第五章 52:殺意
瓦解する家屋から立ち昇る土埃の奥からムクムクと大木のような太い腕が二本、空に向かって伸びると獣人兵団の頭上に倒れてきた。
「うああああぁ!! 逃げろ!」
「やべぇやべぇやべぇ!! 潰されて死ぬぞぉ!!」
巨大な腕を見上げながら逃げる獣人兵団はそれぞれが命を守るために四散した。
だが、周りを取り囲んでいたヴァイガル兵に盾で逃げ場を阻まれ、数名が巨大な腕に叩き潰された。
指一つが人間の背丈ほどもある巨大な手は、地面を掴み手繰り寄せるように土煙から本体を表す。
あまりにも大きな身体の男だった。二階建ての建物をゆうに越すほど大きく、髪はほとんど抜け落ちていた。どこを見ているのかわからないその目は真っ白で、全身の至る所が腐っていて、ひどく腐った肉が崩れて落ち悪臭を撒き散らしながらゆっくりと向かってきていた。
「クセェと思ったのはこいつの臭いだなぁ!」
キーヴィが鼻を両手の指で塞ぎながら巨人と距離を取る。
目に見えて形勢逆転できたようにみえたがシャクナリは舌打ちをして不満だった。
「思ったよりも精度悪いんやな……まあしゃあないか、アルトゥロはんが出来損ないって言うてたしなぁ……」
巨人は焦点の合わない目で獣人達を一通り見てから顎をガクガク振るわせながら「カカカカカカカカ……」とキツツキが木をつくような声を出して威嚇する。
巨人の威嚇が耳障りなサイは舌打ちして
「キーヴィ!こいつと戦え! 本気でやれ!!」
と叫ぶように言った。
「あにちぃ!本気でやっていいのか?」
「ったりめーだ!そのためにオメエにたらふく飯を食わせたんだろーがよ!そのデカブツをぐちゃぐちゃにしてにやりやがれ!」
「いよおおおおし!! おでにまかせろぉぉ!!」
サイから許しを得たキーヴィは意気揚々にまだ地面に倒れ込んでいた巨人の腕にしがみついた。
「こんの悪い腕がああああ!!」
しがみついた腕を持ち上げるように力を入れる。顔が赤くなり鼻息も荒く雄叫びを上げながら腕を締め上げると、巨人の腕にキーヴィの腕がめり込んで埋まる。
あり得ない埋まり方をするキーヴィがつかむ巨人の腕は、皮が裂けて肉が搾り出されるように溢れはじめた。
キーヴィは力をこめるほど、自らの体表から灰褐色で見るからに固そうな毛が生えてきた。まるで踏ん張って全身の毛を押し出しているかのようにもみえた。
サイは巨人の腕に巻き込まれた獣人を救い出しながらキーヴィに向かって叫んだ。
「やれぇ!キーヴィ! 怪我してる奴らは俺に任せろ!」
「おう!!」
キーヴィはサイの激励にさらに力を込める。
ミチミチと筋繊維をひねりちぎる感触は、痛覚が鈍そうな巨人にも痛みとなって伝わっているのか反対の手でキーヴィを叩き潰そうと振り下ろす。
しかし、キーヴィは微動だにせず振り下ろす手よりも早く巨人の腕の肉を潰して骨に達した。
「手ぐせの悪いヤツはこうしてやる!」
丸太のような巨人の骨を腕で挟み、引き寄せて背負い投げするように力をこめると、ミシミシと木が折れるような音を立てた直後、キーヴィの両腕が巨人の腕からすっぽ抜けると同時に巨人の腕がくの字に曲がった。
「オオオオオオオオ!!」
巨人の雄叫びが響き渡り、キーヴィに向けて蚊を叩くように手が振り下ろされた。
「キーヴィ!」
上だ!という声が届く前にキーヴィの頭上に巨人の手が振り下ろされた。
近くで見ていた獣人は思わず目を背けていたが、サイは目を離さなかった。キーヴィの馬鹿力を知っていたからだ。叩き潰されるはずがないと信じていた。
わずかに地面と巨人の手に隙間があるのを見逃さなかったサイはもう一度キーヴィの名前を呼んだ。
「おめぇ手ぐせ悪いな、本当によぉ!!」
巨人の手の甲がモゴモゴと動くと皮膚を突き破ってキーヴィが飛び出してきた。
「お前の肉はだいぶ腐ってんな……だから、食いたくもねぇや!」
雄叫びをあげるキーヴィは、全身をくまなく硬い灰褐色の毛に覆われ、口元から前に長く突き出した二本の牙が生えていた。
キーヴィの変貌にサイは安心して口元が緩んで
「おめぇの本気を見せてみやがれ! 俺たちは周りの兵をなんとかするからよォ!!」
と檄を飛ばした
ヴァイガル兵は巨人の周りから誰も逃さないように盾を張り巡らせて獣人兵を囲っているが、命懸けで向かってくる獣人を留めることが出来るはずがなく、罵声と怒声が入り混じる獣人兵の猛攻に耐えられず獣人兵達を囲んでいた隊形は脆くも崩されはじめた。
