第五章 63:愛憎
「ほほう……懐かしい」
深緑の雷光によって周りは完全に深緑に染まりきっていた。見渡す限り深緑のみ。言うなれば、緑の海の中のような境界線など全くない緑の世界だった。
「ええ、わかりますとも、この私には……ええ。ええ。」
まるで、深緑の水の中にいるような感覚にアルトゥロは覚えがあった。
「懐かしい……あの日あの時に初めてこの感覚を味わいました。あれからもう何百年でしょうかねぇ……」
誰かの気配がした。見えない聞こえない匂わない今の状況であっても、アルトゥロはすぐにわかった。
「おおおお……ああ、お懐かしゅうございます……カリューダ様」
恭しく膝をついて頭を下げた相手は、大災の魔女カリューダだった。
「やあ。私がわかるかい?」
「記憶に残るその美しい声がまた聞けて幸福の極みですよ。ええ、ええ」
「大袈裟だね。それにしても君には随分と迷惑をかけたね。」
「いえいえ!師匠の最期の願いを実現できるのであれば……この命、いくらでも捧げますぞ!」
「……私の聖杯のために苦労をかけさせて申し訳ないね」
「その事に関しては仕方ないと言いますか……あの人形めが勝手にしでかした事です。罰を与えようにも……私にはできませんね」
「でも、私は君が聖杯を受け継いでくれて感謝しているよ? 心からそう思うんだ」
――やはり……――
アルトゥロは思い出した。そもそも自分は師匠に愛されていない。弟子だった頃は出来の悪いエミグランばかり気にかけて、いつもほったらかしにされていた。
存在すら忘れられたように。受け継いでいない聖杯の事を自分に向けて言うはずがない。
――私のことなど興味があるはずがないのです。師匠からすれば存在すら認められないほどの屑なのですから――
いつも心の中にいるカリューダは優しくアルトゥロに語りかけていた。
“君が一番なんだ。自慢の弟子だよ”と。
頭の中に自分のことを認めて、正しい評価をしてくれるカリューダがいないと平静を保っていられるはずがなかった。
――忌々しいエミグランめ……魔法も知識も何もかも私に負ける出来損ないの牝狐が、世界最高峰の魔法使いであるカリューダ様の弟子とはいえ師匠の名前に泥を塗るようなものです――
結果、アルトゥロの師匠と敬う人物は、自分が生み出した頭と心の中にいるカリューダの幻影だった。
目の前にいるカリューダは、幻影のカリューダと瓜二つで錯覚していたが、もし心に住まうカリューダなら“聖杯を取り戻して”と言うはずだ。
だが、“受け継いでくれてありがとう”と言った。聞き間違えではない。アルトゥロはハッキリとそう聞こえた。
自分の生き方を疑問に思った時も、辛く悲しい夜でさえも叱咤激励で支えてくれた師匠カリューダが、奪われた聖杯を取り戻せと言うことがあっても、アルトゥロへ受け継いでくれてありがとうなどと言うはずがなかった。
――ちがう……これは私に向けられた言葉ではないです……――
アルトゥロの視界はカリューダの視線を追うと、アルトゥロの頭上を見ていた。
――後ろ……ですか?――
振り返るとそこにはカリューダを見つめるユウトが立っていた。
自分を挟んで会話をしていた二人は、まるでそこに自分が立っていないかのように話し続ける。
「聖杯を君に託したのは私ではないけども、結果とてもよかったと思っているよ。君のように心優しく勇気ある人にね」
「僕は……勇気なんてないよ。ただ困っている人を放っておけなくて……レイナ達には真剣にお願いされたから……」
「自分はお人好し、と言いたいのだろうけどそれは別側面から見た一つの感想だよ。人によって見たものの感想は変わる。どんな名画と呼ばれる絵でさえも評価が分かれるようにね。彼女達は君の事をお人好しなんて思ってないさ」
「そうかな……だとしたら嬉しいな」
「フフフ……君は実に勇気があり肝が据わっているね。今のこの状況でさえももう受け入れている。この新緑の世界を何も不思議にも思わない」
「そんなことはないよ。でも、きっと聖杯の力で何かが起こったんだろうなって漠然とだけど、僕なりに理解してるつもりだよ」
二人が話すたびにその方を振り返るアルトゥロは、ワナワナと震えだした。
まるで存在しないかのように振る舞われる今の状況に覚えがあった。
――そうだ……愛弟子と師匠はいつもそうだった……――
「カリューダ様……」
震えるほどの悲しさを押し殺し、今にも消え入りそうに呼ぶ
だが、二人は反応しない。
「私の声が……聞こえませんか、カリューダ様」
久しぶりに名前を呼んだ。本当に久しぶりで発音が合っているかもわからないくらいだった。
そんな気遣いも全くの無駄で、アルトゥロはそっちのけで会話は続いた。
「師匠! カリューダ様!! 私が何をしたのでしょうか!!罪があるのなら受け入れます!!罰も謹んで受けます!!」
苦痛でしかなかった。心の底から会いたいと何百年も思い続けていた最愛の人物は、目の前にいる自分に気づきもしない。
