第三章 3 :断ち切るべきもの
マナばあさんの家に着くと、タマモが元気よく入り口を開けてマナばぁちゃん!と何度か呼ぶと、奥から腰の曲がった何歳かわからないほど顔に皺がたくさんある老女がゆっくりと出てきた。
腰をゆっくりと上げてタマモだとわかると顔の皺がさらに深くなるほど笑顔になった。
「おやおや、タマモちゃんじゃないかね。どうしたんだい?」
「エミグラン様からお使い頼まれてさ!お客様も一緒に来てくれたよ!」
マナばあさんはゆっくりと視線をユウト達に向ける。レイナが挨拶がわりに頭を下げるとユウトもならっておなじように頭を下げた。
マナばあさんは二人を見ながら小さく頷いた。
「ほぉほぉ、お客様かね。まあ上がっていきなされ。年寄りの一人暮らしで散らかってて申し訳ないがね……」
「おばあちゃん!お菓子を食べたいぞ!」
「はいはい。タマモちゃんの好きなお菓子あったはずだからね。一緒に食べようね。」
やったー!と弾けるように喜んで二人を手招きするタマモ。
初めて会ったのにこんなにあっさりとお邪魔しても良いものかとユウトは戸惑ったが、マナばぁさんはユウトとレイナを見ながら何度も頷くので、レイナが「折角なのでお邪魔しましょう。」とマナばぁさんの好意に甘えるように促し、レイナがそう言うならと、ユウトは少し恐縮しながら「お邪魔します」と少し頭を下げてから家に入って行った。
物が雑多に置かれているマナばあさんの部屋は、自分が手の届く範囲で物が置かれている印象で、散らかっているというよりも、多く物が置いてあるという印象だった。
どこからかはわからないが漂ってくる香煙が鼻腔をくすぐる。
部屋の真ん中に丸いテーブルに囲うように三人が座っていると、マナばぁさんはエミグランから預かってきたバニ茶を淹れたティーセットをお盆に乗せてにこやかに部屋にやって来た。
ゆっくりと丸テーブルに置き、三人にお茶を配る。
「あの子のお茶は高い物だけど、淹れ方がわからなくてねぇ……ワシの好きな淹れ方にしたよ。口に合うかどうかわからんけど……」
バニ茶にはとんと目がないレイナは、いつもよりも濃い茜色のバニ茶に目をキラキラさせて早速一口いただく。
いつも口にするバニ茶が、高級感あふれる繊細な味わいとすると、マナばあさんの淹れたバニ茶は、しっかりとお茶の旨味や甘味をお茶の中に出し切っていて、濃く力強い味だった。
新しいバニ茶の味にレイナは目を丸くさせる。
「……すごく力強い味わいです……バニ茶ってこんな味にもなるのですね……」
「二回淹れておるからね。濃い味になるんじゃが、わしはこの淹れ方が好きでね。」
「わかります! これ、ものすごく贅沢な味です……」
マナばあさんはカラカラ笑う。
「確かに贅沢かもしれんのぅ。高級な茶葉でないとただ苦いだけじゃからなぁ。」
バニ茶談義が満開になりそうだが、おそらく本当の目的になる話はマナばあさんから切り出された。
マナばぁさんはユウトに向き直ると
「あの子がお使いに出した理由は君じゃな。ユウトちゃんや。」
「へ?」
情けない声で返事を返してしまった。
「君は……そうじゃな……語弊を恐れずにいうと、マナに愛された者じゃな?」
――マナに愛される?全てを知る者ではなくて?――
「マナに、愛された?」
反芻してユウトが続けると、ゆっくりとマナばあさんは頷く。
「あの子が私のところに寄越したのも無理はないの。なんせ、ものすごい量のマナが一部分に蠢いている。全身に行き渡ってはおらん。ここに溜まっておる。」
と、ユウトの胸の辺りを指差した。
「少し話を聞かせてくれんかの? ユウトちゃんのこれまでの話をの。なぁに、わしはこう見えて口は固い方じゃよ。」
とまたカラカラ笑った。
レイナは困った表情でユウトを見ていた。
