第3章 30 :お疲れ様でした
「やあやあ。よく来てくださった。何でも二百年ぶりとか。」
アグニス王は気軽にエミグランに声をかけて近寄ると、座っていた四つん這いの人間椅子から立ち上がり
「お目にかかれてる光栄じゃよ。」
とにべもなく返した。
「ところで、随分悪趣味な椅子に座ってるんだねぇ……見たことあるけど。」
と金縛りのスルア大臣の情けない顔と姿を見て城内に響き渡るほど大笑いするが
「随分と躾がなっていないようなのでな。椅子の代わりになってもらったよ。首が捩じ切れるよりましじゃろう。」
と、スルア大臣に震え上がりそうなほど冷酷に見つめると、涙を浮かべて苦しそうに喉を鳴らした。
「ふぅん……捩じ切れるところも見てみたいけどまあいいや。さっさと終わらせようよ。みんな苦しそうだし、さ。」
アグニス王はリオスの隣に立ち、手を叩いた。
「まずは、護衛襲撃の件だ。あれはうちの騎士団長がやらかして申し訳ない! この通り!」
エミグランは目を閉じて答えた。
「良い。襲撃受けた本人も不問で良いと言うておる。一方的にやられたわけではないし、そちらも一生残る傷を負っているはずじゃ。こちらが何もしていない上の襲撃ではあるが意図を汲んでこちらから何も言う事はない。」
エミグランの即答にアグニス王は口元を緩めた。
「ありがとね。感謝するよ……でもさ、エミグラン公の衛兵殺害しちゃった件はどうするつもりかな? まさか二百年ぶりにうちにきてさ、事件を起こすなんて思わなくてさぁ、話聞いてびっくりしたよ。」
嫌味を含めた声色で大袈裟に問うが
「要人に飛び掛かるような躾の問題じゃな。皆殺しにならなかっただけ感謝してもらいたい。」
と、にべもなく返す。
リオスはエミグランの物言いに怒りが込み上げ、動悸が高鳴るのを呼吸で抑える。
エミグランへの怒りは勿論のことだが、国を守る衛兵が殺されたというのにアグニス王が笑って話す事も許せなかった。
とはいえ、要人に襲い掛かるという衛兵の行動は決して褒められるものではない。その代償が命であることにリオスは納得ができないでいた。
「そりゃまあそうかもね……じゃあこの件はお互いに不問ってことにしよう!」
「構わんよ。」
「いやー、エミグラン公が話のわかる人でよかったよ。ほんとに。でもさ、ちょっとくらいはさ、こっちの都合も考えてほしいよねぇ……城門前でちゃーんと入国は出来ないって言ってるのさ。ちょっと強引じゃない?」
「わしの知るところではないな。真実を話すのに時間など必要ない。まさか心の準備をしないと話せぬという女々しい事は言うまいね?」
見え透いた時間を稼ぎなど必要はないと遠回しに、そして半笑いで言うエミグランの強引な言い分に対して言い返せる材料もなかった。こちらの都合など全てお見通しであるかのように。
嘘は一度破れば次にまた嘘をつかなければ辻褄が合わなくなる。これ以上入国拒否を破った行動の追及は、エミグランに突っ込みどころを与えてしまうとアグニス王は話題を変えた。
「……まあもう過ぎた事だしさ、次の話にしようか。聖書記ちゃんの事だけど……ちょっと今の状況だと受け入れとかさ、色々と問題あるよね、お互いにさ?」
「うむ。それは同意する。」
「でしょ? だから少し時間を開けたいんだよねぇ。受け入れ体制も整えたいしさ……でもあまり伸ばすこともできないから日程は決めたいけど、こっちで決めてもいいかな?」
「かまわんよ。護衛はこちらで決めさせてもらうが、よいかの?」
思わずアグニス王は柏手を打って満面の笑みで頷いた。
「もちろん! いやー話が早くていいね。こう言うスパッと決めれるようになりなさいよ? 君たちも。」
