第3章 7 :爪を噛むほどに
ユウトが昏睡状態になって初めての朝。清々しい空から降り注ぐ太陽の光を喜ぶように鳥たちのさえずりは、まるで会話しているようにさえ聴こえていた。
アシュリーはユウトの部屋で看病しているレイナに簡単な朝食と、昏睡状態でも口から栄養を取れるように果実をすりつぶして作ったジュースを作って、ユウトの部屋に向かっていた。
だが、アシュリーの顔は明るくなく、どこか部屋に向かうのを躊躇うようにため息混じりで向かっていた。
昨日、レイナからユウトの面倒を私が見ますと宣言された時、リンは特段変わらない様子で了承していたが、アシュリーは自分たちの仕事に不満があるのかを知りたくてレイナに問うと、そんなことはないと全力で否定された。
レイナがユウトに固執する理由をわかりかねていたアシュリーは納得はしていなかった。
そんなアシュリーには一つ負い目があった。ユーシンとレイナがヴァイガル国で行方がわからなくなっていた時の勘違いの事。
ヴァイガル国でユーシンとレイナが二人どこかに消えてしまい、その後合流したレイナが、ユーシンと居なくなってからの出来事を何も言わなかったという事もあるのだが、ユーシンとレイナの間に男女の関係を感じたアシュリーは、レイナを拒絶した。ユーシンの女癖の悪さを聞いていたし、それを裏付ける行動や言動をしっていたからだ。
あとになってユウトやローシアから、あの日の本当の事を聞かされていたが、目に見えるものを信じるアシュリーの性格から、疑念として残り続けていた。
アシュリー自身もこの性格は自分のことではあるが、人を信じられなくなることを自覚しており、正直なところ嫌な部分だった。
そしてレイナに対し、言葉では謝罪をしていないことが心残りになって、二人にまともに顔合わせする事が憚られるほどのしこりとなりつつあった。
もし今、レイナに声をかけられてもメイドとして対応はできるが、アシュリー個人としてはまだしこりが原因でまともに向き合う事ができない確信があった。
このままでは、クラステル家のメイドの一員としても、特定の人物だけ扱いが違う事があってはならないと思っていたアシュリーは、レイナと一対一で話すタイミングを探っていたが、今朝がまさにチャンスだ。
ユウトがいるとはいえ昏睡状態だ。
レイナと二人で誰にも聞かれることなく話すには、仕事として食事を持って行く今こそ絶好のタイミングと言える。
部屋に向かいながら、どう切り出すべきかを頭の中でシュミレーションをしていた。
まず、開口一番謝罪から入ろう。それでレイナの反応を見ながらどのように展開するかを考えて……と、アシュリーは、レイナとのやり取りをある程度のシミュレーションをして、ユウトの部屋の前に到着した。
大きく息を吸って心のしこりを握りつぶすようにスカートの横を強く握って
「……よしっ」
と密かに気合を入れてドアをノックする。
……
だが反応がなかった。もう一度ノックしても反応はなく、いないことはないはずと思い、ゆっくりとドアを開けた。
「……失礼いたします。」
ベットにはユウトが横になっていたが、レイナの姿はなかった。
「……いらっしゃらないのですか……」
少し気が抜けた。いないなら仕方ないと本来のメイドの仕事を完遂すべく、ワゴンからレイナの食事とユウトのすりおろした飲み物をお盆に乗せて部屋の中に入りテーブルにおいた。
すると、ベットでもの音がした。
――えっ! 目覚められた!?――