ユウトはあの右腕がマナに関係する事くらいは何となくわかっていた。だが、今あの力が自由に使えるようになりたい。
姉妹の悲願である『黙示録の破壊』には、あの力は間違いなく必要になるはずだし、使えなければユウト自身がいる意味がないとさえ思っていた。
強く願っていた事が、もしかしたら解決するかもしれない機会を得て、立ち止まる理由なんてなかった。
ユウトはマナばぁさんに向き直って意を決した。
「……わかりました。全てを話します。」
ユウトは語り出した。別の世界から飛ばされて大森林で姉妹と出会ったことから、今までの事を。
**************
話を静かに聞いていたマナばあさんは、ユウトのこの世界のことがわかっていないなりに精一杯説明した。
側ではレイナも静かに聞いていて、タマモはお菓子を頬張っていた。
ユウトが話終わるとマナばあさんはニコリと微笑んで一度頷いた。
「よーくわかったよ。ありがとうね、話してくれて。」
「いえ……なんか話せてスッキリしました。」
「ユウトちゃんはマナの使い方……というより、マナがわかっておらんのじゃろうな。」
この世界の常識であるマナについてわからない。それはその通りだが
「マナおばあさま、御言葉ですがそれは流石にユウト様に失礼だと思います。」
レイナがマナばあさんに反論する。何せあの深緑の腕はマナによる力なのだ。あの夜見せた立ち回りは明らかに人間の出せるものではなく、マナの加護があったからこそだ。
全てを見ていたレイナだからこそ、何も知らずにユウトが操っていたとは毛頭思わなかった。だが…
「レイナ、ごめん……実はわからないんだ……」
ユウトが申し訳なさそうに答えた言葉の意味を理解すると、驚いた顔でユウトを見るレイナは、小さく「えっ」とこぼす。
マナばぁさんはユウトを見つめながら何度も小さく頷いた後、ユウトの考えを見据えたように語る。
「ワシらの常識が分からんのじゃよ。ユウトちゃんは。じゃからその力の使い方もわからんのじゃ。これは当然じゃ。誰も種から花が咲くなんて事は知っておるじゃろうが、それを知らなかった時期は必ず誰にでもある。ユウトちゃんは今わからないのじゃよ。種を持っていて花を咲かせられるとしてもじゃ。」
レイナは「そんな……」と驚きをようやく言葉にして漏らす。
ユウトがマナの事を理解していない事に衝撃を受けた。
力の出し方がわからないのではなくて、そもそもなんの力なのか、本質がわかっていなかったのだから。
何の力がないと言ってもマナは生きとし生けるものの常識として誰もが知っている事なのだ。
つまりユウトは、マナの使い方がわからないのではなくて、マナそのものを何も知らなかった。考えれば、全く別の世界から来た事だけはわかっていたのだから、知らなくても仕方ないが
――じゃあ……何故ユウト様は狂犬の前に立てたのですか……――
と、今考えればあまりにも無謀とも言えるユウトの行動を思い出すと、レイナはユウトの方を見る事ができず、表情を見られないように俯いた。
話はレイナを除いて二人で進んでいく。
「ユウトちゃんは、この世界ではない何処からかわからないところから来た。ワシらの常識がわからなくて当然じゃな。」
「……はい、あまりわかってなくてすみません。」
「気にするでない。ユウトちゃんはマナをなんだと思っておるかの?」
マナをなにかと思うか……難しい質問だった。それがわかれば苦労はしない。魔法を使うための体内にあるエネルギーのようなものか……と、顎に指を当てて考えていると、マナばぁさんはすぐに答えを話し始めた。
「マナとはこの世界の生命の力、自然にもある見えない力じゃな。森羅万象にマナは宿っている。炎や水、風、土、木にも人間や動物、獣人にもある。マナが宿らないものはないのじゃ。」
「宿らないものって何もないのですか?」
