第四章 12:一度だけ
『あの女……エミグランはヴァイガル国で大臣を拝命し、ヒトとケモノが共に幸せに暮らせるような国を作るために懸命に尽力していた。それはこの山に住む我々にも噂として聞こえてくるほどにな』
オロは静かにエミグランのことを語り出した。
『……しかし、獣人戦争が起こった後からあの女は変わった……』
「変わった……って、何がですか?」
オロはユウトを冷たい目で見下ろす。ユウトを一思いに噛み殺したところで積年の怒りがおさまるはずはないとわかっていたし、子供達の手前そんな事ができるはずもなく、ため息で誤魔化し、そして答えた。
『ヒトとケモノのより良い住みやすい国を作るどころか、ヒトの顔色を伺うような生き方に変わったのだ。』
ユウトは、すぐに疑問が浮かんで首を傾げた。エミグランは獣人の街を作り、そして明らかにヴァイガル国の立場を崩す動きをしている。到底オロの言うように人間の肩を持つような事はしていないと、これまでのエミグランを見て思っていた。
『……このケモノの右手はない。おそらくケモノの国で罪を犯して右手首から斬られたのだろう。あまりにも痛ましいが、これはあの女が決めたケモノの国の法所以だ。何故右手を斬るかわかるか?』
ユウトは、オロの言うケモノは獣人を意味しているからケモノの国はドァンクのことを指しているのだろうと理解したが、右手を斬る理由はいくら考えてもわからなかった。
「いえ……わかりません……」
『二度と元に戻らない印のためだ。手首に限らず体の部位が切断されたらヒトもケモノも元には戻らん。マナの力でもできぬ事。それを利用して法を犯したものを一目でわかるようにしたのだ』
「……罪の代償……」
『そうだ。右手を斬られたケモノは、一目で罪を犯した者だと誰の目にもわかる。もう立ち直ることさえも許されない犯罪者の烙印を生涯背負うのだ。死ぬまでな。このケモノも、おそらくはあの国で罪を犯して逃げてきたのだろう……』
ユウトはまだ目覚めない蛇に囲まれて横たわるルティスの方を見る。
ルティスが宿駅にいた理由はきっとオロが言うようにドァンクから逃げてきたのだろう。右手のない獣人の扱いがどんなものかは、腹を空かせて宿駅で座り込んでいたことを思い出せば容易に想像できた。
ユウトは拳を握りしめて険しい顔つきになった。
『全てはあの女が決めた事……ヒトも罪を犯すと言うのに右手を斬られる事はない。だがケモノは一生涯その罪を背負わされるのだ……』
「そんな……」
『だからあの女はこうあだ名された。ヒトに擦り寄るために、ケモノを見殺しにする【獣人殺しのエミグラン】……とな。』
「――!!」
初めてエミグランの屋敷に向かっている最中に、オルジアが口走った事を思い出した。だがあの時のタマモの殺気はエミグランを守るためのものでタマモの殺気と口調は偽物とは思えなかった。
「……でも、エミグラン様を慕う子もいるんだ……全部が全部悪いってわけじゃ……」
タマモの代わりに反論すると、徐々に声が小さくなるユウトにオロは吹き出さそうになる笑いを堪えた。
『いずれわかる……あの女の本性がな。』
オロは、ずっとこちらの様子を伺っている蛇達を見た。
『お前達はもうお帰り。ここは心配いらないよ。』
オロの言葉を聞いた蛇達は顔を見合わせてから地面を滑るように進んで山頂から去っていった。
ユウトと気絶したルティス、そしてオロが残された山頂に肌寒い風が流れた。
『もう夜になる……山を下る時間も必要だろう……さっさと花を摘んで下るが良い。そしてもうこの山に来ないでくれ。私達が生きる邪魔をするな。』
オロの冷たい言葉はユウトの心へ刺さる。
生きることへ邪魔なんてしていないつもりだが、オロはユウト達を吐き捨てるようにそう言う理由は、これまでのオロ達が生きていた経験から出てくるものだろうと思うと居た堪れなくなった。