レイナがいない間にユウトが目覚めたのかと振り返ると、体を起こしていた。
レイナが。
「???!!!!」
アシュリーは絶句して顔を赤くした。
レイナは寝ぼけ眼で目をこすり、手探りで香を入れた袋を探して、香炉に足すと、四つん這いでユウトをまたいでベットから降りた。
「……あ、おはようございます。」
何も気にすることもなくアシュリーに挨拶をするレイナ。
何もかもが気になるアシュリーは両手で顔を抑えていたが、恐る恐る手をのけると、女性らしい体のラインがほのかにわかるネグリジェ姿のレイナがにこやかにこちらを見ていた。
不浄な!!という言葉を飲み込んだアシュリーは
「ななななななななな、何をしてるんですか……」
と顔を真っ赤にさせながら聞くとレイナは首を傾げて
「何……ってユウト様の看病ですよ?」
「かかか、かかか看病って……いいいいい一緒に……一緒に……その……」
「一緒に? なんでしょうか?」
「一緒に寝る事が看病なので……しょうか……」
「看病……というには違うかもしれませんね。確かに。」
気の抜けたような笑顔で答えるが、アシュリーは納得いかず。
「でしたら何故!?」
なぜ勘違いするようなことをするのか、と言いたかったが続けられなかった。
自分が勘違いしてレイナを一度追い詰めてしまった負い目があったからだ。
「何故かって……大切な人をお守りする事が私がいますべきことだからですよ?」
というと、レイナはユウトに振り返り、ユウトの目から垂れる涙を拭き取った。
「昨日からずっと涙を流しては、震えるのです。きっと怖い思いをされている。そのくらいしか私にはわかりません。でしたら私がすべきことは、お側にいて少しでも長くいること……絶対に一人にさせないと私は誓ったのです。」
「……」
アシュリーは自分を殴りたくなるような衝動に襲われた。
ーー何を考えているのだ私は……レイナ様はユウト様の事を慮って行動されているのに、また私は同じ失敗を繰り返すところだったじゃないか……ーー
レイナは続けた。
「夜になると、ユウト様の体が震えだしたのです。おそらく何かに怯えている……私は怖い夢に怯えているように思えて、ユウト様を抱きしめて背中を叩くことしかできません……それしかできない……それがすごくすごく……悔しい。」
レイナは自分の力が何も役に立たないと歯嚙み拳を握りしめる。
「私はユウト様のお側にいると誓いました。こんなことを他の誰かに任せるなんて考えられない……ユウト様は、私がお守りすると決めたのです。」
アシュリーは自分が情けなく思った。レイナは確固たる決意でユウトを守ろうとしている。それなのに自分は、また同じことを繰り返そうとしていたことを。
そしてアシュリーはあることに気がついて、恐る恐るレイナにたずねた。
「……もしかして、レイナ様はユウト様のためにその身も心も捧げられるつもりですか……」
レイナは、アシュリーをまっすぐに見つめて
「ええ。」
とにこやかに答えた。
アシュリーはレイナの出した答えに自らも何かを得て、この場にいてはいけないと、レイナに退室の挨拶もそこそこに部屋を飛び出していった。
食事を持ってきてくれたお礼を伝えきれずに部屋を飛び出していったアシュリーに首を傾げて見送った。
部屋を飛び出したアシュリーは、ドアの横の壁に持たれて、呼吸荒く天井を見つめていた。
――……あのレイナ様の決意……あれはまさしく主君家臣を越えた情……純愛だわ!