「ないの。マナがなくなれば命そのものが失われる。人間であれば命を失えばマナは大地に還って自然のマナに戻る。」
「自然に還ったマナはどうなるんでしょうか?」
「また生物に宿るのか……それとも自然に留まるのか……それは神のみぞしるところじゃな。」
「体内にある使って奇跡を起こす……魔法が使えるって事ですか?」
マナばあさんは深く頷いた。
「自然にあるマナを体内のマナと共鳴させるのじゃ。マナでマナを引き寄せるというた方がわかりやすいかもしれんな。自然界のマナを利用して奇跡を起こすというわけじゃ。」
「なるほど……マナって便利なんですね。炎を出したり、レイナは風を使ったりしてました。」
「そこまでに至るには大変な研鑽が必要じゃな。そんなに簡単に自然界のマナを扱えるものではないからの。炎を起こすには自然界のマナを炎の力に変えて火を起こす。これだけでも一苦労じゃ。」
「そっかぁ……やっぱりレイナの魔法ってすごいんだね!」
とレイナを見たユウトは、悲しそうに俯いたレイナが目に入った。
ユウトは悲しそうに俯いている姿に見えたが、マナばぁさんはレイナのことに構わず続けた。
「ヒールもマナを使うが、あれは人体にあるマナを活性化させて人体の回復力を促進させるのじゃ。傷口にマナを集中的に活性化させればその効果は高い。程度にもよるが大体の傷はすぐに治るじゃろう。」
「じゃあ、マナって生きるために必要な力って事なんですね。使える使えない関係なく。」
「そうじゃよ。マナの加護無くしてこの世界は成り立たん。」
ここでユウトが一つ疑問があった。
「マナって全体の量って決まっているんですか? 全部の量が決まっていてその中で分け合って生きているんですか?」
マナばぁさんは大きく一度頷いた。
「良い質問じゃ。正解はマナは新しく増え続けるのじゃ。生み出すのはこの世界の生物全てじゃな。」
「生物が新しく生み出す……」
「そうじゃ。生きる事でマナは僅かながらに溜まっていくが、それ以上のマナを人間や獣人は体に蓄える。これは生み出しておるとしか言えない量じゃな。何故生み出されるかはわからん。人によって差がある事には間違いないのじゃよ。お主の胸の中の大量のマナと、話してくれた深緑の右腕がその証拠になるかの。」
「深緑の右腕が……」
ユウトは右腕に視線を落とす。いつも変わらない右腕だ。
「とんでもないマナの量が体の中から出てきた……とワシは見ておるよ。そしてそんな量のマナを出してもこうして元気におるのは、お主が体内でマナを生成しておるからじゃろう。普通の人とは違う圧倒的な速度での。」
「その……僕の力って、思った通りに出せないのでしょうか?」
マナばあさんは茶を全部の飲み干して一息ついたユウトを見る。
「そのために私のところに寄越したのだろうね。ユウトちゃんが意図して力が使えるようにせよという事なのじゃろう。まあ、高級バニ茶を持たせた理由がわかったよ。」
というとマナばあさんは席を立った。
「タマモちゃんや、ちょいと手伝って欲しいんじゃが、いいかの?」
お菓子を一人で平らげたタマモは頬張っていたお菓子を慌てて一気に飲み込んで少しずつ冷めたバニ茶を流し込んで「もちろんだよ!」と言うと、マナばあさんと共に部屋を出ていった。
二人を見送るとレイナに向き直る。
「マナばあさんって物知りだね。勉強になったよ。」
「……そうですね。」
目に見えてレイナに元気がない。
「ど、どうしたの? さっきから元気ないけど……」
「……ユウト様、あの狂犬に立ち向かった時、あの力が使えるって思ってたのでしょうか……」
「え? あの時? ……いや、全然思ってなかったかな。」
「……それって…本当に何も手段がなくて来たのでしょうか?」
「あ……うん、そうだね。」
