第五章 68:大災
エミグランから招待された昼食会は恙無く終了した。
談笑はダイバ国の話題で持ちきりで、貴族会の面々は今日の三姉妹の衣装の事や、この辺りでも高品質を誇るダイバ鉄の事、そして三姉妹の美貌の事で持ちきりでユウトたちの出る幕はなかった。
思ったよりも食事を楽しめたユウトたちに、デザートまでメニューが進んだ際にエミグランからの伝言、「明日はヴァイガル国城に来るように」とリンから聞かされた。
「……アタシたちまだエミグラン様の配下と思われているのかしら?」
右の眉尻がひくつくローシアは嫌味をリンにぶつけると「わからないと回答いたします」と、答えにならない回答をもらってさらに大きく早く眉尻がひくつく。
「まあまあ、いいじゃないですか。今日片付けを終わらせてしまえば……お城から私たちの元我が家からすごく近いですし」
ユウトたちはエミグランの屋敷を出ると決めてから、次の住まいは初めてヴァイガル国で借りた家に引っ越すことに決めていた。
傭兵集団を取りまとめるミストを取り仕切るセトは、アルトゥロがプラトリカの海から生み出した人間ではなかった。
ヴァイガル国事変と呼ばれるようになったドァンク獣人兵団が攻める前にミストから逃げ出していた。
ミストに在籍している傭兵たちもほぼ国外から来た者ばかりなのでアルトゥロの支配下の者はいなかった。ギオン達が攻め込む前に街からほとんど人がいなくなった事を不審に思い、セトは只事ではないと直感的に判断して、セトが知っている今は使われていない地下道の奥に傭兵達と避難していた。
制圧したドァンク軍に地下道を発見されてから救出されて、ことの顛末を知った。
その直後にユウト達がヴァイガル国に戻ってくると聞いて心から喜んだ。空っぽになったヴァイガル国に少しでも人の温もりを取り戻したかったからだ。
ユウトはローシアがレイナと口喧嘩しながら片付けをする姿を見ながら、初めて三人で寝食を共にした思い出を振り返っていた。
*************
ヴァイガル国の中心に佇む王城は、もはやかつてのものではなかった。
白い大理石で造られた荘厳な城はそのままだが、かつての騎士たちや兵士たちの姿は見当たらない。
長く延びる赤い絨毯の上を、ユウトたちはただ静かに歩いた。靴音がやけに響く――それほどまでに、城の中には人の気配がなかった。
獣人たちの姿が、ちらほらと廊下の奥に見える。だが彼らもまた、無言でその場を離れていった。
白と赤――それ以外の色彩は城からすっかり奪われているように見えた。
広間へと至る途中、ローシアが足を止めた。
「ここに呼び出したのは、制覇したお城の自慢なのかしら?」
声は淡々としていたが、その奥にあるわずかな棘は、エミグランにも届いていたはずだ。
それでも、エミグランは泰然と頷く。
「……よくきたの」
その声音に怒りも嘲りもない。ただ、静かな事実の提示だけがあった。
ユウトは微かに肩の力を抜いた。
――怒ってはなさそうだ。少なくとも、今は。――
エミグランはゆっくりと目を細め、玉座の前に立つ。
その背後には、かつてヴァイガル王が座していた金と紺の椅子。だが今、その椅子は空のままだ。
「オルジアがドァンク共和国の騎士となることになった。今日はその襲名儀式を行う」
「……オルジアさんが、ドァンクの……?」
ユウトの声が震えた。レイナとローシアも、一瞬言葉を失う。
それは驚きではあったが、嫌悪ではない。ただ、想定外の展開に戸惑いを覚える。
『随分と急な話だね、エミ?』
静かにそう言ったのは、シロだった。だがその声音の裏にある緊張を、ユウトは敏感に察知した。
エミグランはわずかに視線を逸らす。
「はい。アルトゥロが二度とこの地を踏めないように、急ぎでこの国を建て直す必要があるので」
「……ヴァイガル国は……どうなってしまうのでしょうか?」
レイナの問いに、エミグランはわずかに笑みを浮かべた。