それどころか別の男と話している。しかも相手は子供だというのに見つめるその瞳は艶やかに見えた。
信じたくない、信じられない。
地の底を穿ち貫くほど下がりに下がった自己肯定感が生み出すと、不思議なほど落ち着いた。そして世界全てを敵にしたとしても構わないと思った。
――そうデス……私は師匠に理由もなく忌み嫌われた存在、私が作り出す安寧の世界に、いらない存在なのデス――
アルトゥロは躊躇なく思いっきり下唇を噛み切った。
――痛みは便利デス。その時の記憶を脳裏に刻みつけるからデス……二度と忘れてはならない誓いに痛みは必須なのデス……――
痛みは愛を掻き消し、決別を終えた。
天才が故に、常人では想像し得ない苦しみがある。長く生き続けることは、時間と共に薄れていく喜怒哀楽になんら干渉されない虚無を居どころとする自分の心との戦いでもあった。
決別は簡単だった。自分に都合のいい事実を見聞すればいい。それが最も簡単に弾けるトリガーだ。
自分に聖杯を受け継ぐ資格はないと確信した。ならば次の策に移れる。何の情もなく、簡単に。
――ならば、ならばならば生み出せば良いのです。カリューダを超える魔女を――
アルトゥロの頭の中でシナリオは最悪の方向に加筆修正した。
二人の仲睦まじい会話が続く中、アルトゥロは深緑に覆われた天を向いて大声で笑った。
「私にはまだ貴女の肉体があるのです!!聖杯の入れ物たる肉体を生み出せる力を授けてくださりありがとうございました。おかげさまでなんの未練もなく産み出せますよ。現代に魔女を!!」
両手を上げて深緑を仰ぐ。心を劈く泣き声はもうアルトゥロには届かなかった。ゆらゆらと揺れる自らと深緑の景色の中で、今は憎きカリューダを指差す。
「聖杯の力であの日あの時に戻りたかった。貴女を蘇らせてもう一度世界から最大の謝罪を受けるべきだった!!……しかし、もう良いです。次に私が取る行動は実に簡単ですから。」
「嗚呼……至極至極残念です。ええ。ええ」
噛み切った下唇から垂れる鮮血は、胸元まで垂れてようやく拭う。
「人は簡単な方に流されるものです。ええ。私も人間だと言うことをすっかり忘れていました。聖杯を奪えなければ作れば良い。実に簡単なことです」
あれほどまで欲した聖杯は他人の物。自分が正統後継者だと疑いもしなかった日々を捨て去る。
「さて、そうと決まればこんな茶番に付き合う時間も惜しい。国の形などもはやどうでもよいです。私とカリューダの人形がある場所が中心です」
カリューダが一瞬だけ見たような気がした。
「……あの日あの時に混沌の渦から貴女の全てと私を抜き出した方法をまた行うとは……しかしこれもまた必要な儀式なのかも知れませんね」
アルトゥロの両手から禍々しいマナが溢れ出し始めた。足元を覆いはじめたマナは深緑を犯すように広がり始めた。
薄れ始める深緑の中にいる二人に語りかけた。
「私はヴァイガル国の姫、カリューダの肉人形にとっておきの魔石をこっそりと与えておきました。私の力でもある人の意識を書き換える力。この世界に私の力を持つ者は二人いるのです。何故そのようなことをしたかわかりますか?」
「貴女を復活させるための保険です。結果は満足していますよ。ええ。プラトリカの海で人形は無限にできる。そして死ぬたびに彼女の意識は新しい人形に移り続ける事で聖杯の力を保持しながら生まれ変わり生き続ける事が出来ました。肉体はカリューダの聖杯を保持できるほど優秀……時間をかければ大魔女になれるほど力は大きくなります」
「ですがまだまだ力は本物ほどではありません。ですが人形自らが隠しています。力がバレたら私に乗っ取られると思っているようですから……無駄な懸念ですがね」
「嗚呼……生き続けたい、死にたくないと言う本能が人形を繰り返し輪廻する事で大魔女を生み出す……ここから戻ったら早速人形をいじってやりましょうかね。例えば殺すことに何の罪も感じないように。ええ。ええ……」
「やめろ!!アルトゥロ!!」
薄れゆく景色から、ユウトがはっきりとした輪郭でアルトゥロを指差す。
「おやおや、聞こえていましたか……深緑に包まれるこの現象を私は知っていますから……あなたが生み出した時を止めた世界。あの日あの時に初めて出現したカリューダの奇跡……術者の貴方は私が見えているはずと思っていました」
「シロ……カリューダは言っていたぞ!お前は世界の平和を望む人だって、話せばわかるって!そう言っていたんだ!」
「悍ましい。私の前で何の確証もない戯言を言わないでいただけますか?」
「戯言じゃない!本当にそう言っていたんだ!」
「嘘か否か……戯言でもどうでも良いのです。聖杯はあなたが受け継いだ。その事実が全てです。今まさに証明されました。間違いなく私ではないのです」
「だから、カリューダと君と話をさせてあげようと思って……そう願って……」