「そうだね。じゃありません!」
レイナが声を荒げて立ち上がった。ユウトは体がビクッと反応して椅子からずり落ちそうになる。
「私は、あのユウト様の力は何かがきっかけで出てくるものなのかと思っていたのですが!そうではなかった。自分の意思でもなく、使えるきっかけも知らなかった!じゃあ間違えたらただ殺されるために来たのと同じではないですか!」
レイナからするとユウトはエオガーデの前に立ちはだかった時、何か勝算があるから来たものだと思っていたのだがそうではなかった。
あの場に立った時、ユウトの勝算は何もなかった事を今知ったのだ。
レイナはあの夜からユウトへの見方は変わってしまったとは言え、何て恐ろしい事をするのかと今さら怖くなって来た。これではただの命知らずじゃないか……と。
「ま、まあまあ、ほら、今生きてるし。ね?」
レイナは一歩間違えたら、目の前の申し訳なさそうな顔をしたユウトがいなかったのかもしれないと思うと、悔しさで涙が出てきそうになった。
今日、ミストドァンクで、あの力が狙って出せるものではないと知った。そしてマナばあさんとの話で、その力の源にあるマナのことについて何も知らなかった。
レイナからすると、ユウトをこれほど大切に想っていながら、何もわかっていなかったことを、ドァンク街にやってきてマナばぁさんの家まできたこの短時間で嫌と言うほど思い知らされて悔しかったのだ。
ユウトのことを知ってわかったあの夜の出来事は、一言で言うと命知らずな行動だ。
もしこのままだと、またあの夜と同じように腹を裂かれて、今度は生き返らないかもしれない。
そう想像するだけで、レイナは耐えられない。
しかし、泣いたら冷静に話す事ができるはずがなく、涙は見せなかった。
ーー目の前で起きた事だけで喜んで、全部奇跡じゃないか。何も私はわかっていないじゃないかーー
ユウトはレイナが悔しがっている事はわかっていた。だからこそ急いでもあの力をちゃんと自分の意志で使えるようになりたいと思っていたが、今のレイナを落ち着かせるためにも
「マナについてよくわかんなかったから……でも今日教えてくれたからもう大丈夫!」
と胸を叩いて心配いらないと言うがレイナには強がりにしか見えなかった。
――それが心配なのです……――
と、強がって見せる大切な人をみて、あの夜どんな思いで狂犬の前に立ちはだかったのかと慮る。
強がっても震えていたに違いない。それでも来てくれたのは……命知らずではなく勇気だと自分を奮い立たせたに違いない。勝てる要素なんて見当たらなかった。腹を何度蹴られてもエオガーデの前に立ちはだかるしかなくても、助けたいと言う思いだけでその場に立ち続けた事。
無謀と言われても仕方ないが、それでも何と言われても助けると心に固く誓った決意はどれほどのものだったのか想像すらできなかった。
だが、時間が経ってユウトのことを知って、やっとわかったこともあった。
ユウトは命をかけて行動できる人なのだ。無謀と呼ばれても、大切な人を守るために行動に移せる人なのだ。
それは姉妹の全てを知る者への思いと同じものなのだ。ローシアもレイナも、黙示録の破壊のためなら命すら惜しまず立ち向かう決意がある。ユウトもまた、姉妹のために命を惜しまずに立ち向かってくれているのだ。
力の有無や利益のためではなく、助けたい人がいるからその場に行けるのだと。
レイナは自分が情けなく思った。ユウトのことを理解しようとして空回りしている事に気が付かされた。
力だけではユウトのことは語れない。その心の奥底にある勇気と無謀が同居するユウトの正義と規範は、命と比べて限りなく等しいのだ。
自分の正義のために命が軽くなるのはそのためだと理解できた。
ユウトの行動から考える規範を垣間見て、まだお互いに知らなければならない事が山のようにあるのだと思い知らされた。