「今までと変わらんよ。ヴァイガル国のまま、名前も変わらん。ただ、前よりも獣人は多く住むであろうな。それに、獣人奴隷などという愚かな風習は禁ずる」
淡々と述べられた言葉の中に、確固たる意思があった。
『聖書記は誕生したんだね?』
カリューダの意識を持つシロが、その先を見透かすように呟いた。
「ええ。筒がなく儀式は完了し、今執務室で法をどのように定めるか、識者と貴族会の一部メンバーを集めて話し合っております」
ローシアは思わず、くすりと小さく笑った。
――たぶん、あのミシェルたがら退屈そうに、顎を手に乗せてぼんやり話を聞いているに違いないワ
妄想するローシアをよそに、衝撃の言葉が続いた。
『あの聖書記は、魔女の末裔だね? クライヌリッシュの』
「はい。その通りです」
その言葉に、ユウトと姉妹は揃って声を上げた。
「嘘……でしょ?」
目を見開くローシアに、エミグランはわずかに口元を吊り上げる。
「エミグランは嘘をつかんよ」
「なぜ今まで隠していたのですか!」
思わず声を荒げたのはレイナだった。だがその激情に、エミグランはまるで動じない。
「聞かれなかったからじゃよ?」
「そんな……シロ! 何で言ってくれないんだよ!」
『君が聞かなかったからじゃないか。城門をくぐった時に私は気がついたけども、君は気がつかなかったのかい?』
全く同じ理屈を、まるで打ち合わせでもしたように述べる二人に、ユウトは呆れたようにため息をついた。
(……この師匠と弟子、ほんとそっくりだなぁ)
エミグランは話を進める。
「オルジア騎士任命の式は大広間で行う。リンよ」
「はい」
いつの間にか隣にいたリンが静かに応じた。
「全てを知る者以外を大広間へ」
「かしこまりました」
礼儀正しく頭を下げたリンは、ローシア、レイナ、シロを視線で促す。
ローシアは一瞬ユウトを見たが、何も言わずに歩き出す。レイナもそれに従い、シロは軽く跳ねるように後を追った。
「ぼ、僕は行かなくてもいいの?」
ユウトの問いに、エミグランの表情が一変した。
「お主、事象の地平面を起こしたらしいの?」
「え? あ、はい」
それを聞いた瞬間、エミグランの顔が強張る。
「まさかもうそこまで聖杯の力を使えるとはの……」
そして、ユウトは思い切って訊ねた。ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問を。
「事象の地平面……あれは、大災で起こったことなんでしょ?」
赤絨毯の上に、沈黙が落ちた。
広間の奥で、誰かの足音が響いたような気がしたが、それはすぐに消えていった。
(――やっぱり……そうなんだ。否定もしないのはそういう事なんだ)
ユウトの瞳が微かに揺れていた。
それを、エミグランは静かに見つめていた。
白の大理石が静かに光を返す。磨き上げられた床も、天井に広がる曲線も、どこか無機質で、心の温度を吸い取るようだった。
「ねぇ……何か、答えてよ」
ユウトの声は、問いかけというより願いだった。怒りでも詰問でもない。ただ――信じた者に裏切られた少年の、真っ直ぐな、痛みの声。
エミグランは表情一つ動かさず、長いまつ毛を伏せたまま、しばし沈黙を守った。
心の中では激しく思考が交錯していた。どこまで話すべきか。どこまで背負わせていいのか。
それでも、やがて彼女は口を開いた。感情を表に出すことなく、静かに。
「あの力は……世界を一つ、終わらせる力じゃよ。お主の“思い”が、世界の法を上書きするほどに強ければ、すべてが塗り替わる。……そういう“奇跡”が、かつて一度だけ起こったことがある。それが、“大災”と呼ばれておる」
ユウトは目を伏せた。やはり、という思いが心の底から湧いてくる。
あの空間――事象の地平面。あの深緑に満ちた、法の消えた世界で、自分はカリューダを“呼んだ”。
「……あの空間に、カリューダが現れたんだ」
ユウトは思い出すように言葉を紡ぐ。「でもそれは……」