「そう願ったらこの深緑に包まれた場所になったと言う事でしょう……素晴らしい才能ですねぇ……しかしカリューダはあなたにご執心のようだ」
アルトゥロの生み出すマナにより周りが白み、姿も透過し始めた。ユウトは自分の両腕を見ると同じようになり始めていた。
ユウトはこの深緑に包まれた空間が出現してから今までアルトゥロだけが見えていた。
「もう時間はありませんねぇ……」
「アルトゥロ!待て!まだちゃんと話が出来てないんだ!話をしよう!!」
「……こんな私にそれでも話をしようとしてくれた事、覚えておきますよ」
ユウトは胸の奥がキュッと締め付けられるように苦しくなった。今のアルトゥロが過去の自分と重なった。
世間を恨み、人間を恨み、皆、消えてなくなれと願った日々の事を。
そんな事を願っても何も変わらない日常が始まる。残酷に秒針は置いてけぼりにするように進み続け、自分は止まったままの世界。
――アルトゥロは、自分から何かを終わらせようとしてる……僕が学校に行かなくなって日常から決別したように、何かを捨てようとしてるんだ!――
「ダメだよ!アルトゥロ!君が行こうとしている道は……きっと間違っているんだ!僕にはわかるんだ!」
「……何故か、取るに足らない時間稼ぎのような……しかし、どう言うわけか知り得ない重みを感じますねぇ……ええ。ええ……」
ユウトはアルトゥロに手を伸ばした。
「聖杯も……シロに相談してみるから!何とか分ける事が出来ないから聞いてみるから……だから、だから」
「そんな悲しそうに泣かないでよ!」
アルトゥロは驚き、目を丸くした。
――泣く? 私が? ――
「信じていたものに裏切られても、自分が自分を捨てたらいけないんだ!僕は過去にそうして……取り返しがつかない事をして、すごく後悔しているんだ!今の君の……アルトゥロの目はその時の僕と同じなんだよ!」
アルトゥロは初めからわかっていた。
この深緑に包まれた現象は、大災と呼ばれたあの日にカリューダが全く同じ現象を生み出した。
この状態になると、頭の中や心の中にいる人物が具現化される。人間に留まらず、ありとあらゆるものが創造できる。
アルトゥロが生み出したのは、想像の域を出ない推論のアルトゥロを無視し続けるカリューダとユウトだった。
しかし、今目の前にいるのは自分の存外なユウトだった。自分が想像するものとは明らかに違う。つまり本物のユウトだ。
そのユウトが、今自分のために声を張り上げて次の行動を止めようとしている。
――私のために……こんな、こんな落ちこぼれの私のために――
心を掬いあげるユウトの言葉も悲しげに見つめてくる目も全て信じるに値すると直感でわかっていた。この人なら救ってくれるかもしれない、そう思うに充分に値すると思えた。
「ですが……この事象の地平面に隔離されたこの現象の中では私とあなたしか知り得ないのデスよ。ここでのやり取りはね……」
アルトゥロの発するマナで深緑に包まれた二人の世界がますます白みが増す。
「アルトゥロ!!」
深緑が薄く薄く、白い光に変わっていく。そして同じように二人の姿の輪郭が滲むように消え始めた。
「私はあなたが生み出したこの現象をよく知っていました。大災と呼ばれたその日に起きた現象です。おそらくは愛弟子の記憶に残っているでしょうから、どういったものかは説明は省きますよ」
ユウトはアルトゥロの腕を掴もうと手を伸ばすが、見えない力に阻害されて掴む事が出来なかった。だがそれでも必死で掴もうともがいていた。その様子にアルトゥロは思わず微笑む。
「私の心は彼女の魔法に囚われたままでした……ですがここで決別する事が出来ました。そのことについてはあなたに感謝しなければなりません。今も昔もカリューダを悪の権化に、あるいは想像で神格化してどれも間違った解釈で理解している愚かな生物が悉く嫌いでした。それは私も同じデス」
「アルトゥロ!待てよ!っくそぉ!!」
「少し羨ましいデス。こうも簡単に大災の日に起きた事を願っただけで起こせるあなたが。しかしそれも才能の一つ。羨んでも仕方ありません。私はあなたから聖杯を奪ってからこの現象を起こそうとしていましたが無理だとわかりました。ですから、私は私のやり方で成し遂げようと思います。ええ。ええ」
「待てって言ってるだろ!!」
「また会いましょう。憎き愛しき後継者……」
「やめろおおおおおおお!!」
アルトゥロは指を鳴らすと、光が爆発したかのように輝き出した。
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深緑の光がユウトから一本の柱のように剣舞館の天井を貫く勢いで立ち上ると、雷光の如く瞬間に広がった。
光が消え去った後、ユウトとマリアが倒れていた。
しばらくしても動かない二人の様子を確認しに数人の審判が舞台上に上がって確認した後
両者意識を失って試合の継続が困難として
引き分けが告げられた。