スルア大臣とヤーレウ将軍にこれ見よがしに何かをつつくように指を指し、肩を揺らして笑った。
「じゃあこれで話は終わりだね! いやー建設的かつ効率的に話ができてよかったよ!」
と、リオスの肩を何度も叩いて大声で笑うアグニス王にエミグランが水を差す。
「まだじゃよ。わしの方から聞かねばならぬ事と言わねばならぬ事があるからの。付き合ってもらうよ。」
エミグランの口元が緩む。
「それ、今日じゃないとダメかな?」
めんどくさそうにアグニス王は聞き返したが
「残念ながら今じゃな。」
と、またにべもなく返す。
「もしダメって言ったら?」
エミグランは含み笑って
「なら何も言わずにわしの好きにさせてもらうことにするよ。文句は言うまいね?」
と答えた。
そんな事はエミグランとリンを除く全員が認めるわけにはいかないと王の方にそれだけは避けて欲しいと視線を向けた。
アグニス王は視線から察したようで仕方ないと鼻で大きく息を吸い込んで。
「仕方ないから聞こうかね。うん。面倒なことされても困るだけだしさ。」
と、面倒くさそうな表情を隠そうともせず片眉を上げてエミグランに愛想笑いをした。
「ご理解感謝するよ。」
エミグランは魔石を取り出しアグニス王に見せた。
緑色に輝く魔石の真ん中には、十字架の先端が尖り真ん中が丸く膨れているような模様があった。
アグニス王もリオスも見覚えがあった。ヤーレウ将軍も近づいて魔石を見てすぐに眉間の皺がさらに深くなった。
「これは……人体魔石だね。何故エミグラン公が持っているのかな?」
何故エミグランが持っているのか。アグニス王らは全員同じ事を思った。
スルア大臣は動けぬ身で顔が青ざめる。
「リンよ。全部出しなさい。」
「はい。」
エミグランがリンに命ずると、歩み寄ってメイド服のスカートを膝まで持ち上げた。
途端にスカートの中から大量の魔石が落ちてきた。
床を激しい雨のように降り注ぐのは水滴ではなく石だ。床から鼓膜を劈くような激しい音にアグニス王は指で耳栓をした。
「何なんだよこれは!」
アグニス王の叫びは音にかき消されて誰も聞こえず、魔石を最後の一つまで出し切ると、リンは一礼して魔石の山を跨ぐようにして下がった。
ヤーレウ将軍は魔石を拾って見ると、エミグランが持っていた人体魔石と同じ物だった。近くにあったものも検めると、全て同じ模様の人体魔石だ。
「……こんなに大量に……」
「これは昨日わしの屋敷に入った賊と、ドァンク街で屋敷の住人を襲ってきた賊から取り出した魔石じゃ。この魔石が何の用途で使われるかは知っておるよ。まずはお返ししておく。」
スルア大臣は身が固まった状態だが、アグニス王の顔色が変わったのを見逃さなかった。
エミグランは人差し指を立てて、ぐるりと回すと、金縛りが解けて全員が動けるようになった。
「ここからは首脳会談としたいのでね。人払いを願いたいのじゃが……」
人体魔石をエミグランが持っている事すら緘口令を出さなければならない次元の話だが、大量の魔石の前に噂は止められないだろう。
金縛りが解けて各々が体の自由を確認しているところを、アグニス王は手で追い払うように振ると召使達は礼もそこそこに小走りで走り去っていった。
一瞬の静寂ののち、スルア大臣がようやく重い腹を持ち上げるように立ち上がると、アグニス王の横に小走りで移動した。エミグランの眼前には、リオス、ヤーレウ将軍、アグニス王、スルア大臣と並んで、テーブルと椅子があれば首脳会談と言える並びになった。
アグニス王は、もう誰もいない事を見ろと言わんばかりに両手を広げた。