ユウトは冷たい風に僅かに痛みを感じながらオロにかける言葉を思考を巡らせて探したが、オロの拒絶に言葉が見つからなかった。
我が子を思う親の言葉にユウトが何か言える立場ではない、言えるはずがないと自覚していた。
だが、このままオロをカズチ山に縛り付けたまま放っておいてもいいのかと、それだけがずっと引っかかっていた。
何故なら心に刺さるほどオロの気持ちがわかるからだ。
自分によく似ていると。
ユウトとよく似たキズを負っている。オロのために出来ることはしてあげたい心の底から思っていた。
それは、ユウトがこれまでできなかった、他人のために自分が出来る事を臆する事なく言葉にして行動する事だ。
『どうした……? さあ、花を摘んで帰るが良い。お前を待つ者もいるのだろう?』
――レイナ……ローシア……もしここにいたらどんな決断をするかな……――
ユウトは深緑の右腕を眼前に持ち上げた。不思議と今考えているオロにしてあげられることは出来る気がしていた。深緑の右腕は、ユウトの考えを肯定するように、穏やかに輝く。
オロに今思っている事を口にするのは勇気がいるなと、胸に手を当てて山頂に吹く冷えた空気を大きく吸い込む。
――……間違っていたとしても……僕は放っておけない……――
もう二度とこの山に来れなくなってもいい、今やるべき事を今やらなければ、きっと後悔する。この命が尽きる時まで後悔する。
思いやる心が、ユウトの口を動かした。
「オロ……」
『どうした? ヒトの子よ。』
「エミグラン様から受けたカズチ山に縛り付けられた呪い……僕が解けるかも……」
『……』
「この右手が教えてくれてるんだ。出来るぞって。言葉で伝わるわけじゃないんだけど……やってみても……いいかな? 絶対にできる保証は全然ないけどさ……」
『……フフフフフ……ハハハハハハ……ハーッハッハッハッ!!』
オロは耐えきれなくなり、口を開けて弾けるように笑い出し、笑い声に合わせて蛇腹が揺れた。
「な……なにがおかしいんだ……!」
『ハッハッハッハッ! クックックッ……愚かなヒトの子よ。何故エミグランを敬う貴様の言う事を信じられると言うのだ……』
「そ……それは……」
『私はお前を殺そうとしたのだぞ? 殺そうとした者を救おうなどと世迷言を……フフフフフ……これが笑わずにおれようか』
「だとしても……僕ができる事はしたいんだ。」
『たわけが。お前にこのオロにできることなどない。私の気が変わらぬうちにさっさと山から去れ。』
ユウトは自分で人の言うことはよく聞き入れて、人の意見に逆らうことはほとんどないが、オロの言うことはどうしても聞けなかった。
両手で拳を握りしめて、勇気を一絞りする。
「い……いやだ! 僕はまだここでやるべき事がある!」
『貴様……』
オロの体が橙色から赤味が増す。冷たい風が一瞬で熱風に変わるほど、オロの体温が上がっていることがわかった。
赤くなったオロはゆっくりとユウトの目の前に顔を近づけた。
『お前が何故、私の呪いにこだわるのか聞かせてみよ。くだらぬ理由なら躊躇う事なくひとのみにしてくれる……さあ!申してみよ!』
「……おかしいよ……」
『何がおかしいのだ……』
ユウトはオロではなくエミグランでもない何かに怒りを覚えていた。
エミグランに無理やり縛り付けられてカズチ山にしか存在を許されなくなった事、オロ自身がそれを受け入れている事。そしてその理由が忌み嫌われると言う理由だと言う事。
命を粗末に扱う人間も、獣人に厳しい罰を科す事も。
どんな理由があっても、人が命を粗末に扱うような事があってはならない。
この大地に生きる者全てに祝福があるべきだ。
