第三章 6 :ワインのラベルをご覧になりますか?
ドァンク街きっての歓楽街は、『夜蝶通り』と誰かが名付けた飲食と酒場が集まって所狭しと並ぶ通りのこと言う。
夕闇から夜にかけて明かりが灯り始め、周りが宵闇に眠るように静かになる頃には昼間の賑わいが夜蝶通り移ってきたかの様に騒がしくなる。
獣人や人間関係なく酒に酔い、金に酔い、夢に酔い、女に酔う。
今日も種族関係なく、一夜限りの夢を味わうために来た男達と、夜の世界に生きる女達の思惑が交錯して賑わっていた。
夜蝶通りのど真ん中に、周りの建物より一際大きな建物がある。煌々と外観を派手にライトアップされた『ハニーアント』というキャバレーがある。
夜の世界でしか生きる事ができない者たちは、ハニーアントを中心に生きていると言っても過言ではない。
夜蝶通りに来る人ほとんどの者はハニーアントを知っている。
今日もまたハニーアントの周辺には、示し合わせているわけでもないのに自然と人が集まっていた。
ハニーアントの煌びやかな入り口に常駐している通称『黒服』にボディチェックを済ませて中に入ると、外観からは想像もできないほどの広さのフロアに、種々さまざまな人種が集まって賑やかに楽しそうな声と怒鳴り声にも聞こえるような歌声、酒を飲まそうと掛け声を送る薄手でたわわな体のラインが見えるようなドレスの女達に、鼻の下を伸ばして見る男に飲む男…… 夜の店特有の声の大きさは、一番遠い入り口にまで聞こえるほどうるさい。
そしてハニーアント内を甘い香の匂いが漂い、嗅いだだけで軽く酔ってしまう様な感覚になる。
内装は紫を基調とした造りで、中心には特にライトアップされている一段高いステージがある。
その上では5人程度の妖艶な衣装の女性が優艶な踊りを披露する中、周りを囲うように座る男たちは、隣に座る女と淫靡な一夜限りの関係に酔いしれているようだった。
壁沿いに歩くと別室につながる通路があり、いかつい虎の獣人黒服が立ちはだかる関所を顔パスで通過できると、ハニーアント公認のVIPが使える、間仕切りのされた豪華な席がある。
ユーシンは連日そこに入り浸っていた。
ユーシンが囲うハニーアントのキャストの一人である人間の女性『ノココ』は、ユーシンのここ数日の呑んで荒れている姿を嫌と言うほど見せつけられてもう本格的に嫌気がさすところまで来ていた。
ユーシンは酒瓶を抱えて自分で酒を注いで飲み、女にはほとんど興味を示さなかった。
ノココは流石に飲みすぎだと言わんばかりに不機嫌そうに酒瓶を取り上げようとすると、ものすごい剣幕で触るな!と拒絶した。
ノココは、ユーシンに付いている意味がないじゃないかと思いながらも、ユーシンの飲み過ぎは気になっている。
「もう……飲みすぎると体壊すよ?」
「……うるせぇ」
一応注意はするもののこの繰り返しのやり取りも何度目になるだろうか。閉店間際には足元もおぼつかない様子のユーシンを、数日前から何度も見てきている。
とはいえノココの仕事をしなければ、支配人に怒られるのは自分だ。
ずれそうなドレスの胸の辺りをさりげなく直して、通りがかりの黒服にハンドサインを送って氷を要求する。
サインを見た黒服は目配せで反応すると、すれ違いに三人の客がVIPエリア入ってきた。
真ん中の男の身なりからするとおそらく商人だろう。ヴァイガル国もドァンク街も、一番金を持つのは商人だ。ハニーアントのVIPでもおかしくなかった。残りの二人は付き人のようで商人の男から二歩ほど後ろに付いて来ていた。
ノココは三人とも見たことはない人物だったが、視線はこちらに向けられていた。
そしてノココとユーシンの席の前で立ち止まる。
「すみませんが、ユーシン様とお話がありますので席を外していただけますかな?」