「アルトゥロの望む姿だったのじゃな?」
ユウトは小さく肩を震わせ、しばらく沈黙した。
やがて、苦しげな声が漏れる。
「わからない……わからないんだ……。本当に、どっちの“願い”だったのかも」
胸の奥に沈殿していた恐れが、音もなく這い上がってくる。
あのとき――もしアルトゥロが止めなければ、自分は……
「事象の地平面が起きそうになった時、おそらくはアルトゥロが止めたのじゃ」
エミグランは淡々と言った。「事象の地平面を、アルトゥロ自身が引き起こすためにな」
「……っ!」
ユウトの目が見開かれた。強く、強く、拳を握る。
「なぜ、自分で引き起こそうとするんだよ! アルトゥロは!」
声が城の中に反響する。誰もいないはずの空間に、それが不気味なほどに響いた。
エミグランは口を閉ざしたまま、ただその怒りを見つめている。
「世界が終わるんじゃないのかよ……! 僕は……僕は……そんなつもりじゃなかったのに、あのとき、世界を壊そうとしてたんだよ!」
「……その通りじゃな」
エミグランはわずかにうなずいた。「そのことについては、アルトゥロに感謝せねばならんの」
「そうじゃないよ!!」
怒号が飛んだ。エミグランの目が、僅かに見開かれる。
「なんで……なんであなたは、僕にそんな力があるって言ってくれなかったんだよ……!
もう少しで、世界を壊しそうになったかもしれないのに……! 知ってたら、止められたかもしれないのに……!
なぜ、言ってくれなかったんだよ……!!」
エミグランは、答えを持っていた。だが、それを言葉にできなかった。
黙したまま、ただユウトの叫びを受け止める。否、受け流しているようにも見えた。
数秒――いや、永遠にも感じられる沈黙が流れる。
ユウトは目を伏せたまま、語る。
「僕は……あなたを信じてたんだよ。どんなに辛くても苦しくても、あなたの言う通りに進んできた。
でも、今は違う……。もう少しで、レイナやローシアや、シロを……僕は……壊してしまうかもしれなかった……」
言葉の最後に、声が震えた。赤い絨毯に、ぽたりと雫が落ちる。
それが涙か、それとも怒りかはわからない。
エミグランは眉をわずかに寄せた。感情の表出はそれだけだった。
「確かに、あなたの言う通りにアルトゥロが止めたんだと思うよ。きっと、アルトゥロはカリューダの聖杯を作るつもりなんだと思う。――あの体は、カリューダの体なんだよね?なら、聖杯だって……彼女に合う形になっていくんだと思う」
エミグランは、わずかに目を細めた。
その言葉の意味――ユウトの理解の深さに、内心で舌を巻いた。
(……ここまで見抜くか)
そしてユウトの瞳には、確かに涙が宿っていた。だが、それは諦めでも敗北でもない。
悔しさと、怒りと、そして――信じた者への裏切りの痛みが、紅のように燃えていた。
「……僕たちは屋敷から出ていったけど、あなたと敵対するつもりはない。何もしない限り、こちらから仕掛けることもないよ。でも……」
その瞬間、ユウトの右腕が光を纏う。深緑の光――聖杯の右腕が顕現する。
彼の瞳もまた、紅蓮のように染まり、燃えるようにエミグランを見据えた。
「もし、レイナやローシアに何かしたら――僕はあなたを絶対に許さない!!」
それは、子供の言葉ではなかった。
一つの命を背負い、一つの世界を背負い、その上でなお、大切な人を守ると誓う者の“宣告”だった。
エミグランは、表情こそ変えなかった。だが、胸の内では確かに息を飲んだ。
この少年――いや、この“師の魂の継承者”は、自分を超える地点に、すでに届きかけている。
ユウトは深く一礼するでもなく、ただ静かに背を向け、歩き出した。
白い城の回廊の向こうに、大切な者たちの気配を感じながら、まっすぐに。
その背に、エミグランは何も言葉をかけなかった。
いや、かける言葉が、何も思いつかなかった。
黙って見送ったことは何度もあるが、こんな経験は今まで記憶になかった。