身も心も捧げる覚悟なんてとっくにできていると言わんばかりのあのレイナ様の目……まちがいなく純愛のソレでしたわ……
なんて……なんてステキなの……
ユウト様を想う気持ちだけで、他の人は全く気に求めない奉仕の心…… メイドも到達し得ない個人への情愛……
あんなの見せられたら……――
アシュリーは顔を赤らめて、何かを妄想し始めた。
――ステキ……ああ……なんて素晴らしいの……あの二人……
何も邪魔されない二人だけの世界……
決して他人が覗くことができない愛の霧中……ーー
こうなってはユーシンがどうとかこうとか言うレベルではなく、あるわけがない。という結論が自然とはじき出されて、アシュリーの脳内には、薔薇の花に囲まれたレイナとユウトが手を握りあい、お互いを愛しく見つめ合う姿しか思いつかなくなってしまった。
――はああああ……ステキ……ーー
アシュリーは完全純愛が特効だったようだ。
――こうなれば、メイドの立場を逸脱していると指摘されても、あのお二人の純愛を見守ります! 誰にも邪魔なんてさせない……ーー
密かに二人に心強い味方ができたことなど、誰も知る由もなかった。
**************
――ヴァイガル国 噴水前
朝の忙しさから開放された大通りは、いつもの城下街の顔になって、人々が行き交っている中、レオスが軽装で歩いていた。
久しぶりの休みを満喫するため、いつもの休みならまだ寝ているが、体がせっかくの休みがもったいないと勝手に目が覚めた。
今日の日差しにはぴったりの装いで、見ただけでは騎士団長と見られないだろう。
腰に剣は携えてはいるが、念のためで装備しているもので、余程のことがないと抜くつもりは全くない飾りと抑止力のつもりだった。
正装していないと衛兵隊長クラスでないと団長としてバレることもないのでのんびりできると背伸びをした。
だがエオガーデがやられてからは城内での調整で忙しくしていたレオスは、ようやく十日ぶりに取れた休暇に、朝から酒を飲める店でも行こうかとうっすらと計画はあった。
噴水の縁に腰を掛けてもう一度思いっきり背伸びをして空を見上げると、雲ひとつない空に、今日はいい休みになりそうだと期待した。
と、目の前にリンゴを投げられた。
反射神経のみでキャッチすると、一人の男が立っていた。
「やはり団長ですねぇ……反応がとても良い。」
広角が上がりきった気色悪い笑顔を見せる。
「なんだ、アンタか……なんか用かい?」
男はレオスの隣に足を組んで座った。
この男は大臣のお側付きとして前聖書記が亡くなる前から見かけるようになった。特に紹介はされていない。
裏でコソコソ何かをやっていることは噂で聞いていたが、リオスに興味がなかったので顔だけ覚えていた。
「儀式の方は進んでいるのですかねぇ?」
リオスは投げてきたリンゴをかじってから答えた。
「順調だな。まあ通常の儀式と比べて、ドァンクから数日に一日来るペースだからな。予定より時間はかかってるが、まあそれでもつつがなくってやつだ……にしても甘いリンゴだな。美味い。」
「ほうほう。それは良かった。それで、ドァンクから聖書記を引き剥がす動きはいつ起こすのでしょうかね?」
城内で噂になっている『聖書記候補者を引き入れる』という話は確かに将軍から密かに聞かされた事があった。
厳密にはその話が動き出すのは儀式が全部完了してからの話だ。だが、この男はそれよりも前に行動を起こそうとしているようにも聞こえる。
リオスは無駄な争いは避けるべきというイクス教の教義に基づく信念があった。
下手に答えれば揚げ足を取られかねないのでのらりくらりとかわす。
「そりゃあ……まあ団長を束ねる将軍様や大臣様のお気持ち次第だろ。俺は知らねえ。」
男は気味悪い笑いをして視線をそらした。
レオスはこの男と城内で何度か会っているが、気持ち悪さは変わらない。
「……アンタ、うちの上の人達にかなり気に入られてるみたいだが? そっちに聞いたほうが早いんじゃねーの?」
「いえいえ……そんな話を聞ける立場じゃないですから。ただ私も試したい事があるのでね……いつでも事は起こせますよ。」