男はとても裕福そうに宝石を纏っていた。ノココは見たことはない人物だが、このエリアに入れること自体が金持ちの証だ。
だが見た目の年齢はノココが知る成功した商人達から比較すると若く見えた。
成功者は大体丸々と太る傾向があると思っていたノココは、男の優しそうな笑顔と醸し出す不思議な魅力に少しだけ惹かれそうになるところを、ハッと我に返る。
ノココはユーシンの方を見ると、商人の事を気にも留めず酒にしか興味がないようで飲み続けていた。今はもうユーシンの相手するのも億劫だったので、商人に軽く会釈して黙って席を外した。
ノココが見えなくなると三人はユーシンを囲うように座った。
ユーシンはようやく人の存在に気がついた様に三人の方を、酔いつぶれる間近のまどろむ目で見た。
「なんだぁ?お前ら……」
「お近づきの印に一杯奢らせていただきますよ。」
商人は付き人に持たせていたワインボトルを出させて、コルク栓を開けさせると、テーブルに備え付けてあるワイングラスに注いで、滑らせてユーシンの前においた。
口直しに別の酒が欲しかったユーシンは、およそワインとは思えないように喉を鳴らして飲む。
飲み干して大きく息を吐くと、思いのほか美味だったらしく
「……意外とうまいな。これ。」
と漏らす。ユーシンの口にあったようでラベルを見てワインの名前を知りたかったらしく、瓶を見せろと手招きした。
「ははは、そうでしょうそうでしょう。私も好きなお酒でしてねぇ……良ければストック分を差し上げますよ。」
というともうひとりの男が同じワインの瓶をユーシンの前に出した。
「フン……それで、俺になんの用だ? 」
と、また商人はワインをユーシンのグラスに注ぐと
「私もよくこの店に来るのですが、ここ最近この席でずっと飲み明かしていらっしゃるようなので……少し心配しましてねぇ……」
とユーシンの目をジロリと見る。
「フン……大きなお世話だ……」
商人は声を出さずに笑い、ユーシンはまた一気に飲み干してグラスを荒々しく置いた。
「まあまあ、まだまだ飲みましょう。夜は長い……」
そう言ってまたワインを注いだ。
注がれた途端、飲みやすさが拍車をかけて、ユーシンはまた勢いよく飲む。
ユーシンの飲みっぷりを笑顔で見守る商人は、空いたグラスにまたワインを注ぐ。
瓶が空になったようで空瓶を付き人に渡すと、また同じワインを取り出してきた。
「人間は生きているだけで悩みは尽きないもの……考える事、思い出す事、人間に与えられた能力は時として自分を追い詰めてしまう……どうしてそのような自分を苦しめることができるように人は作られているのか、不思議なものですねぇ……」
「何が言いたい……」
「いえ……あなたのように酒を飲まれる方は、私が言ったような事に苦しまれている方が多いので…… 邪推でしょうかね?」
商人もワインを一口飲んで舌鼓を打ち、続けた。
「悩みを人に話すのも一つの解決方法ではありますよ。その場合あなたの事を全く知らない人のほうが最適。なぜならあなたの都合のいいことだけを話しすればいいのですから。例えば、この私のように今日初めて出会った人とか……ね?」
「……フン」
鼻であしらうユーシンだったが、知らない人間に吐き出せば少しは楽になるかもしれないという商人の言葉に少し納得するところもあった。
自分の重荷を誰かに共有してもらいたいとも考えていたからだ。
これまでの人生で、悩みを誰にも話すことも相談することもできなかった。
誰かに悩みを打ち明けるなんて絶対に見られたくない弱みを見せるだけだ。
しかし、ここまで自分が追い込まれて酒に溺れてしまうとは夢にも思ってはいなかった。今ここに自分が座って酒を浴びるように飲むくらいなら、誰かに胸の奥に蠢く怨念のような物を他人に委ねてしまいたいとユーシンの考えが揺れ動く。
「……ここで出会ったのも何か意味があることなのでしょう。一晩だけあなたの話を聞く事もやぶさかではないですよ。」
