第五章 36:食事
――ドァンクに……魔女の末裔が……三人も……――
エミグランの告白は、アシュリーの言葉を刈り取り、絶句させるには充分なものだった。
世界を混沌に落としたとされるカリューダの聖杯を受け継ぐユウトに、知識を持つシロ。
ローシアの先祖であるマーシィ。
そしてミシェルの祖先であるクライヌリッシュ。
過去にその名を轟かせた三人の大魔女の末裔と聖杯を受け継ぐ者が集まることが偶然に起こるなんてことがあるはずがなく、ふと見た目視線の先のエミグランの口元は笑っていた。
「全てを知る者が現れ、魔女の末裔が一堂に会する……ようやくこの機会を得たのじゃ」
「ま、待ってくださいエミグラン様」
まだ理解が追いつかないアシュリーは、話を進めようとしたエミグランを止めた。
「私の認識ではエミグラン様は、あの姉妹同様に『魔女なき世界』を目指している認識でございます。それなのに……全てを知る者はともかくミシェルまで……」
「魔女なき世界を作るために魔女に関わるものを集め、そのうちの一人を国の中心人物にしようとすることはおかしいと言いたいのかの?」
「……いえ、エミグラン様であれば何かお考えがあってのことだと考えます……」
「隠さなくてもよい。おかしいとは思わぬか?」
「……疑問には思います」
そう返すしかなかった。エミグランを無垢に信じて今まで仕えてきたアシュリーでさえも、全てを知る者であるユウトが現れてからは怒涛と言えるほど状況が目まぐるしく動き始めている事を実感していた。
何があってもおかしくない。
いつの間にかそう考えるようになっていたが、まさか世界から忌み嫌われた魔女カリューダだけではなく、大災の後は残り二人の魔女も後を追ったかのように姿や噂までも夢幻か泡のように弾けて消えたとされている。
通説として、大災を引き起こしたカリューダと同類と見られる魔女の風当たりが厳しくなる事を懸念して表舞台から姿を消した、とされているが、正式な生死の記録は残っていない。
だからこそ今まで脈々と血筋を受け継いで子孫がいても不思議ではないが、カリューダの弟子であるエミグランの下に三人の魔女に関連する人物が集った奇跡は、もはや奇跡としても話が出来すぎていて、エミグランが描いたシナリオ通りと考える方が妥当に思えた。
しかしアシュリーはエミグランがもし狙って三人の末裔を集めたのだとしても、魔女なき世界を目指すローシア達の話を聞いて、共に目指していたエミグランと姉妹の言っていることとやっている事が相反していると思った。
聖書記を魔女の末裔が拝命してずっと素性を隠し通せる保証もないやり方は腑に落ちなかった。
エミグランはいつもアシュリーに接する時のにこやかな笑顔で
「案ずるな。全て予定通りじゃよ」
と安心させるように言ったが、それでも疑問も不安も拭いきれないままだったので、意を決してアシュリーが問う。
「エミグラン様……何かお考えがあっての事だと理解しています……ですが、ヴァイガル国と争うのは国民の疲弊や不満が溜まっていく事になろうかと思います」
「……そうじゃな」
「……お言葉ですが、争わずに解決する方法はないのでしょうか?」
争いは避けたいと願う理由はギオンの存在もあった。オルジアの側で護衛に当たっているが、もしヴァイガル国の兵と交わる事があれば一触即発の危険性をはらむ情勢だ。
ギオンがそう簡単に討たれるとは思っていないが、万が一でも可能性はないほうが良いに決まっているし、アシュリーも敵とはいえ、同じように命令で動く兵を討つ覚悟はまだなかった。
相手にも人生がある。どちらかが終わるまで戦う覚悟はそう簡単にできるものではない。
「……戦う事が怖いか?」
「本音を言いますと……こわい……です」
正直に答えた。だが、もう引けないところまで迫っていることはわかっていた。エミグランの前で本音を漏らして、泣き言を言いたかったのかもしれないと、アシュリーは目尻から涙をこぼして自分の気持ちがようやくわかった。
怖いのだ。想像するだけで震えるほどに。
ようやく認めた心に体は震え出した。明日には死ぬかもしれない。街が今度こそ炎に包まれるかもしれない。そう考えるだけで脚が震えた。
つい数日まで平穏そのものだったドァンク街並みも、屈強な男や獣人が鼻息荒く動いていて、腕に自信があるアシュリーでさえも穏当な気持ちにはなれるはずがなかった。
もし戦争が始まり、ヴァイガル国がドァンクの街中まで押し込まれるような事があれば、今見ているものが全て失われるかもしれないという恐怖がずっと心にこびりついたように離れない。
涙を拭っても押し出されるようにまた溢れ、呼吸が乱れる。
エミグランがハンカチを差し出すと、持ち物を汚してはならないと手を振って「お気持ちだけで」と思いだけを受け取った。
「怖くて当たり前じゃ。戦いはやってみないとわからない事があるのでな、わしとて無事に明日が迎えられるかわからんよ」
「……はい」
「今回はわしが仕掛けたが、何もしなければ奴はドァンクに暗躍して時が過ぎるほどこちらが不利になる事が目に見えておる……タイミングとしては今しかないのじゃ……やらなければやられる」
エミグランの決意は声に表れていた。
「はい……」
涙を拭い切って大きく呼吸をして整える。気持ちがまだ戦いに向いていなくても相手はやってくるのだ。街を蹂躙するために。そんなことは絶対にさせないと守る気持ちが前に出ると、泣いている場合ではないと自分を戒めた。
涙が止まるとエミグランはにこやかに微笑んだ。
アシュリーはまたエミグランに質問をした。
「アルトゥロの力とはどのようなものなのでしょうか?」