ミストドァンクではユウトがレイナの御側付きに見られてしまった事は見た目で全て判断されたから。あんなよわっちい男が騎士団長と戦えるはずはない。
そう見られる事が何よりも悔しいレイナは、ユウトの力になりたいと前よりも強く思いが溢れてきた。
――本当はユウト様の御側付きが私……誰よりもそばにいたいという気持ちが強いのは私……――
ユウトの事を少し知って、レイナは決意が固まった。
両手で握り拳を作って思いを言葉にして頭の中で自分に強く言い聞かせる。
――ユウト様のもっとお側で見守らないといけない……私は、ユウト様の御側付きです。誰にも……譲りません!――
レイナが一人思案を巡らせていた様子を不思議そうに見つめるユウトは
「レイナ……大丈夫?」
と声をかけると
「えっ!? だ、大丈夫ですよ。」
と、慌てて椅子に座り直した。
ユウトにこの決意を悟らせてはいけない。きっと大丈夫だからとしか言わないだろうと、ユウトを少し理解し始めていた。
――ユウト様の事だから、もっと自分を大切にしてほしいと言うに違いない。でも私は、ユウト様を何が何でもお守りするのです……――
**************
準備ができたことをタマモが知らせに来ると、とある部屋に案内された。
中に入ると紫で統一された部屋で、真ん中に腰ほどの高さのシングルベッドよりも幅の狭い簡易的なベッドがあった。
それもかろうじて枕のようなものがあるからそう言えただけで、机だと言われてもわからないだろう。
マナばあさんはそのベッドの横に立ってユウトを見やる。
「これから、ユウトちゃんのマナの動きを封ずるものを取っ払う儀式をするよ。ここに横になりなされ。」
と、ベッドを二度叩く。
言われるがままにベッドの横に歩み寄り靴を脱いでベッドに横になる。
たまらずレイナが声をかける。
「あの!私もそばに居たいです。」
マナばあさんは、二度頷いた。
「良いよ。ユウトちゃんの手を握っておりなされ。場合によっては危険なのでな……」
レイナが危険という言葉にいち早く反応する。
「危険ってどういうことですか……」
「今からユウトちゃんのマナを目覚めさせるために、マナの動きを止めるものを自らの手で決着をつけてもらうのじゃよ。」
「それが何故危険なのでしょうか?」
「ユウトちゃんの頭の中と心の中にある問題の根本を、ユウトちゃんが眠って思念となってユウトちゃん一人で解決しなければならないからじゃよ。誰も助けることはできん。」
「もし、解決できなかったら……」
「……思念と体が乖離してしまうことになれば……目覚めることはないかもしれん……」
あまりにもリスクが大きいと感じたレイナはユウトに駆け寄り、ユウトを覗き込む。
「ユウト様! やめましょう。危険な事は……」
マナばあさんはレイナの言葉を遮る。
「乗り越えられればユウトちゃんは、きちんとマナを扱えるようになろう。乗り越えられなければ今と変わらない。今のままで良いのかの?」
「いいです! そんなユウト様を危険な目になんて……」
ユウトがレイナの腕を掴んだ。
「レイナ……やってみるよ。」
「ユウト様! でも……」
ユウトはレイナの腕を掴んでいた手を滑らせて手を握った。
「今のままじゃダメなんだよ。僕が変わらないといけないんだと思う。レイナとローシアの宿命から解放するために。」
「でも!」
「……大丈夫だから。やらせてみてよ。僕も何かしないといけないんだ。」
ユウトの握る手に力が入る。
ーーああ……ユウト様は本気で変わりたいと思っているんだ。ーー
レイナがそう察した時、ダメだと言っても聞かずにやるんだろうなと察した。
ユウトの決意をレイナが止められるはずがなかった。
息を長く吐き出してレイナも意を決した。
