第五章 55:双剣
第五章 55
純黒の瞳に睨まれたシャクナリは思わず唾を飲み、両手をエミグランに向けて構えた。
――なんやなんやあの蛇みたいな真っ黒のバケモンは……あんなん聞いてへんで……――
「お主、マナの動きを察知する力に長けておるようじゃな。相手の行動をマナが先んじてお主に知覚させる事で行動を決定する……持ち前の運動能力も良きように作用しているようじゃな」
「……だからなんやねんな?」
エミグランは突っぱねるように言うシャクナリが子供のように見えて思わず苦笑した。
「フフフ……まあそうつっかかるな……会話もできないではないか……余裕ぶってはおるが心は怯えておるの?」
「だから!だったらなんやねんなって聞いてんねん!こんな大ごとを引き起こして……ただで済むと思ってるんか?」
「ふむ……わしは五百年前に無理やり奪われたものを取り返しに来たまでじゃ」
「フン……この国のことかいな?残念やったなぁ!もうこの国は昔の面影すらない。その意味はアンタが一番よくわかるはずや!」
「お主は……この国の民がアルトゥロによって生かされていることを知っておるのじゃな……しかしいけすかぬな。五百年前を見たこともない小娘が……」
「はぁ?――」
情けない相槌を返すと、エミグランの純黒の眼から黒い涙が溢れて止まることなく足元に落ちる。黒い涙は足元に広がると、穴が空いたように見えた。
「大災と呼ばれたあの日……この国は滅びかけた。いや、国民の有無で国を定義するなら言うなら滅んでおった。しかしカリューダ様が生み出した秘術の正当後継者がアルトゥロに移った事で最悪のシナリオを実行された。」
アシュリーは自らの肘を癒しながら固唾を飲んでエミグランの話に集中していた。昔語りを全くと言っていいほどしないエミグランの言葉は、貴重という言葉が陳腐に感じるほど価値の高いものだった。
エミグランは純黒の眼でシャクナリの行動を制しながら続ける。
「残ったのは王室のニンゲン、イクス教の上級神官とごく僅かのニンゲンと獣人の国民……これでは困るとニンゲンはアルトゥロの力に頼り国民を徐々に蘇らせた。なんせ金蔓じゃからの」
「へぇ。おばあちゃんの昔語りはまだ長いんかいな?」
「フフフ……体がこわばって逃げることもできない小娘。黙ってありがたく聞けばよかろう?」
シャクナリは事実、体が思うように動かなかった。そして、聞けと余裕綽々に言うエミグランに何か術にかけられたのだと確信した。
――あのババァ……あの眼は術を使うためのものやったんやな……不覚や……――
「国を再構するにも必要なのはヒトと金じゃ。金を搾取するニンゲンが欲しかった王室はアルトゥロの秘術でヒトが日々目に見えて蘇り増えていく様子に満足した。諸外国の首脳は大災が起こっても復興のカバーストーリーをまともに信じた。大災が起きようともヴァイガル国は何度でも蘇ると……ニンゲンの浅はかさも際立っておるな」
「よう知ってはるねぇ? その当時アンタも大臣だったんやろ?同罪やないか」
「わしは反対した。故に汚名を着せられることになる。僅かでもヒトの良心を信じたワシの過失でもあるが……まあそれは良い。この国は今でもなおアルトゥロの秘術で八割のヒトがプラトリカの海が産み出した者じゃ……こうやって戦争が起きれば海に還して終わればまた産み出すのじゃろう。この国の王室のために金を運ぶだけの生命となっての」
ギオンはエミグランの心中を慮ると憤りのあまり地面を叩きつけた。
叩きつけて痺れる手を力一杯握りしめ、変わって
「なんと愚かな!己の都合や保身のために人間を産み出したというのか!」
「そないなこと言うてもうちにもおたくにも関係ないことやん? まあ聞いた話と比べたらほとんど合ってるけどな」
間に割り込むように吠えるギオンを言葉で制すと、途端にシャクナリの背中に悪寒が走る。
先ほどまで目の前にいたエミグランがいつのまにか後ろに立って首元を優しく、そして逃げられないほどに殺気を伝えていた。
「誰と話しておる。年寄りの戯言には付き合っておられんか?」
「あ、あ……」