ヴァイガル国の主導権をアルトゥロが握っているのであれば、前線に出てくることも考えられると思っての質問だった。
「やつの力は二つある。一つは滅びた肉体を復元できるプラトリカの海の所有権と魂の器である聖杯を具現化する力。これはカリューダ様の秘術じゃ。死者の肉体を生み出し、聖杯を授ける事で死者が甦る事ができる。カリューダ様の肉体はヴァイガル国の姫が別のヒトの聖杯を授ける事で存在出来ている。本当の聖杯は全てを知る者が授かっておる」
プラトリカの海と聖杯の話はアシュリーも知っていた。だが、それは一つの力としてエミグランは説明した。
「もう一つは、ヒトでありながらハーフエルフのわしと同じ時を過ごしている理由になるが、奴は自分の体液を他人の体内に送り込む事で、その人物の人格を奪う事ができる……」
「……え?」
エミグランは視線を窓に移して遠くを見た。
「あの日……ユーシンがイシュメルを屠った日……わしはすぐにわかった。アルトゥロがユーシンを乗っ取ったのだと……」
「そんな……!」
「もし乗っ取られても、わしが解除する術を知っておるからと思っておったが、結果は知っての通り……奴が一枚上手だったのじゃ……これはわしの驕りじゃ……かわいそうな事をしてしまったと今でも思う。もっと早く気づいておれば……」
窓の外に視線を向けたまま目を閉じたエミグランは、顎を下げて首を横に振った。
「奴は五百年前から人格だけが存在するヒト。今の姿は仮初のもの。数えきれないヒトを乗っ取って今まで生きてきた……いわば怨念のようなものじゃ」
「怨念……」
「やつの足跡はずっと追っておった。しかしアルトゥロの力は大災のあの日から全く使われる事なかった。全くわからないままわしは彼の国を追い出された……それから奴はヴァイガル国の裏側で暗躍していたのじゃろう。今になってようやく力を使い始めた。全てを知る者が現れてからの……」
秘密を告白したあと、まるで背負っていた重荷が下りたかのように一度大きく息を吸い込んで、吐いた。
「やっと……やっと見つけたのじゃ。もし次に形を潜めたら、もう追いかけられぬかもしれぬ……今しかないのじゃ……」
アシュリーはエミグランの目線が鋭くなったのを見て、アルトゥロとエミグランの間に確執があるのではないかと思った。何か気の利いた言葉をと考えているうちにエミグランはアシュリーに向き直った。
「よいかアシュリー、奴は勝者のない戦いをするつもりじゃ」
「勝者の……ない戦い?」
エミグランの言う「勝者のない」という意味が全くわからなかった。
「……これだけは胸に命じておけ、ミシェルを何が何でも守り切るのじゃ」
「ミシェルを……それは……もちろん」
「わしはリンに命じた。その命と引き換えでも、わしのことは見捨ててでもミシェルを守れ、とな」
――!!
「そなたもそのつもりで挑んで欲しい。確固たる決意がなければ数日はここを離れるが良い」
アシュリーは唖然とした。
リンはエミグランが大切にしているメイドの一人だ。どこに行くにも必ずと言っていいほどリンがついていくくらいに、エミグランの身辺のほとんどを任されている。
エミグラン邸で、戦闘能力が頭抜けているリンでさえも、その命を引き換えにしてでもミシェルを守れというエミグランの発言は信じ難いものだった。
「……そんなにも熾烈な戦いになるのですか?」
「わしが二百年ぶりにヴァイガル国に行ったことを覚えておるかの?」
「え……はい。もちろんです」
「わしは入国を禁止されていたはずじゃ、しかし城門をくぐれた……もし聖書記が法として制定しておれば、わしは城門をくぐれなかったはずじゃ。城門をくぐったその時に確信したのじゃよ……彼の国の聖書記はもはや力はないとな」
「昔の、ちから?」
エミグランは頷いてから話を続けた。
「もし、聖書記が法として制定すればどんなことをしてもわしは彼の国に入ることは出来ない。もし法が制定されていたのなら、この身が砕け散ったかもしれん……じゃが、わしには確信があった。聖書記の力は失われておるとな」
聖書記の力がどんなものか全く想像つかないアシュリーの様子を見て、エミグランは含み笑った。
白檀扇子を広げて顔を仰ぎながら天井を見上げた。
「わしは本当の聖書記の力をミシェルに持たせる。そして、ヴァイガル国とドァンクの境に結界を張る。国の境……国境じゃな」
「国境……」
「そうじゃ。ミシェルが聖書記になった最初に制定する法は、ドァンク街近郊でヴァイガル国の軍事行動や斥候を禁ずる法を制定させる。もし出来たならドァンクを攻撃するヴァイガル国の兵は、どのような形になるかはわからぬが無力化される……そうなれば例えアルトゥロでさえも何も出来ぬだろう」
「そんな力が……」
「つまり、アルトゥロがミシェルの素性に気づき、全てを知る者を手に入れようとする画策は聖書記ミシェルによって阻止される事になろう。奴なら絶対に阻止しようとするじゃろう……」
アシュリーはようやく合点がいった。
「つまり……ミシェルが聖書記になることを全力で阻止するために攻めてくる……エミグラン様が仕掛けなくても襲ってくると言うことでしょうか……」
「……奴の目的は全てを知る者の聖杯じゃ。何百年も痕跡すら見せず大人しく顕現されるのを待ち続けた。そして見つけ出した今、国一つを動かして取りに来ておる……わしが動こうが動かまいが言わずもがな、じゃ」
エミグランは「すこし、話しすぎたかの」と言って執務机に置いてあった冷めたバニ茶をに口をつけた。
「ふう……」
生ぬるいバニ茶を机に置き、窓の外に鋭い視線を向けて、見ていた窓に近づいた。
その瞬間だった。
パリン!と甲高い音がエミグランから聞こえた。
――!!