「……わかりました。私は儀式が終わるまでお側におります。それはいいでしょうか?」
ユウトは満面の笑みで。
「当たり前だよ!信じてるよ!」
と答えた。
決意に満ち溢れた強い気持ちを止めることなんでできない。ならば無事を祈ってそばにいる事が、今自分にしかできない事だとレイナはユウトの手を握り返した。
タマモは部屋の奥から香箱を持ってきた。
マナばあさんは、金属製の香炉を取り出してタマモの持ってきた香箱から香をつまみ、香炉に入れた。
魔石で火をおこして香を炙ると一筋の煙がゆっくりと天井に向かう。
香炉をユウトの枕元に置いて、マナばあさんはユウトの額に手を置く。
「目を瞑って深く息をしなさい。」
言われた通りに目を閉じて深く息をする。
香煙が肺にも入る。するとベッドに体全てが沈み込むような不思議な感覚に襲われた。
沈み込むような感覚の中、レイナの手の感触はあった。
「これから、ユウトちゃんのマナを解放するために断ち切るものが見えてくるはずじゃ。恐れずに立ち向かうのじゃ。たとえどんな化け物がおっても勝てる。乗り越えられるからの。焦ってはならんよ?」
マナばあさんの言葉が揺れて聞こえる。意識が遠くなる。
瞼から見える光が遠くなる。
まるでベットに沈み込んで地下に潜っていくような感覚だ。
吸い込まれるかのように……
**************
ユウトは目が覚めると、側には誰も居なかった。
紫の部屋は跡形もなく消えていた。
手を見るとレイナの温もりが少し残っているような気がした。
周りを見渡すと
――なんで……
森に来る前三角座りしていたあの部屋。
――なんでだよ……
ユウトが姉妹と会う前にいた部屋。もうなぜか懐かしくも感じる部屋だ。
――なんでぼくは……
部屋の外から声が聞こえる。
「優斗!優斗!起きてるのかい!ご飯できたわよ!」
――なんで僕は戻ってきたんだ……
優斗が引きこもっていた部屋。
元の世界に戻ってきていた。
しかし違和感があった。引きこもりになってから部屋を出ないことを知った母親は、声もかけなくなっていた。
それが何もなかったかのように朝ご飯だと呼ぶ声が聞こえてくるのは、まだ部屋に引きこもる前で学校に行っていた時だとわかった。
朝の情報番組を見れば何かわかるかもしれないとテレビの電源を転がっていたリモコンを拾って手慣れた手つきで電源ボタンを押す。
朝の情報番組が始まっており、見慣れていて懐かしくも感じる出演者がにこやかな笑顔で昨日の日本のどこかで起こった話題で盛り上がっているところ、画面右上に期待する文字が見えた。
5月21日 7時13分
毎日の積み重ねで見ていればなんら変わらない日常の一つの光景だが、ある日突然この場に放り込まれたら何が起こっているのか気が狂いそうになってもおかしくはないだろう。だが、優斗は事前に知っている事があった。
まずここは優斗が日々引きこもっていた部屋である事。そして、この世界とは別の世界に行っていた事。
ローシアもレイナも、そしてこの場所で目が覚める前に出会ったマナばあさんまではっきりと脳に刻み込まれたように覚えている。
夢ではない事は確信があった。最後に触ったレイナの手の感触もハッキリと思い出せるし、肺を全て隅々まで行き渡った香の匂いも今嗅いだら断定できるほどに生々しく、いつでも思い出せる記憶の領域に明瞭に残っている。
――なんでこの世界にいるんだろう……――
次の瞬間、マナばあさんの言葉が脳裏をよぎった。
『ユウトちゃんのマナを解放するために断ち切るものが見えてくるはずじゃ。』
ーー断ち切らなければならないもの……断ち切るって……この世界の事……なのか?ーー
もう一度優斗の食事について確認をしてくる、すこし苛立ちを隠せない母の声が遠くに聞こえた。