さらりと怖いことを言う。
「うちの国と、ドァンクの関係は知ってるんだろ? ならあまり目立ったことをしないほうがいい。火が付けばあとは乾いた草を燃やすのと同じように簡単に燃え上がる。」
「いいじゃないですか……どうせ相容れぬ仲なのであれば……いっその事……」
「早まるなよ。本当に戦争になるぞ。聖書記候補は向こうにいる。困るのはうちも一緒だ。」
レオスは念を押した。この君の悪い男は何を考えているのかわからない。
王族や上層部が決めた聖書記候補の取り扱いは、一旦ドァンク側の要求に従うと言うものだが、あくまで『一旦』だ。
王族や大臣クラスがドァンク側に聖書記候補の主導権を取られていることを遺憾に思っていることは、衛兵より上の人間であれば誰でも簡単に透けて見える。
王族の聖書紀への執着は理解はできるが、思い通りにいかないからと言えども、やり方があまりにも力尽くすぎる事に違和感はあった。
聖書記選でエオガーデを出したことがその証左。命令は聞いてはいないが、エオガーデを出したという事は間違いなく命を奪う事を目的としていたはずだ。でなければエオガーデが何も不満も漏らさずに出るはずはない。
候補者を殺す命令を出してなんのメリットがあるのだろうか。とレオスはヴァイガル国の政治的な判断に疑問があった。
このやり方では、例えうまく行っても聖書記候補を抹殺した噂が広まろうものなら政治的な混迷に拍車をかけるだけだ。
現に国民までに情報は降りてはいないが、先送りの判断をしている事に問題は目を閉じていると言われても仕方ないだろう。
だが、未来のことなど考えてもわからるはずもない。団長といえども上の決めたことに従うしかない。
レオスは声をかけてきた男にもう少し話を聞き出そうと思った。
「ところでアンタ、なんの仕事してるんだい? たまにしか城の中にいるところは見かけないが。」
「……あまり聞かないほうが良いですよ。」
「もったいぶるなよ。団長の仕事なんて言わなくても子供だって知ってる。俺の事は想像のとおりだ。だが、アンタのことは知らねぇ。俺に話しかけて来たってことは何か知りたいことがあるんじゃねぇのか?」
男はまた笑い出す。
「さすが団長様ですね……私の仕事は、まあいろんなことを調べる事でしてね。そのためにレオス団長にお話を聞きにきたのですよ。」
「ほう? 俺になんのようだ?」
「……お聞かせ願いたいのですが、エオガーデ団長がやられた時に何を見ましたか?」
なるほどその件か、と相手が相手でなければ舌打ちをしていた。
『首を回収した後の報告では、エオガーデが内部から爆発した。死因は魔術の類と思われる。』
としていた。この男は、それがなにかの隠蔽ではないかと疑っているのだ。
「あのやられ方は、中から爆発したのではなく、圧死のようなものでしてね? もしかしたら団長様がなにか隠していないのかが気になりまして……」
リオスの顔を顎をなでながら覗き込む男の顔は、まるで真実を知っているように見えた。だが、リオスはあの場にこの男がいないことは知っていた。あの時周りに誰もいないことは確認していたし、そもそもエオガーデに近づく奇特な関係者はいないはずだ。
「俺は直接その瞬間を見たわけじゃないからな。爆発音がして行ってみたらもう終わったあとだ。」
「なるほど、つまりアナタは死の直前を見ていない……ということなのですね。これはこれは……」
意味深に顎に手を当てて気味悪くニヤつく。
「……俺を査問にかける気か?」
「……いえいえ。私だったらレオス様のお立場ならどのように判断するかを考えていました……確かにあのように詳細を調べられない状態で凄惨なエオガーデ団長の状態を見たら、音の情報だけで爆発と判断してもやむを得ないかなぁと。それに私が団長を査問にかけるような進言を聞き入れてくれる大臣様ではないので……」
大臣のと将軍の関係はあまり良くない。
知識と力の相反する関係は、お互いの専門分野が違う事や、国防で最前線に立つ武力の将軍管轄の組織に対して、剣も握らない大臣管轄の組織は、人間関係も相反するらしくお互いの組織について口出しはしない。口出しするときはそれ相応の覚悟が必要だ。