「……さあ、これでいいかな?エミグラン公。」
「うむ。立ち話で長く時間を費やすのも年寄りには堪えるのでな。簡単に終わらせよう。」
「うんうん。時間は有限だからね。我々人間にとっては。手早く終わらせよう。」
エミグランは持っていた魔石をアグニス王に突きつけた。
「この魔石を埋め込んだ者達がわしの屋敷を襲った……これは誰の差金じゃ?」
アグニス王は人体魔石の責任者であるスルア大臣を見た。額に玉のような脂汗をかき、首を小刻みに横に振る。
「し……知らない……知らない知らない! 私はそんな命令は出してはいない!」
「でもさぁ……これだけの人体魔石……そもそも門外不出でしょ? 当たり前のことだけどさ、員数管理できてるよね?」
アグニス王は足元に転がっていた人体魔石を拾ってスルア大臣に見せつける。
「は……はい!それはもちろん……」
「じゃあどう言うことよ?これ、国防にも関することだからね? エミグラン公の受け売りじゃないけどさ、嘘をいうなら……」
「し、知らない! 本当に知りません!」
スルア大臣の懸命な弁明は嘘のように見えなかった。
「ヤーレウ将軍は何か知ってる?」
「……知りませぬな。そんな大量の人体魔石を我々の部下に使う事は認めておりませぬゆえ。」
「だよねー。じゃあやっぱり盗まれたんじゃないの?」
スルア大臣は言葉も出ずに首を横に振るだけだった。
各々の反応からエミグランは、ここまでの襲撃はアルトゥロの独断でヴァイガル国は関与していないと判断して続けた。
「まあよい。責任問題の追求はわしが帰ってからにしてくれ。」
「そ……そんなぁぁ……」
人体魔石が大量に流出して、その管理者であるスルア大臣の問責は誰が考えても必須だった。
情けない声で項垂れるスルア大臣を見て口元を緩めたアグニス王。この王はどうやら人の不幸がたまらなく好物らしい。
「……次じゃ。昨日、わしの屋敷におったイシュメルとユーシンが殺害された。」
一同は突然の訃報に驚きを隠せるはずがなかった。
アグニス王は一瞬沈黙して話し出す。
「……へぇ。それはお悔やみ申し上げるよ。付き合いは聖書記ちゃんの取り決めの時に議論をたくさんしただけとはいえ、ドァンクの代表だもんね。」
アグニス王は心の動きを悟られないように振る舞ったのに対して対照的なのはヤーレウ将軍だった。
「……イシュメル殿が……殺害された……そんな」
ヤーレウ将軍は見るからに相当にショックを受けていて信じられない様子だった。
「ヤーレウ将軍はイシュメル公の護衛してたもんね。思い出もあるんじゃないの?」
「……はい。突然の事に言葉もございません。」
「それで、うちの国が何かしたとで……」
アグニス王の言葉が途中で止まった。
同時にリオスとヤーレウ将軍は、王の前に立つ。
二人とも剣の抜けるように右手を柄に添えたが、二人ともガダガダと不自然なほどに身震いが止まらなかった。
エミグランの瞳が、いつのまにか純黒に染まり、リオス達が金縛りにあう前のように口角が目尻のほんの少し下まで吊り上がっていた。
初めて見るアグニス王は、ヘラヘラとした態度などとれるはずもなく、純黒の瞳をみて本能的に危険を感じて、なぜか瞳に吸い込まれないように後退りする。
「……エミグラン……公……?」
唖然とするアグニス王の様子は完全な無防備だった。
エミグランが何をするのかわからない危険な状況から王を守るべく、ヤーレウ将軍は震えを一瞬だけ止めるように、はぁッ! と喝を入れて剣を抜きエミグランを正面から薙ぎ斬る。
だが、リンはすでにスリットからククリナイフを両手に持ってヤーレウ将軍の剣の軌道に合わせて弾こうと前に出た。
キィン!