酔っているからこそ魅力的な提案に聞こえた。
しかし、たかが外れているのかもしれないからと自制せよ。と貴族会のユーシンがそう言い聞かせるが、これまでの出来事で完全に心が折れていたユーシンは、心の中の重荷を自然と手放してしまうように重たい口から一言目が吐露された。
「……人間は、わからないものだ。」
ユーシンのあまりにも短い言葉に男は頷く。
「人間は、わからないものですね。言葉という自分の意志を伝えることができる道具を手に入れても、相手のことを理解することがとても難しい。道具を手に入れて、口から出た言葉を聞くだけで、人はわかったような気になっているだけなのですね。」
ユーシンは一言目で試していた。この言葉にどう反応するかで次の言葉を続けるかを考えていた。
わかったのはこの商人は向き合ってくれている。少しでもその意思がわかっただけで次に続ける言葉が自然と口から出てくる。
「……人の心は手に入らないもの。なら、こちらから満足するほどの価値を渡すか、心を少しだけ壊しさえすれば、心中の状況に関係なく自由を奪える。そう思っていた……」
商人は口角をユーシンが気にならない程度に意識的に少しだけあげて、ワインに軽く口をつけてからユーシンの言葉に反応する。
「心というものは形がないが、確かに人の中にあるもの……支配することはとても難しいですな。」
「いや……むしろ心なんて存在しない、そんな不確かなものはなくて、頭で考えたことや実際に感じたことが感情になって現れることが心の正体だと思っていた……」
「ふむ……確かに、感情はどこから出てくるのか、と言われると、思考の行程中や結論から出される反応。出来事に対する反射的に出てしまうもの……心と言うには少し違うようにも思いますな。」
ユーシンはあおるように飲み干してワインを空けた。
「……感情とは、自分を他人に委ねている弱い者がひり出す糞のようなものだと思っていた……それを利用すれば人は操れるものだと思っていた。糞のようなものでも自分が生み出したものだ。本人には価値があっても他人には関係ない。それをうまく汲み取れば人は操れる。今までそうやってきたんだ……だが俺はそれが全く通じない人間に出会った。」
ユーシンはユウトの顔が脳裏によぎる。
タイミングよく男が注いだワインを注がれるや否や一気に飲み干す。
「……俺は怖い。あんな人間がいることが信じられない。疑心暗鬼に陥ることなく常に光で照らす事ができるような人間を……僅かな闇でさえも光で照らせる事ができる人間を。思考の奥にある闇をつけば何も気にしないようにして強がっても表情に出る。そんな奴らはゴマンといる。だが奴は……奴は……」
「おくびにも出さない。光をもたらし続けるのですね。」
ユーシンは両手で顔を抑えて頷いた。
「……きっと、ああいうやつが希望と呼ばれるのだろう。それに比べて俺はどうだ。人の感情を利用して、思考を乱した隙に支配してきた。そんなものがちっぽけな児戯のように感じた……奴が微笑んで手を差し伸べるだけで人はついてくる……まさに光だ。俺が手に入れられないものも簡単に手に入れる。俺の今までをいとも簡単に否定される……この差は何なんだ……何が違うんだ!!」
ユーシンは、通路の角で心配そうにこちらを見ているノココを見た。商人も同じ方向に視線を向けた。
「……あの女も、俺が感情を利用して支配した……いや、そう思っているだけかもしれん。あの心配そうに見ているのも、別の意図があるかもしれない。だが、奴と出会ったら、いともかんたんに奴に惹かれるかもしれない……俺が……俺が培ったものがすべて破壊される……そう思うと……怖い……怖いんだ……親父でさえも奴に惹かれ始めてる……俺は……いらなくなる……」