大災の魔女カリューダが残した黙示録の意味は今でもわからない。ユウトが成し遂げられるのかなんて自分自身が一番わからないし、成し遂げられると言える自信なんて微塵もない。
しかし、もし目の前に苦しんでいる者がいて、手を差し伸べないのは、過去自分が伸ばした手を振り解くのと同じだ。過去自分を裏切ることになると思うと、オロの真意に触れて見て見ぬふりをして去ることなんてユウトにはできなかった。
もしこのまま何もせずに山を去れば、自分の中で何かが変わってしまうし、一生後悔が付きまとうだろうと、今するべき事は、今やらなくてはいけないんだとオロを鋭く見据えた。
『どうしたのだ? 臆したか?』
「……違うよ……過去にエミグラン様と何かあってこの山に縛り付けられるような呪いをかけられたのなら、僕はそれを解く!」
『私はそれは何故だ? と聞いておるのだ。エミグランに求められたヒトの子が、何故この私の呪いを解こうと言うのだ? お前がエミグランにそそのかされて殺しに来たのかもしれないではないか』
「僕は……全てを知る者だ。全てを知る者が顕れたのなら、この世界は祝福で満たされる。それはオロにも言えることだよ。」
『フン……カリューダの黙示録か……』
「カリューダがどうとか……関係ないよ……」
『なんだと?』
「オロがこの山を出ないというなら、僕は何も思わない。自由にすればいいよ。」
オロは片方の口元を上げて含み笑う。
『フン……ならば……』
「でも、出たいのに出られないのなら話は違うよ。」
オロの口元が戻った。
『何が言いたいのだ……』
「オロは自分の意思でここに残るのならいいさ。でも違うはずだ。オロは山に籠ることが本当は嫌なはずだ。そうなんだろう?」
『バカな……何を根拠に……』
ユウトは深緑の右腕をオロの目の前に出した。
「この腕、オロが尻尾を刺した時、オロとエミグラン様の会話が聞こえたんだ。蛇達を人質に取られた時の会話が。」
ユウトは悪夢のような会話の内容を事実だとしてオロに突きつけた。オロは明らかに動揺して、瞳孔を開いて丸くさせた。
「やっぱり……本当にあったことなんだね?」
『だからなんだと言うのだ……エミグランの呪いなどあろうがなかろうが、私はこの山を出たりはしない。』
「なら何故、蛇達がエミグラン様に奪われた時に、すぐに山から出ないことを認めなかったんだ? 本当に出るつもりがないならすぐに認めればいいじゃないか。あんなに大切な子供達なのに! 泣くほど悔しかったはずなのに!」
『……』
「ルティスを助けてくれた蛇達はこの山から出られるとしても、山の外の世界ではオロの力は出せない。この山を出ることができないから。あの子達が山を出て蛇を嫌う誰かに殺されてしまうかもしれない…… でも、こんな小さな山が蛇達の生まれ故郷と終の住処なんだよ。オロは本当にそれでいいの? あの子達の知る世界の全てがこの山だけなんだよ!」
『……』
「エミグラン様がなぜオロをこの山に縛り付けたのか理由はわからない。でもこの辺りに住む人……ダイバ国の人たちはオロを敬う人もいるはずだ。だってこの目で見たんだよ。ダイバ国からの行商人は、この山に向かって手を合わせていたんだ。」
『……』
「僕は、自分が思う正しい事をする。そう決めたんだ。」
『お前の正義を私に押し付けるな……』
オロはユウトから顔をはなして鎌首をもたげて高い位置から見下ろす。
『確かにあの子達の生まれ故郷と終の住処はこの山だ。ここが一番安全なのだ。私がいるからな。それの何が悪いのだ! 誰も来ない見捨てられた山の中で!蛇という種族が生まれて死ぬ……何が悪いというのだ!お前は何を救おうというのだ!』
「見捨てられた山なんて、そんな言い方は、この山に居たくない人の言葉だよ……それに僕は救うなんて言ってないよ……僕は出来る事をしたいって言ったんだ……」
『――!』