甲高い金属音が響くと、剣の軌道を止める事はできたが、リンはヤーレウ将軍の繰り出した勢いのついた剣を弾くと、後ろに押し出されるように飛ばされる。
ヤーレウ将軍も斬るために勢いよく振った力の一部が手首に返って顔を歪める。
「くっ……」
一瞬の攻防の間に、純黒の瞳から黒い筋が垂れるように下にゆっくりと垂れて床へ落ちると、エミグランの足元に一瞬のうちに黒い水溜りが大理石で磨かれた床を侵食し始めていた。
純黒の瞳のエミグランは、裂けて吊り上がった口を動かして
「血の繋がりは無いとはいえ、身内を殺されて穏当ではおれんのでな……正直に答えよ……二人を殺したのはお前たちか?」
エミグランの足元に広がった黒い液体がうねり出し、巨大で真っ黒い腕が水面から伸びた。
「ひいいぃぃぃぃぃぃ!!」
スルア大臣は目の前に巨大な手が置かれると、尻餅をついてガチガチと歯を鳴らして震え上がる。
目に見えて震え上がるのはスルア大臣だけだったが、騎士団であるヤーレウ将軍たちも恐怖がまさって動けずにいた。生存が危ぶまれる恐怖に人は硬直する。逃げなければと頭でわかっていても動けない。動けば死ぬわけではないとしても、呼吸すら命取りのように小さく、速く、荒くなる。
恐怖は体の反応、平常心は呼吸で取り戻せるとヤーレウ将軍は、恐怖に押しつぶされそうな心と体を呼吸で整えようとしていた。
――エミグラン……大災の魔女の時代から生きているとはいえ、なんと言う力を持っているのだ!……――
スルア大臣のエミグラン評は間違っていた。力が衰えているらしいが、今にもエミグランが望めば瞬間に五人とも殺される事が間違いないと感じられるほどの術を見せている。
そもそもこの黒い腕が術なのか生物なのか幻覚なのかもわからない。
そして、もう一本のウデが黒いミ水面から形作るように這い出てくると堰を切ったように次々とエミグランを中心に何本もの巨大な腕が黒い水面から生えて床に巨大な手のひらを置いていく。
ヤーレウは八本の腕が出てきたところまでは数えたがエミグランの足元の黒い液体から丸いものが浮き上がってくるとそちらに視線を奪われた。
――これは……頭……か?――
エミグランと同じ純黒に染まった目がぎょろぎょろと球体にぐるりと取り囲むよう帯状にあり、球体が頭だとわかったのは、たった一つしかない口まで出てきてからだった、明らかに多い人間の目、一つしかない口があり、配置された位置でそれがかろうじて人の形と識別できるが、これは人の形を模した巨大な化け物だ。
アグニス王やスルア大臣は腰を抜かして魂が抜けたように黒い化け物を見て口を小刻みに動かすことしかできず逃げることなどできるはずもなかった。
ヤーレウ将軍が呼吸で恐怖を和らげて、黒い涙を流すようなエミグランに剣を向けた。
「エミグラン! 我々ヴァイガル国はイシュメル殿を亡き者になどしてはおらん! 言いがかりだ!」
「……」
「今すぐにその黒き者を収めぬならば、斬る!この命を賭して!」
斬れるかどうかはわからなかった。
勝ち目などないとさえ思った。
だが、騎士団として王をみすみす殺されてしまうくらいならこの命に換えても守る、とヤーレウ将軍は三人の前に立ち、両手で剣を握り込んだ。
エミグランのどのような動きにも素早く対応できるように腰を落として、何としても王だけでも守ってみせると固く心に決め、エミグランの純黒の瞳を見据えるとその視線に反応するように黒き者の無数の目がヤーレウ将軍に向いた。
嘘は言っていないかを見抜くように、黒い目はそれぞれが意思を持ってヤーレウ将軍の隅々をくまなく品定めをする。
呼吸の変化、汗のかき方、唾液の分泌量、体温の変化、瞬きの回数、目の動き、末には心拍数までも、全てを舐め尽くすように見定められた。
「…………よかろう。」