ユーシンの顔が崩れて涙が頬を伝う。
「……なるほど。それが酒を飲み続ける理由なのですね。とてもお辛い経験をされたようだ……」
両手で顔を隠し声を殺して泣くユーシンは、商人の言葉に反応できなかった。
ユーシンの打ちひしがれた様子に商人は自分の胸に手を当てて、ユーシンを敬愛するように頭を少し下げた。
「私が今の貴方にできることは祈る事……きっと近い将来にすべてを解決できる事をここで祈っておきます。お父様との問題も必ず解決できるでしょう。私の信ずる神は商売の神ですが、商売とは人間関係を重んじるものです。あなたに祝福をもたらさんことを祈ります。こんな言葉しかかけれない私をどうか許してほしい。」
ユーシンは顔を見せる事ができなかったが、何度か強く頷いた。話を聞いてくれるだけでありがたかったし、こんな感情に支配された自分を見せれるのは、最初にこの商人が言ったように、確かに見ず知らずの人間にしかできない。
あれだけ卑下した感情という不確かと思っていたものに自分が支配されていることも情けなく思っていた。
ユーシンの心が落ち着くまで時間はかかったが、ゆっくりと落ち着き、顔を見れるまでに落ち着くと商人は二人の付き人に視線を合わせた。
そして商人を皮切りに二人とも席を立った。
「……あなたの心の中の重荷を少しいただきましたよ。これで少しでも前にすすめることを祈念して、私はここでお暇させていただきますよ。」
「もう行くのか……」
ユーシンはほんの少し名残惜しさを口にしたが、
「ええ。少し気が晴れるだけでも違うものでしょう?酒で得られるものは、時間を忘れることだけ。貴方が欲しかったのは心の重荷を軽くする方法。時間がすぎれば解決することなら酒でも良いでしょうが、そう行かない事もあるのが人間なのですよ。」
と、ユーシンは涙を拭って最後くらいは話を聞いてくれた男の顔を見ようと顔を上げた。
商売人の笑顔は信用するなとイシュメルに冗談で言われた事を思い出したが、話を聞いてくれた男の笑顔は信じたかった。
「……そうかもな。」
笑顔の商人は何かを思いついたように指を立てる。
「少しだけあなたに助言します……聞くだけ聞いてほしいのですが、貴方はすべてを手に入れようとしていた。意のままにならない者が存在することを認められなかっただけです。認めたら負けたと思いこんでいる。だから苦しんでいる。」
「ああ。わかっていた。奴と俺とは真反対だ。」
「貴方は貴方をどうか見失わないように。手段はどうであれあなたを想う人がいることを忘れずに……」
ユーシンは話を聞いただけとはいえ、この商人には感謝しかなかった。
せめて名前だけは覚えておこうと尋ねた。
「あんたの名前を教えてくれないか?」
商人は少し考えてからワインの瓶を指した。
「私がそのワインを好む理由は、実はそのワインの名前が私の名前でしてね……名乗る程の者でもございませんのでそのワインの名前の人くらいに覚えておいていただければ。」
そういうと商人はノココに目線を向けて頷き、そしてユーシンに軽く会釈をして、それでは、と言葉を残して去っていった。
ノココは三人が去ったのを見送ってユーシンの席に足早に戻る。
「なんなの?あの人達……知り合い?」
ユーシンはもらったワインの瓶を手に持って眺めた。
「……いや、初めてあった人だな。」
「ふーん……なんか嫉妬しちゃうわ。」
男に嫉妬?とノココを見ると
「……だって、さっきよりスッキリした顔してる。少しは気が晴れたんでしょう?」
というと、ラベルに描かれてある、先端が尖った十字架の真ん中が丸く膨らんだような模様をなでながら。
「……ああ。確かにそうだな。」
と、初めて口元が緩んだ。
ワインのラベルを撫でるユーシンの指先は、男の名前らしき文字に移動していて愛おしく『アルトゥロ』という文字を撫でていた。