当たり前の事にレオスはため息交じりに
「だったら、聞くなよそんな事。」
と言うと
「いえね、私少し懸念がありまして、あの事件、もしかしたら……という些細なものなのですが……」
と男はしゃべることを躊躇うように下を向いた。
「なんだよ、もったいぶるなよ。」
「……ここだけの話にしていただけますか?」
急に神妙な面持ちになり、それほどのことなのかと興味と不安が一緒になって湧き上がる。
「ああ。構わんよ。」
「……あの事件……全てを知る者が起こしたのではないかと思っているのです。」
「!!」
思考が停止して持っていた食べかけのリンゴを落としそうになる。
「……本当か?」
「……ええ。あくまで懸念ですが。」
「冗談だとしてもこの国の安全を脅かすような発言は認められんぞ。」
にわかにレオスが殺気立つ。
全てを知る者はこの国の敵だとされている。
それこそドァンクや聖書記何かと比べもろにならないほどその優先度は高い。見つかり次第殺害の命令になるだろう。
「……ですからあくまで懸念ですよ。冷静に考えてみてください。団長レベルの戦士がそこら辺の人間や獣人にあんな形でやられるようなものでしょうかね? 同じ団長でも難しいのでは?」
たしかにそのとおりだ。資材置き場で見たあの戦闘は、エオガーデの慢心もあっただろうが、あそこまで一方的にやられるのはよほどの力の差がないとありえない。
まるでこの世のものではない何かが突然現れたという方が適切だ。ヴァイガル国の騎士団長が、例え性格に難があったとしても簡単に敗れ去ることなどあってはならないし、そうなる者を団長に指名などしていない。
「それに、それを見ていたのかもしれないアナタが何も報告しないのはおかしいのでは?と疑問に思いましてねぇ……本当になにも見ていないのですかねぇ?」
まるで何か確信があるかのように顔を近づけて回答を待つ奇妙な男。レオスは心の底から気持ち悪がった。その顔を早く背けさせるためにこれまで繰り返してきた回答を述べた。
「……言ったとおりだ。俺は何も見ていない。音を聞いて駆け付けただけだ。」
レオスの主張はこれまでと一貫して変わらない。
男はつまらないと言わんばかりに顔を背けて立ち上がった。
「まあいいでしょう。あくまで懸念ですし、私が大臣様に上申して受け付けてもくれないでしょう。何か根拠がないと、ね? それにあの夜の真実はあなたの中にあるのでしょうけど、それを知るすべはありませんからね……私は私のやるべきことをやるだけです。」
「……無茶なことはするなよ。この街を戦火に陥れるような事だけは許さんぞ。」
レオスは殺気を隠すこともなく男に叩きつけるが、効果はなかった。
「んー……私は私の正義に従うだけです。この世界が安寧に包まれることを切に希望しておりますので。ええ。ええ。」
はぐらかされたような回答だった。
「あー、あとエオガーデ団長のことですが、私の方で回収されたことをご存知でしょうか?」
エオガーデの遺体は大臣に引き渡されたという話は伝え聞いていた。将軍は反対したらしいが、王の一言で決まったらしい。
「……正直、気に入らんがな。」
「彼女はとても素晴らしい団長でした。そして素晴らしい能力の持ち主でした。彼女はぜひともプラトリカの海で洗礼を受けるべき人材です。ですから私に預けられました。」
「プラトリカの海?」
「ええ。そこで彼女は洗礼を受けて、顕聖となるべき人材です。」
「顕聖?」
聞いたことのない言葉が2つも続いた。
「何を言っていってるのかさっぱりわからんな。」
「……面白くないじゃないですか。こんな世の中は。」
「何?」
含み笑いをしながら気味悪い男はレオスにまた顔を近づける。
「……私は私の思う安寧を目指すのですよ。地上のすべてに祝福を。そう願うのですよ。」
気持ち悪い笑い方もそうだが、何を考えているのか検討もつかないこの男に寒気がした。
あまり見たくもないその姿に目をそらし、行き交う人に視線を向けた。
この男は記憶しておくべきだ。リオスの感がそう警鐘を鳴らす。
「……アンタ、名前だけ教えてくれないか?。」