黒き者はエミグランの容認の返事の後に、腕も頭も黒い水面に吸い込まれるように消えてると、エミグランの瞳に逆戻りした。
城内には静寂が戻った。先に口を開いたのは、元の瞳に戻って可愛らしく微笑むエミグランだった。
「……そなたの決死の覚悟に免じて信じよう。」
アグニス王は心底打ちのめされていた。エミグランの話はヴァイガル国に残っているものはおとぎ話のようなものばかりで、現実に起こることさえ疑っていた。
だが、まざまざと見せつけられた。効率よく国を運営するためにさまざまな無駄を省いてきたし、騎士団を解体したものの、人体魔石での戦闘能力の向上を狙い、効果を得て運用しているが、これまでに見たことのない脅威が、今目の前で微笑むたった一人の女に覆されようとしていた。
信じられなかった。
歯噛みした顔は見せられぬと口元を手で隠して憤慨の気持ちを噛み潰してから口元をいつものように緩める。
「いやぁ……恐れ入ったね。すごいねエミグラン公は。」
エミグランへの賛辞は絶対に言いたくはなかったが、言わざるを得なかった。
「……国との話し合いは対等な立場……言い換えれば力がないと成立せぬからの。」
「いやぁ、僕ぁ馬鹿にはしてないよ。まあ種明かししちゃうと時間稼ぎも何もかもそこの大臣の入れ知恵でね……」
「……!!」
今それを言うかと大臣が目を見開いてアグニス王を見た。
「とにかく、国としてドァンクに何かしようとしてはいはい……もちろんイシュメル公とユーシン君を殺してもいない。僕たちには何のメリットもないんだ。それは分かってもらえただろうか?」
黒き者で存分に全員の真実を吟味したエミグランは全く異論はなく
「うむ。よく分かった……じゃが……」
「何か異論でも?」
「アルトゥロがおらんな。」
スルア大臣は心臓が口から飛び出そうなほど驚いた。
――何故……何故アルトゥロを知っているのだ!――
スルア大臣の参謀として名前は一切表に出していないはずのアルトゥロの名前がエミグランの口から出て驚かないわけがなかった。
もし人体魔石流出の件に一番関わっている人物がいるとすればアルトゥロしかいないと思っていたからだ。
「……まあよい。いずれ相見えることになろう。わしの聞きたい事は以上じゃ。少々疲れたのでこれで御暇させてもらうよ。」
エミグランが帰る。一番安堵したのはスルア大臣だった。手を揉みながら。
「そ、そうですかそうですか!大したもてなしもできずに失礼いたしました。なにぶん突然のご来訪だったもので……」
と低姿勢で言うとエミグランはスルア大臣の目の前に二本指を立てた。
「……言いたい事が二つある。」
「へっ?」
「一つ。お主に警告しておくぞ大臣よ。甘美な夜に毒はつきものじゃ。ゆめゆめ気をつけることじゃな。」
「……!」
――あの女……か!――
「二つ。イシュメルがいない今、ドァンクには代表がおらん。手続きは経ていないが、わしがまた取り仕切る事になろう。よろしく頼むぞ。王よ。」
エミグランが貴族会に復帰する。スルア大臣はエミグランがヴァイガル国に入国した目的がようやく見えた。
どこからか人体魔石の情報を入手してヴァイガル国に牽制に来たのだろう。
大量の人体魔石を保有する理由は、他国よりも強い武力を持つ事が大前提で、副産物として力をちらつかせた頭一つ抜きん出た外交ができることを目的としていた側面もある。
ドァンクにはそれは通用しないぞと楔を打つ事が目的だった。
王の心象はおそらくドァンク恐るべしとなっているに違いないだろうし、聖書記をドァンクから引き剥がす事も容易ではなくなった。
エミグランが二百年ぶりに入国した理由は
ヴァイガル国の武力を封じるため。
エミグランが自分の手の内を明かす事でいつでも衛兵や騎士団の命を奪う事ができることを見せつける事が抑止力となる。