「見えなかった……とでも言いたげじゃな?」
事実見えなかった。優しく触れてはいるが、伝わる力と殺気で一捻りすれば首の骨ごとへし折られるだろう。
途端に滲む冷や汗が首筋を伝い、呼吸が荒くなる。
「わしの最大の懸念は『聖書記』……久しぶりに彼の国に訪れた時に確信したよ、ああ、もう聖書記の力は失われたのじゃなと。国への出入りを禁じられたわしが悠々と入国できるのじゃからな? 嬉しさのあまり勢い余ってプラトリカの海で産み出された門番の兵士を海に還してしまったがの……」
指先の力が強くなり、指が食い込む。
「アルトゥロは全てを知る者に執着した。何せあのカリューダ様の聖杯を受け継ぐ唯一のニンゲンじゃからの。全てを知る者たちをダイバ国に向かわせたのもアルトゥロの注意を向けさせるため……その隙にギオン達のおかげでここまで取り戻すことができた……」
殺気が、鋭いやいばが背中を突くように感じた。
「わしが丹精込めて築き上げた国……前王室の血筋をたった無能どもは城の中じゃな?」
――あかん……殺される――
今まで生きてきて感じたことのない恐怖がシャクナリを包み込む。
「わしから奪ったもの……全て返してもらうぞ」
「うあああああああああああああ!」
シャクナリの受けていた恐怖が一気に膨れ上がると、思わずなれない悲鳴をあげた。
その一瞬にエミグランの指と術が緩むとシャクナリは這々の体で一度も振り向かずに逃げ出した。
――あかんあかんあかんあかん!あんなの化け物やんか!長生きなババァちゃうやんか!あんなの相手に出来へんわ!――
シャクナリはこれまで負けたことがなかった。出会う生き物全てが自然と自分より弱いと思っていた。
長い年月を経て今まで自分より強い生物などいないと思い込んでいた。
後ろからあの触手が襲ってきたら……術をかけられて追いかけられてきたら……
初めて味わう死の恐怖。内股から生ぬるい何かが漏れるのも気にもとめず必死に逃げた。
――死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!まだ生きたいんやうちは!――
下腹部が軋むように痛むことも忘れて、ただ逃げ出した。
「……意外と肝が小さい娘じゃな」
エミグランは逃げ出すシャクナリを追おうともせず、目を閉じて純黒の瞳を元に戻した。
「エミグラン様!」
肘の傷を治したアシュリーが駆け寄り立膝をつく。
「まさかこちらにお見えになっているとは知らず……」
「良いよ。わしも内密にしておったからの。ミシェルの儀式は神殿で行われておるからの。リンも一緒じゃ」
「そうですか……しかし一思いにされなかったのはなぜでしょうか?」
「フフフ……わしはお主たちの敬う心を何よりも尊ぶ。しかし生を実感する生の充足はあのようなもの達がいる事なのじゃよ」
「は、はぁ……」
「いつか殺してやる……そう思う者がいてくれる方がわしが今生きていると実感できる」
「え、エミグラン様?」
白檀扇子で顔を見て扇ぎ
「なに、殺されはせんよ。絶対にの」
絶対に。
嘘を言わないエミグランの絶対という言葉にアシュリーは孤独を感じた。
「さて、ギオンよ、立てるか?」
「……問題ありません」
隻眼になったギオンの太くたくましい腕を撫でながら何度か頷くエミグランにアシュリーは思わず涙がこぼれた。
そこには数百年もの間、大切なものを奪われ、悪名が蔓延る世界で寂寞を感じさせずに生きてきた強さと並ぶように孤独なハーフエルフに見えた。
「さて、聖書記誕生の瞬間を皆で迎えようかね」
声色さえも、どこか寂しさがあった。
**************
キーヴィ達はギオンの遠吠えで退却を命じられて必死に逃げていた。
「その噴水を超えて真っ直ぐ行けば城門だ!」
「あにちぃよく覚えてるなぁ」
「ったりめーだ!食ったもんと一緒に記憶をなくすおめぇとは頭の作りがちげぇんだよ!」
ギオンと共に駆け抜けた道をまた戻ると遠くから爪音が近づいていた。追っ手だと直ぐに察したキーヴィとサイは、お互いを見て頷く。