「私ですか?私のことなど覚えなくても……」
「いいから……教えろよ。」
怒気を込めたリオスの声に、男は仕方ないと言わんばかりに指を立ててリオスに振り向いて、深々と頭を下げながら名乗った。
「私は、アルトゥロ。アルトゥロ・ロドリゲスです。どうぞお見知りおきを……」
「……覚えておく。」
「それては? ごきげんよう……ええ。」
アルトゥロはそのまま歩いてどこかに行ってしまった。
リオスは思い出した、あの新緑の右腕の少年を。
――あいつが全てを知る者…… まさかな……――
全てを知る者は、黙示録に現れたカリューダの最後の言葉に記された渾名だ、
もしあの少年が本当に全てを知る者だとすると、魔女の影響が魔女なき今に現れる事になる。
魔女によって深刻な影響を受けたこのヴァイガル国で、全てを知る者の存在が認められるはずはない。
もしアルトゥロが、本当に全てを知る者がいると上申してうけいれられていたら、今頃あの少年を草の根分けても探し出す命令が下っているだろう。
だがそんな命令など聞いてはいない。つまり、まだ全てを知る者の懸念は上層部にはないということだ。
とはいえ、報告していない事についてここまで深く追求されるとは思っていなかったレオスは、あのアルトゥロには気をつけないといけないな、と気を引き締めて、噴水の縁から立ち上がった。
「はぁ……休みなのに本当にめんどくせぇな。団長ってよ。」
リオスはアルトゥロとは反対方向にフラフラと酒を求めて歩き出す。
アルトゥロはリオスと別れた後、人々が行き交う中を歩いていたが、笑いが堪えられなくなり、パッと口を押さえた。
このままだと大笑いしてしまいそうだが、あまりにも滑稽で笑えずにいられようか、と何度もリオスの子供のような言い訳がアルトゥロの笑いを誘うように波となって押し寄せて体が震える。
ーークックックッ……騎士団長が内部から爆発とは片腹痛い……私が何も知らないとでも……エオガーデの頭に残っていたあの力は間違いなくーー
アルトゥロは、エオガーデを殺したのは全てを知る者に間違いないと確信していた。
そして、紫ローブの『人形』と呼ばれる者を使って出会った少年が全てを知る者だと確信していた。
そして、全てを知る者がカリューダの黙示録に接触してくるはずだとも思っていた。
ーーその中心にはエミグランがいる。憎たらしいエミグランはが……ーー
アルトゥロは、全てを知る者を欲していた。
まるで長年待ち望んでいたような恋人のように思いこがれ待ち続け、ようやく見つけ、もうすぐに手に入るところまで来ていると思うと興奮が抑えられなくなり股間を押さえた。
ーーああああああいけませんいけません……こんな不浄な興奮は……とはいえ待ちに待ちに待ちにまった人なのです……興奮を抑えられる事ができるはずがありません……ああああああああ早くその体を貪るように調べ尽くしたい……全て全て全て全て全てを……ーー
手で抑えてる口元からは涎が垂れ、目元しか見えないアルトゥロの表情は、まるで快感に頭の先まで浸かったような恍惚そのものだ。
ーー早くその指を一本ずつ吟味したい……早くその胸板の上に指を這わせてみたい……その股間を弄びたい……全てを知る者を……我が身に……ーー
聖書記なんてどうでもいい。全てを知る者以外に興味なんてなかった。
そして、顔は無表情に戻って、手を下ろした。
ーーやはり、やはりやはり待てるはずありませんよね。……何せあのエミグランの元にいるのですから……ーー
アルトゥロは、親指の爪を噛み始めた。
ーーずるいずるいずるいずるい!!私の方が思い焦がれたというのに横からしゃしゃり出て奪い去るとは!!卑劣で小賢しい売国の女狐め!!ーー
次第に噛む爪の本数が増えて五指を全ての爪を激しく音がするほど噛み始めた。
アルトゥロの奇異な姿に行き交う人々も恐れてアルトゥロから距離を取り、怪訝な顔で過ぎ去っていく。
ーー全てを知る者は……私のものです!!その御身……必ずや……ーー
爪を噛みながら気色の悪い笑いが堪えられなくなりついに口から気持ち悪い笑いが押し出されるように漏れ出た。




