超えて、姿形を変えてずっといるわ」
――……嘘だろ……
アルトゥロは人間でありながら、五百年生きている。今ならその事実の方が信じがたい。死者が甦ること、人が五百年生きる事、一年前のユウトなら笑って馬鹿げた冗談だと一蹴しただろうが、信じるに足りる根拠は揃っていた。だから笑えなかった。
過去の出来事が詳らかになり、ユウトは信じるに値する根拠があった。
王女が夢の中に現れたと思い込んでいたが、あれはカリューダだったのだ。
そして、聖杯を継承したのなら、夢に出たカリューダが胸に刺したナイフ。あれが聖杯だったと考えれば辻褄は一応合う。
だが、ユウトが継承者に選ばれた理由はいまだに謎のままだ。
深緑の右腕を見ると、穏やかに淡く輝く。
「私の言うことが信じられなくてもいいから……」
「いや、信じるよ」
「えっ……?」
事実を理解するために、噛み砕くのに時間は少しかかったが、信じるしかなかった。
王女の言うことは、これまでユウトが見て知った事実と照らし合わせると、疑う理由なんてなかった。
「君のことを信じる。だから、黙示録の部屋に行ってくる!」
王女の無表情の口元に、わずかな笑みが見えた。
「……信じてくれてありがとう。きっとエミグランは、アルトゥロとプラトリカの海を彼から奪うために戦っているはず。彼が持っていると『奇人達』も彼の手中に落ちてしまう」
「奇人達?」
「これだけは覚えておいてほしい。もし奇人達が現れたら、聖杯を取り出して、そして壊して欲しい……そうすれば彼達の魂は救われるから。君ならできるはず」
「聖杯を?」
そんな事やったこともないユウトは、方法は?と聞こうとしたが
「貴方はカリューダの聖杯の継承者。聖杯は彼女が編み出した秘術なの。貴方はできるはずなのよ。アルトゥロよりも完璧に聖杯を取り出す事も、壊す事も……完璧に取り出す方法は、誰も知らないはず」
「……そっか……わかった! 覚えておくよ!」
天井から、揺れを伴う爆発音がまた響いて、揺れに耐えた王女は天井を見上げた。
「……久しぶりの再会はお互いに情熱的なのね」
「早く行かなきゃ……ありがとう!色々と教えてくれて!」
ユウトは王女の両手を握って振る。
思わぬ行動に息を呑んだ王女は、顔が少し熱った。
「そうだ! 王女の名前を教えて欲しい! 僕、名前を知らないんだ。」
「……私に名前はないわ。王女としか呼ばれないの。」
寂しそうに俯いた王女に、ユウトは「……そっか」と呟きすぐに
「なら、今度一緒に考えよう! 好きな花、好きな景色、好きな人、好きな食べ物でもいいや! 色々と好きなことを思い出して、自分の好きな名前を考えよう! 僕も手伝うよ!」
ユウトは理想を追っていた。理想とは『世界の全ての人たちに祝福が訪れる事』だ。
目の前の王女も祝福が訪れる人だから、青臭い事が言えた。ユウトの言葉は、王女に心に深く響いて、温もりが全身に広がる感覚があった。
人として扱われていない、ただ生きるためだけの存在。
歴代のヴァイガル国に『支配されて、好きなように扱われる存在』なのだ。
王女とは名ばかりの存在で、自身は『女の奴隷』だと思っていた。
そんな王女に、名前をつけるなんてこれまで誰にも一度も言われたことはなかった。
五百年間で初めてかけられた優しい言葉は、五百年分の鬱積した痛みを洗い流すほどに、王女の眼から涙がこぼれ落ちた。感動のあまり、息をするたびに震える唇を一度噛み
「……うん。名前ほしい。私も、名前が欲しい。」
笑顔の王女に、ユウトは微笑んで、そっと手を離した。
「じゃあ、行ってくる!」
ユウトは、王女に笑顔を残して黙示録の部屋に走っていった。
王女は、自分が尽きるその時まで、ユウトの笑顔を思い出して糧にして生きていく事ができる。何百年も生きていけると思った。
元は肉体と魂が一つだった二人が、談笑しながら名前を考える――
そんな世界を夢見て。