少なくとも召使から発せられる噂はヴァイガル国に広まり、ドァンクとの武力対立の話が浮上すれば国民からの信はえられない可能性が高い。
衛兵も全て国民なのだから。
となると王はドァンクを同等の国として扱うしかない。スルア大臣は王の視線を感じて頷いた。
「ん……あ、ああ。わかったよエミグラン公。」
そう肯定するしか今のところの手立てはなかった。
「わしは甘くないのでな。気を悪くしたらすまんの。」
「いやいや、そんな事はないよ。エミグラン公のとっておきも見せてもらったみたいだしさ。」
「……フフフ。手の内はまだ明かしておらんよ。」
「……!!」
まだあれ以上の何かがあるのかとスルア大臣やリオスは青ざめた。
「それでは失礼するよ……リン。帰るぞ。」
「……はい。」
エミグランとリンは振り返ってゆっくりとヴァイガル城から並んで出て行った。
エミグラン達が城から出ていくと、まずスルア大尽が大きなため息をついて安堵して
「エミグランめ……」
と恨めしそうに言うと、アグニス王の奥歯が噛み締められ、まるで歯が割れたのではないかと思うほどの音が鳴った。
「……なんだよあの女……僕の代で復帰ってさぁ……あれかな? バカにしてんのかな?わざわざ来てさ。」
怒りを表情に僅かに見せているが内心生きてきてこれまでの屈辱はなかったとアグニス王は憤っていた。
「あ……アグニス王……すぐに対ドァンクの対応を……」
「当たり前だよ!」
「ひぃぃ!」
あまりの剣幕にスルア大臣は情けない声で後ずさる。
「ヴァイガル国は最高でなければならないんだよ……どの国よりも強くあらねばならないんだよ! そのためにどの国よりも金をかけて力をつけてきたんだよ! 人体魔石もその一つだろ!」
「は、はいぃ!」
直立ででっぷりした腹を前に突き出す。アグニス王は苛立ちが沸々と湧き上がり、その場で地団駄を踏んだ。
「くそっくそっくそっくそっ!!ドァンクのクソ田舎者にバカにされるとは!!」
見かねたヤーレウ将軍がアグニス王に声をかけた。
「王よ。今は今後の対応を考えましょう。すぐに赤光の間に参りましょう。」
地団駄で肩で大きく息をするアグニス王は
「うん……うん、そうだね。」
と答えると
「スルア大臣!」
「は、はいっ!」
「後でアルトゥロ君に会わせてよ。言いたいことが山ほどあるんだ。」
「あ……アルトゥロですか?」
「そうだよ。拒否は許さない。その首がかかってると思っておくんだね。」
「そ……そんなぁ……」
アグニス王は足早にその場を後にすると、リオスとヤーレウもスルア大臣の方を見ずに王の後をついて行った。
城の外では数名の衛兵が警備で歩いていたが、エミグランを見るなり慌てて逃げるように走り去った。
外は日は高くなり、景色は光が満ち溢れ昼の様相になりつつあった。
馬車に向かって歩いていると、エミグランがふらっと体勢を崩した。
「……!」
すぐにリンがエミグランを支えた。
「大丈夫ですか。エミグラン様。」
「うむ。久方ぶりに力を使ったのでな……副作用じゃな……」
「すぐに屋敷に戻りましょう。」
リンの肩を借りて力なく姿勢を戻す。
「せっかくヴァイガル国に来たと言うのに……できればミストにも寄りたかったが……無理じゃな……」
「エミグラン様……!!」
力無いエミグランの様子に驚くリンは、エミグランをだきかかえた。
「大丈夫じゃ……少し……」
口を小さく動かすエミグランの声が聞き取れず、口元に耳を近づける。
「少し……寝る……」
と言うと、エミグランは脱力してまるで子供のような寝顔でリンに寄りかかった。
すぅすぅと聞こえるエミグランの寝息を聞いて、ほっとした後、あまりにも可愛らしい寝顔に思わず微笑んだ。
そして
「お疲れ様でした。エミグラン様。」
誰も喜ぶことがない帰国にリンは小さい声で労うと、子供を抱えるように横抱きにして、ゆっくりと馬車に向かった。