特にギオン、ユーマ、アシュリーがいる辺りは最も簡単に崩れていた。
「おでの本気……うけてみろぉぉぉ!!」
キーヴィは顎を引いて巨人の脚を狙って走り出して頭突きをした。二本の牙が巨人の丸太のようなふくらはぎの下部に突き刺さると首を捻り突き刺した牙が巨人の肉を抉り切った。
「カカカ……カカカカカカカカアアアアアアアアア!!」
貫いた肉から鼻を捻じ曲げるほどの腐臭、そしてドス黒い血飛沫がキーヴィに勢いよく吹き付けられた。
脚の一部を抉られた巨人は体勢を崩し、キーヴィはまた反対の脚に向かって円弧を描いて駆ける。
「腱を断つぞぉ!! 動けなくしてやる!」
片膝をついた巨人に向かって今度は反対の脚を目掛けて突っ込んだ。
動きが鈍くなった事で狙いやすく、牙にコリっとした感触があった。狙い通りに腱を捉えて雄叫びを上げながら腱を牙で刺し、まるで切り株を掘り出すように腱を足首から剥き出させた。
巨人は小刻みに顎を振るわせてキーヴィを払おうと腱が剥き出しになった部位を目掛けて穴の空いた平手でたたいた。キーヴィはうまく避けたが、その拍子に巨人の小指と薬指に剥き出しになっていた腱が絡まっていた。
巨人は腱の事など構わずに、キーヴィを目で追いながらもう一度叩き潰さんと指に絡まった自らの腱を気にすることなく手を振り上げると、パチンと手を叩いたような音を立てて腱が引きちぎれた。
巨人の無謀な行動にアシュリーは眉間に皺を寄せた。
「なんてことなの……痛みを感じないのかしら」
「愚かな事を……この国は同族同胞の命をも戦いの道具にしか思わぬのか!これがこの国のやり方か!!」
ギオンは巨人の出自など知る由もなかったが、あまりの扱いに哀れに思い、シャクナリを糾弾した。
「なんやうち達の事を極悪非道の鬼みたいに言うてはりますけど、そうなりたいと願ったのはそこのデカブツなんやで?」
「なんと……愚かな……」
この巨人が自ら望んだと知り、本当にこんな姿を望んだのか、希望通りなのか、家族は知っているのか、友人は止めなかったのかとさまざまな憶測が生まれては不敵に笑むシャクナリの存在のせいですぐに捨てる。
「名前は……なんやったか……モブリだったかモブルだったかそんな名前や。」
巨人モブルは両手を地面につけて立ちあがろうとしたが腱の切れた片足が思うように動かず片膝をついたまま動かない脚を睨む。
「今だ!キーヴィがデカブツの動きとめたぜ!!」
サイはキーヴィが作り出した好機を逃してはならないと動ける獣人兵を捲し立てた。
モブルは片膝をついたまま、井戸の底に響くような深く響く声を漏らしながら片腕を虫を払うように振り払い始めた。
獣人兵団だけを薙ぎ払うかと思いきや、敵味方の概念などないらしい腐ったモブルは取り囲むヴァイガル兵も一緒くたに腕を振り回す。
獣人兵は蜘蛛の子を散らすように避けるが、取り囲むヴァイガル兵は重装兵で盾を持っている。比較的遅い動きの腐ったモブルの薙ぎ払いを走って避ける事などできず、盾で受け止めるしかない。
しかしモブルの薙ぎ払いは、盾や重装をものともせず十数人を存外な力で打ち払った。
悲鳴が遠のくほど吹き飛ばされ、中には近くの壁に叩きつけられそのまま動かなくなった者もいた。
モブルの標的は獣人ではない。そして味方でもない。
そう理解した重装兵は次第に後退りし始めた。
誰もが思った。次は自分の番かもしれない。
鎧の中で恐怖で乱れる呼吸と共に油汗がわかるほどにじむ。
死の恐怖に立ちはだかるどころか前進などできるはずもなかった。
ヴァイガル兵の隊形が広がり始めていることに呆れてため息つくシャクナリは、懐から拳よりも少し小さい魔石を取り出した。
「街はあまり破壊せんようにと言われてるんやけど……まあしゃぁないか。なんやったら作り直せばええんやし」
シャクナリが魔石を握り込むと、指の隙間から明瞭な赤い光が突き破るように放射した。
ギオンは「あの魔石……何の効果だ?」と新たな脅威を恨むように漏らすとそばにいたアシュリーは聞き逃さず
「魔石の赤い光は明確に相手を損傷及び殺傷する意図を持った術式が組まれている証左とエミグラン様から学びました。ギオン様、ご注意を」と注意を促した。
ダイバ国で比類なき天才と称されたシャクナリの存在はギオンにとって脅威だった。
力で押してどうにかなるような相手ではないと彼女の醸し出す達人の雰囲気と不敵な笑みがギオンに二の足を踏ませている。
せめて巨人とキーヴィの戦いに関与させない事くらいしかできないが、魔石を使うとなると話は変わってくる。