「僕は正しいと思う事を行動する。もう誰かの視線や意見を気にすることはやめた。僕は呪いを解きたい。その結果、オロがこの山から出ないとしても、僕はそうしたいんだ…… それでも嫌だというなら僕は何もしてあげられない。 オロが決めてほしい。どうするかを。僕はオロの決めた事を尊重するよ。」
『呪いを解き、結果、人々を襲う魔物となってもか? 私が本気を出せば一晩で国を滅ぼすぞ。』
オロは口を開き、尾をユウトに向けて威嚇した。
頭からひとのみしてやらんとばかりに口を開いて顔を近づけた。
だが、ユウトは笑顔で答えた。
「オロはそんなことはしないよ。子供を奪われる親の気持ちがわかるんだから……無闇矢鱈に誰かを殺そうなんてしないはずだ……あれだけ僕に怒ったのに、まだ僕は生きてる。本当は殺す事を躊躇ってたんじゃないのかな……」
『――!!』
ユウトは右腕を伸ばした。深緑で穏やかに輝く右腕がオロの瞳に淡く映る。
「僕はこの腕のせいでオロに殺されそうになったけど……でも結局殺さなかった。僕はそれは優しさだと思うよ。怒りにを爆発させそうになっても……でも普通の人間ならあの熱量を腕に突きつけられたら焼け切れちゃうかもね。でも、もし本当にオロが暴れるなら僕が止めるよ!今度は負けないよ!」
と、ユウトははにかんだ後、視線をドァンクがある方向を眺めながら続けた。
「あの蛇達も、オロも、この山を出るという選択肢があっていいんだよ……例え外の世界が蛇達にとって、ひどく残酷な事があるとしても……それでも外の世界でしか得られない事があるはずなんだ。」
『……』
「無理やり山から出ろなんて言わない。もしかしたらあの子達の中に山から出たい子もいるかもしれない……オロに人間が酷い生き物だと聞いて知っていても、それでも外の世界を知りたいって思う子が……」
『もう良い……』
「……えっ?」
『まったく……お前は他者の心に無断に無神経に踏み込むのが得意なのだな』
まったく喜べない感想を言われて、ユウトは頭をかきながら申し訳なさそうに「ごめん」と言うしかなかった。
『だがヒトの子よ。お前の言う事は正しい。正しいが故に、嫌われる事もあるのだろう。不都合な真実は、時として心を抉る。』
「そう……だね。うん。オロの言う通りだと思うよ……」
『お前も難儀な道を歩んできたのだな……』
オロはユウトが不器用な生き方をしてきたのだなと、ユウトの申し訳なさそうな笑顔を見て思った。
今でもエミグランは憎いオロは、ユウトのことを信じるか信じないか心の中で揺れ動いていた。
まだ、ユウトがエミグランの回し者の疑念は拭いきれていない。もし、オロ自身が殺されるような事があれば、山に残る蛇達はオロの加護がなく生きていかなければならない。
――そんなリスクを負ってまで、ヒトの子の望みを聞き入れるわけにはいかない……が……――
ユウトがオロに向けてぶつけてきた思いは伝わっていた。
オロの前でも臆する事なく気持ちをぶつけてきた人間は数えるほどしかいない。
それどころか、オロにここまでもの言う人間は記憶になかった。恐ろしい蛇の見た目でありながら、何よりも自らの子を守る親である姿は誰も見出す事はなく、氷よりも冷たい生き物だと思われていたからだ。
ユウトは、オロがこれまで出会った数少ない理解者であり、そして、これまでで一番オロの心の中を理解してほしいと潜在的に願っていた、オロと子供達を理解してくれた、たった一人の人間だ。
目を閉じて結論を出すと、答えを不安そうに待って見上げるユウトの目を見た。
――一度だけ……一度だけ信じよう。私はヒトの子の命を奪おうとした……子を持つ親でありながら……その償いではないが……――
『ヒトの子よ。お前の言う事を受け入れよう』
オロの出した答えにユウトは不安な顔が一気に晴れた。