アシュリーがエミグランが眺めている窓に視線を向けると、空から無数に飛んでくる物体が見え、エミグランの胸元ほどの窓硝子は部屋に向かって割れていた。
「……気が早いのぅ」
エミグランが右手を上げると矢が握られていた。
アシュリーはその矢に見覚えがあった。
「あの騎士団長の矢……――エミグラン様!」
持っていた純白のローブを投げ捨ててエミグランをだき抱えて倒れ込もうと駆け出し、両手を突き出して飛んだ。
「些細なことじゃ……アシュリー」
「うああああああっ!!」
アシュリーはエミグランに抱きつく直前で、見えない壁のようなものにぶつかったように弾かれてしまった。
床に倒れないよう受け身を取ってまたエミグランの方を見ると、瞳が純黒に染まっていた。
「アシュリー、少し静かにしておれ」
アシュリーは純黒に染まったエミグランの瞳が何を意味するのかを知っていた。
「――せっかちな男はどの時代でも損をするものよ……」
黒い霧がエミグランの足元の周りから徐々に現れると、無数のイソギンチャクの触手のようになってエミグランの周りを取り囲む。
風を切りながら無数に降ってきた矢を触手が全て見切って床に叩き落とした。
そしてエミグランの持っていた矢に先端が集まり吟味するようにうねうねとうごめく。
「……行け」
エミグランの号令に合わせて、獲物を狩る猟犬の群れのように触手たちは窓を全て破壊して外に飛び出していった。
「……すでにここに遊びに来れるほど穏当な状況でもないのでな。手段は選ばんよ」
アシュリーは恐る恐る破壊された窓に歩み寄って外を見ると、エミグランの黒い触手は正門を上から乗り越えてまとまってまっすぐ突き進んでいた。
「ふふふふ……はははははは!! 何をそんなに逃げるのか。遠くから矢を放てば逃げられるとでも思ったか?愚かなヒトよ!」
突然誰かに話しかけるように触手のいく先を見つめながら笑い出す純黒の瞳のエミグランにアシュリーの背中は凍りついた。
伸び続ける触手がぴたりと止まると今度は逆にエミグランに戻り始めた。
「……アシュリーよ、少し下がっておれ」
「……ですが、エミグラン様を置いて……」
エミグランは黒い職種を撫でた。すると触手は嬉しそうに脈を打つ。
「この子は追いかけっこが好きな子でな、狙ったものはどこまでも追いかけるのじゃ」
「……は、はい。私も初めて見ました」
「フフフ……滅多に出さないのには理由があってな、大飯食らいなのじゃ」
「大飯……食らい?」
「うむ。やめよと言っても食べる事を止めない癖があるのじゃよ」
触手はまだ波打っていた。エミグランの足元に何かを内側から送り込むように。
――!!
「……この子達が戻ってきた時に何を持って帰ってくるかわからんのでな、気分が悪くなるかも知れぬから下がって良いぞ。周りには賊はおらんようなのでな」
アシュリーは初めてエミグランに対して恐怖を覚えた。
――足元に送り込まれているものはきっと……――
触手が波打ち、エミグランは白檀扇子で顔を仰ぐ。
「まだ二、三人おったようじゃが逃げたようじゃ……まあその方が都合が良い……アシュリーや」
純黒の瞳がアシュリーを捉える。当のアシュリーは震えていた。
「フフフ……怖がらせてすまないね……あとすまないがリンに伝えておいてくれ」
「は、は、はい! 何を伝えれば……」
触手は波打つのをやめて、エミグランの足元に戻りながら霧となって消え始めた。そして瞳が純黒から元に戻りはじめると
「……今日の食事は要らぬ、とな」
そう言って一度だけ微笑んでからアシュリーに背を向けた。