――一太刀、振るってみるか――
悟られないように大剣をほんの少し握り込む。
「やめぇやお二人さん? 無駄なことやで?」
わずかな力の動きを見逃さなかったシャクナリは釘を刺すように言う。
「どの口が言うのよ!人間をモノとして扱う下賎な女め!」
アシュリーが手の中に紅い炎を生み出してシャクナリに放つと鼻で笑うシャクナリは「まあそう思うやんな?普通は」と二人を慮って同情すると紅い炎の塊を難なく避ける。
だが避けた同じ方向にギオンが大剣でシャクナリの胴を薙ぎ払おうとした。
「うん。そこまでは余裕で読めてるのよ」
大剣がシャクナリの胴に触れる寸前にくぐって避けた。
シャクナリの手の中にある魔石は一層輝くと、寿命が切れたように光力を失って行き、消えた。
「はいおしまい。」
同時に魔力を失った魔石は灰褐色のただの石となってシャクナリの手からこぼれ落ちた。
片手が不自由でも難なく攻撃を避けるシャクナリにアシュリーは苛立つ。
「相手は人間……私たちが遅れをとるはずはないのよ……アシュリー」
自らの名前を呼んで自分を客観的に落ち着かせようとする
が、シャクナリの実力の底はまだ見えていない。それどころか遊んでいるようにも見えた。
「アシュリーよ。人間だからとて侮るなよ」
そうだ。人間と同じと思わないほうが良い。こいつは人間でも獣人でもない。人智を超えた魔物か魔女と同じレベルの生き物だ。アシュリーはギオンの忠告に一つ深く呼吸して肩の力を抜く。
「それよりもお二人さん。あのデカブツはどうなってもええんか?」
シャクナリに集中していたギオンとアシュリーはサイ達の方を振り返った。
巨人モブルは先ほどとは打って変わって、全身の血管が網にでもかかったようにら肌に浮き出て、腹の底が震えるような雄叫びをあげていた。
「あのデカブツに狂戦士の祝福を施したったわ。確かおたくのエミグランはんが生み出した魔石やな。」
モブルは眼下に映る動く兵達をめがけて手を振り下ろす。先ほどとは比べ物にならない速さで何度も何度も。
「サイ!キーヴィ!」
暴れるモブルの足元にいるはずの二人はギオンからはモブルの巻き起こす砂塵で見えなかった。
「フフフフフ……ええなあ。おたくのとこの獣人はん達もエミグランはんの秘術で逝けるなんてさぞ光栄なんやろなぁ……まあうちのとこの兵も死んでまうけども」
「なんて事……くそっ……」
アシュリーは悔しさを吐露するその刹那
音もせず懐に飛び込んできたシャクナリの肘が鳩尾を貫く。
「ガ……はっ……」
「隙あり……やね?」
胸元が抉られたような衝撃だった。痛みがずんと広がる前に呼吸を小さく連続させて堪える。
「アシュリー!」
身動きの取れなくなったアシュリーを後ろ回し蹴りでこめかみを踵で弾くように蹴ると、飛ばされたアシュリーの体をギオンが優しく受け止めた。
「優しいんやな、ワンちゃんは」
「アシュリー! 」
こめかみの皮膚が切れて出血していたアシュリーは朦朧な目をギオンの呼び声で我を取り戻し焦点が合った。
こめかみを押さえ、手のひらを見ると眉間に皺寄せてシャクナリを睨みつける。
「くっ……なんて速さなの……」
「甘いわ。他人の生死を気にしている暇があったらうちをどうするか考えたほうがええんとちゃう? あんま隙だらけな姿見せるのはうちに失礼やろ?今度は殺すで?」
隙を見せたかもしれないが僅かだったはずだ。それでも的確に急所を突かれてリカバリーできないほど行動制御されるとは思っておらず、ギオンのシャクナリ評が正しいことを思い知らされる。
ただの人間ではない。獣人をも凌駕する能力の持ち主かもしれない。
後ろでは巨人の叫び声に入り混じって獣人兵かヴァイガル兵の叫び声や悲鳴が折り重なって聞こえてくる。
「今は気にするなよアシュリー。目前の敵を行動不能にさせなければいずれにせよ某もお主も命はない」
「はいっ」
どうなっているか目視することも叶わないのは、不敵に笑い続けるシャクナリがこちらを見ているからだ。
その目線には隠していたのかこれまで感じたことがない殺気に満ちていた。
脚の震えは武者震いではなく、恐怖でシャクナリにジトリと見られるだけで心臓が止まりそうなほどで、できることなら尻尾を巻いて逃げたかった。
「さぁ。おたくらの後ろで血祭りが始まっとるけど、うちも楽しませてな?ふふっ」
口角が上がりきったシャクナリは笑いながらアシュリーに飛びかかった。