後ろには獣人傭兵がついてきていた。怪我をしたものを背負う者もいて、聞こえる爪音から――俺たちが壁になるしかないな――とサイはキーヴィに指差して立ち位置を指示した。
キーヴィもサイの言わんとする事はわかっていた。
「オメェら!先に行け!」
と獣人傭兵達を先に進ませた。
部隊の後方にいたユーマはサイに駆け寄ると、視線をあたりに巡らせる。やってくる何かの気配を読み取り、かなりの手練だと感じた。
「意外と少ない……いや一人か……おそらく騎士団長クラスかと」
「おぅ!だが相手が誰だって関係ねぇよなぁ? ギオンから任されたんだぜ? 俺たちはヨォ」
「当然。言われなくとも同志は死守します」
「馬鹿野郎!ユーマも仲間も死なせてたまるかよ!全員生きて帰るぜ!」
とはいうものの、騎士団長クラスの猛者が現れてどうにかなるほどの根拠はなかった。
最悪は自分の命と引き換えに、サイは一人覚悟を決めた。
爪音が近づき、鍛えられた馬にまたがるは女戦士。腰に二振りの剣を携えて立ちはだかる三人の獣人の前で止まった。
「ここにいたのか獣人共」
「へっ、あんたも俺たちが苦手なやつか?」
「我が名はヴァイガル国騎士イロリナ・シャルリエ 我が国を脅かす獣人殺しエミグランの配下の者たちだな? 一人残らず生かして帰さん!」
二振りの剣を抜いて両手で構えると馬から飛び降りた。
「威勢のいい姉ちゃんだな、ちょうど暴れたりねぇと思ってたんだよぉ!」
サイの六尺棒が風を切ってイロリナの頭を狙うが、双剣をクロスさせて受け止めいなす。
「オメェら!早く逃げろ!」
サイは大声で誰にいうでもなくそういうと、いなされた反動を利用してイロリナに攻撃を仕掛ける。
「ユーマぁ! ここは俺とキーヴィに任せろ!」
「承知」
ユーマは逃げる仲間たちの方を向いた。
「どこを見ている?」
イロリナは突いてきた六尺棒に足をかけて、獣人たちの方に飛んだ。
「逃さぬ!」
「ユーマぁ! 避けろ!」
空中から双剣を向けてまるで獲物を捉えた鷹のように迫る。
「ぐっ!」
脚にちくりとした痛みを感じた後、直ぐに激痛に変わった。
「ぐあっっ!!」
立っていられない痛みで走っていたユーマは足の自由が奪われたようにもつれて前のめりに転げた。
「ユーマぁぁ!」
「まずいぞ……まずいぞあにちぃ!」
イロリナはユーマを辻斬りしたまま、逃げる獣人傭兵に向けて走り出していた。
「この国に歯向かう者、争う者、楯突く者……皆、我が剣にひれ伏せ!」
イロリナが獣人傭兵たちの近くで踊り子のように回転し、腕を広げてぴたりと止まる。
「そして……死ね!」
幾人かの獣人が斬られたことにようやく気がついたのは、首元から視界を覆うほど自分の血飛沫が吹き出してからだった。
イロリナは驚き叫ぶ獣人傭兵の首を次々と双剣で突き刺し始めた。
「何やってんだてめぇぇぇぇぇ!!」
サイは体毛が逆立ち怒髪天をつく。
その間にも次々と獣人傭兵は首を剣で突かれてのたうち回り、死に至る。
「うらああああああああ!!」
サイはイロリナに飛びかかると、するりとかわされた。そして別の獣人達の首を斬り、突く。
あっという間に十人に満たない獣人が溢れる血の海で微動だにしなくなっていた。
「なにしやがんだてめぇはよお!!」
顔をこれまで見たことがないほど赤くしたサイは、六尺棒すら投げ捨ててイロリナに爪を歯を立ててやらんと飛びかかった。
「馬鹿が……なぜ無事に逃げれると思い込んでいるのか……いくつもの犠牲を乗り越えて勝利は得られる。何も傷付かず、何も失わず、この国が手に入るとでも思ったか!」
飛びかかったサイの両方の二の腕に双剣が突き立てられた。
「うぐあああああああああああ!」
「あいにく皆殺しの予定なのでね……貴様の戯言に付き合う暇はない。守るはずだった仲間のいく末、その腕を無くして見ているが良い! ひとしきり味わった後に一人で先に逝った仲間達を追って黄泉に逝くがよい!」
イロリナに迷いはなにもない。
怒りでもなく、恨みでもなく、愛するこの国を蹂躙しようとする獣人に神の裁きを与えているとしか考えていなかった。
サイの腕が使い物にならなくなる事など、なんの興味もなかった。




